第十章 再生の夜
その夜、遊は自分がどこにいるのか分からなかった。
部屋の中だった。
見慣れているはずの部屋。
だが、そこはもう、帰る場所ではなかった。
机の上に、マグカップがあった。
小さな手の跡が、まだ残っている気がした。
由真が最後に使おうとしていたマグカップ。
動物の絵が描かれている。
笑っている顔。
無邪気な顔。
それを見ていると、胸の奥が苦しくなった。
「……どうして」
声が出た。
自分の悲痛な声だった。
ひどく乾いていたような気もする。
「どうして……俺は……」
声が震えていた。
言葉は全く意味をなさなかった。
喉の奥から漏れた音だった。
遊はマグカップを持ち上げた。
思ったよりもずっと、重かった。
空っぽなのに。
ずっと、重かった。
骨壺よりも。
由真の骨壺よりも。
重かった。
その瞬間、遊の心の中で何かが壊れた。
「俺が……」
喉が震えた。
「俺が殺した……」
言ってしまった。
言葉にしてしまった。
後ろで、その言葉を聞いている者の気配がした。
ひよりだった。
「違うわ」
ひよりは言った。
震える声だった。
だが、はっきりと言った。
「違う!」
遊は振り返った。
目が合った。
ひよりの目は、涙で濡れていた。
「違わない……」
遊は首を振った。
何度も。
何度も。
「俺が研究なんてしていなければ……」
「俺があの時……」
「俺が……」
言葉は崩れおちた。
意味もう、なんの意味もなさなかった。
ひよりは近づいた。
そして、遊の胸ぐらを掴んだ。
「逃げないで!」
叫んだ。
「ちゃんと見なさいよ!」
遊の体が揺れた。
「澪さんが!」
「由真ちゃんが!」
「どんな気持ちであなたを見てたか!」
遊は何も言えなかった。
「それでも生きてるのは遊じゃない!」
その言葉が、遊の奥に突き刺さった。
「罪を背負ってるのも遊じゃない!」
ひよりは泣いていた。
顔を歪めて。
子どものように。
「やり直せるのも遊だけなのよ……!」
声が壊れた。
「私が見ててあげるから……!」
掴んでいた手が震えていた。
「ちゃんと……見届けてあげるから……」
その時、遊は初めて気づいた。
ひよりは、逃げていない。
自分の隣に、立ってくれている。
逃げ場を塞いでいるのではなく。
落ちないように、そこにいる。
遊の呼吸が乱れた。
視界が歪んだ。
立っていられなかった。
◆◇◆◇
それでも、遊は立ち上がった。
玄関へ向かった。
扉を開けた。
雨だった。
外へ出た。
冷たい雨が、すぐに全身を打った。
遊は空を見上げた。
何もなかった。
その瞬間、遊は泣いた。
声は出なかった。
だが、口は、叫んでいた。
声にならない叫び。
すべてを吐き出すように。
膝をついた。
雨が叩きつけた。
それでも、顔を上げた。
泣いた。
壊れたまま。
泣いた。
そうして長い時間が過ぎた。
やがて、呼吸だけが残る。
雨の中、遊は座り込んでいた。
◆◇◆◇
その背中を、ひよりは扉の内側から見ていた。
何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
やがて、雨が弱くなった。
空が、わずかに白んだ。
夜が終わろうとしていた。
遊は、まだ座っていた。
だが、その目は、もう、閉じていなかった。
失ったまま、
前を見ていた。
この夜、遊はすべてを失った。
そして、
初めて、
それでも生きる者になった。
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