第十一章 空白
研究室の扉を前にして、私は一度だけ足を止めた。
緊張しているのかと問われれば、そうではないのだろう。
ただ、ここに立つという事実を、自分の中で一度整理する必要があった。
五年である。
長いようで、短い。
だが、人が変わるには十分な時間だ。
扉を開ける。
匂いが同じだった。
機械油と、冷却装置のかすかな金属臭。
それだけで、過去の光景が薄い膜のように重なった。
そこに、かつての私が立っている。
柏木が、せわしなく装置の調整をしている。
データの値がわずかに揺れるたび、眉をひそめて再計算をかける。
私は腕を組み、周囲に指示を飛ばしている。
効率を最優先に。
感情は不要だと。
結果がすべてだと。
あの男は、正しいと思っていたのだろう。
少なくとも、疑ってはいなかった。
見たくない顔だ。
だが、あれもまた、私である。
未熟で、傲慢で、世界の仕組みを理解したつもりになっていた若い研究者。
利権の流れも、政治の力学も、組織の思惑も、何一つ読めていなかった。
利用され、切り捨てられ、そしてすべてを失った。
失ってから、その重さを知った。
それが事実である。
◇◆◇◆
だが、不思議なことに。
あの頃の記憶を思い出しても、胸が焼けるような痛みはない。
もちろん、忘れたわけではない。
澪があの席でデータ処理をしていたことも。
由真の話を、休憩時間に小さく笑いながらしていたことも。
そして当時、同じ研究所に出入りしていたひよりと、
三人で窓際に立ち、夕日を眺めたことも。
すべて覚えている。
だが今は、それを喪失としてではなく、
ただ一つの風景として見ている自分がいる。
あの時間は、確かに存在していた。
それだけである。
それ以上でも、それ以下でもない。
それが、五年という時間なのだろう。
◇◆◇◆
私は何をしに戻ってきたのか。
感傷に浸るためではない。
赦しを請うためでもない。
研究を進めるためである。
それも、以前とは違う意味で。
当時の私は、成果のために研究をしていた。
証明のために、勝つために、認められるために。
だが今は違う。
必要だから、やる。
感情を燃料にするのではない。
感情を無視するのでもない。
すべてを前提にして進める。
それが、今の私の立ち位置である。
◇◆◇◆
ひよりの声が、ふとよぎる。
「もうちょっとだね」
「顔見てごらんよ、今、研究者の顔してる」
失敗して落ち込んだ夜もあった。
データが崩れ、仮説が瓦解した夜もあった。
一人なら、やめていただろう。
だが、笑い飛ばされた。
「そんな顔してる暇あるなら、次のデータ取りなさいよ」
そう言われて、私は苦笑した。
五年間で、私は一人で立っているわけではないことを知った。
それもまた、変化である。
◇◆◇◆
研究室を見渡す。
ここは、過去の私が追い出された場所だ。
存在を否定された場所。
だが同時に、
私が最も真剣に世界と向き合った場所でもある。
利権はまだあるだろう。
政治も絡むだろう。
出資者は利益を求めるだろう。
だが今は、それも含めて見えている。
若さゆえの盲目はない。
利用されるだけの研究者でもない。
必要ならば、交渉もする。
守るべき線も引く。
それができる程度には、世の中に揉まれた。
それもまた、五年の成果である。
◇◆◇◆
私は深く息を吐いた。
過去の自分は、ここで止まっている。
だが私は、止まっていない。
では、何を成し遂げるのか。
明確である。
あの事故の再発を、二度と起こさない。
感情を切り捨てた研究ではなく、
人を前提にした研究を完成させる。
それが、私の役目だ。
小さな決断である。
だが、揺るがない。
私は装置に歩み寄った。
「始めよう」
声は静かだった。
だが、迷いはなかった。
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