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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第一章 薄く濁る前に

黒い巨大な構造物が、そこに在った。


それは完成された形をしている。直線と曲線が無言の秩序を保ち、無駄な装飾もない。ただ、その整いすぎた姿が、かえって不自然だった。まるで長い眠りに沈んだ生き物が、身じろぎもせず呼吸だけを続けているように見える。


壁と壁の継ぎ目。

ほんのわずかな隙間から、黒い液体が滲み出していた。


流れ落ちるほどではない。重力に抗うように留まり、ためらい、やがて自らの重さに負ける。その瞬間を、誰に見せるでもなく待っている。


一滴。


音はない。

落ちたという事実だけが、静かに残る。


黒い液体は、金属の表面をなぞるように伝い、接合部を越え、石の床へと落ちていく。地下へ。さらに下へ。光の届かない深さへと、黙って進んでいく。


そこには、水が溜まった空洞があった。

かつては使われていたのだろうが、今はただ放置された場所だ。誰も訪れず、誰の記憶にも残らない。水面は静まり返り、時間さえ止まっているようだった。


黒い一滴が、その水面に触れる。


ぽとり。


小さな音だった。

しかし、その音で十分だった。


水面に円が生まれる。

ゆっくりと、しかし確かに、波紋は広がっていく。ひとつがふたつに重なり、歪み、形を失っていく。


水の色が変わる。


黒が、にじむ。

水の底からではない。水そのものが、影へと変わっていく。


それは怒りでも、喜びでもなかった。

意思すら、まだ持っていない。


ただ、目覚めかけている。

それだけの存在だった。


影は増え、満ちていく。境界を持たないまま、空洞いっぱいに広がっていく。


◇◆◇◆


朝が来る。


日が昇り、町の屋根を順に照らしていく。

石造りの建物はまだ夜の冷えを残しているが、通りに落ちる光はやわらかく、空気は澄んでいた。


誰かが戸を開ける音。

水を汲む音。

遠くで鳥が鳴く。


ただ、そのすべてが揃っているわけではない。


通りの角には、窓の塞がれた家がある。

壁の一部が崩れ、修繕されないまま放置された建物も少なくない。

雑草が伸びた更地には、かつて何があったのかを知る者は、もう多くない。


それでも朝は来る。

町は、何事もなかったかのように息を吹き返す。


大通りに近づくにつれ、人の気配が濃くなる。

藁葺きの簡易な屋根が並び、露天商が布を広げる。

崩れた石壁の前にも、ためらいなく店が立つ。


市場だ。


野菜の青さ、乾いた穀物の匂い、焼いた肉の香り。

活気は確かにある。

だが、その隙間には、埋めきれない静けさが残っている。


人々はそれを見ない。

見ないことに慣れている。


その流れの中を、一人の男が歩いている。


背が高く、細い体。

もじゃもじゃとした髪は無造作で、整える気配がない。

細身の服は体に沿い、痩せた足の線をそのまま晒している。


気だるそうな歩き方だが、足取りは止まらない。

眠そうな目で、崩れた家も、賑わう店も、同じ調子で見ている。


「おう」


声をかけられ、男はレトロスチームの丸型サングラスを少しずらして頭を少しかくだけで返す。

立ち止まらない。


露店でリンゴを一つ掴み、軽く金を投げる。

かじりつき、垂れかけた汁を手の甲で拭う。身なりを気にする様子もない。


「この前は助かったよ」


少し離れた場所から声が飛ぶ。


「あぁ、屋根な。ズレてただけだ」


リンゴを噛みながら言う。


「ほんと、ありがとな」


「金、ちゃんともらえりゃな」


冗談めいた言い方だが、笑いは短い。

この町では、直すものが多い。


壊れた戸。

傾いた柱。

放っておけば、そのまま空き家になる。


市場を抜け、必要な部品と紙を買い足すと、男は町の端へ向かう。

賑わいが遠ざかり、道は細くなる。


人が戻らなかった区画。

手入れされない庭。

壁だけが残った建物。


その先に、古いアパートがある。


研究室であり、住処でもある場所だ。


男は扉の前で立ち止まり、リンゴの芯を見下ろす。

一瞬だけ考え、何も言わず壁際に置く。


そして、静かに中へ入っていった。


 壁の色が剥げ、どこかで修繕を諦めたようなボロアパート。


 建物の階段へと歩を進める。

 階段は相変わらず頼りなく、踏み出すたびにきしりと鳴った。その音に混じって、微かに別の音が重なる。


 しゃっ、しゃっ。


 ほうきが床を撫でる音だ。


 遊は足を止めず、その音に導かれるように階段を上る。最上階に近づくにつれ、空気が少しだけ澄んでいくのがわかる。誰かが、ここを「生活の場」に戻そうとしている。


 踊り場を曲がった先に、彼女はいた。


 短く切り揃えた髪が、ほうきを振るたびに軽く揺れる。

 すらりとした体つきで、動きに無駄がない。パンツルックの腰に結ばれた小さめのエプロンは、場違いなほど可愛らしい絵柄で――それが、この部屋に元からあったものだということを、遊は知っている。


「……また、こんなに散らかして」


 床を掃く手を止めずに、彼女は言った。

 声には呆れもあるが、責める色は薄い。


「朝から片付ける身にもなってほしいわ」


「へいへい、わかりましたよ」


 遊は肩をすくめ、いつもの調子で返す。

 そのまま、開いたままのドアに手をかけ、ドアノブを回して中へ入った。


 室内は、すでに朝の光に満たされていた。


 カーテンは整えられ、風にわずかに揺れている。床に散らばっていたはずの部品は壁際にまとめられ、空気に残っていた油と金属の匂いは、かすかな石鹸の香りに上書きされていた。


「……ほう」


 遊は足を止め、上着を脱ぎハンガーループをラックに雑に引っ掛け、ゆっくりと部屋を見回す。


 部屋の中央には、縮尺版の機械が鎮座している。

 洗濯機台ほどの大きさのそれだけは、触れられずに残されていた。ここが生活の場であると同時に、研究の場であることを、彼女は理解している。


 机の端に、ひとつだけ置かれたままのものがあった。


 小さなマグカップ。

 色あせた、子ども向けの絵柄。


 遊の視線が、そこで止まる。


 彼女は、それを動かさなかった。

 理由を言葉にする必要はない。彼女は知っている。

 それが、もう戻らない時間の名残であることを。


 彼女は多くを語らない。

 だが、黙って気づき、黙って支える。


 遊が研究に没頭する理由も、その背後に沈んだ感情も、彼女は察していた。だからこそ、朝早くここに来て、掃除をし、風を防ぐようにそばにいる。


「……コーヒー、淹れるか」


 遊がそう言うと、彼女はほうきを壁に立てかけ、大きな栗色の瞳で小さく頷いた。


 それだけで、この朝は成り立っていた。


◇◆◇◆


 湯気が細く立ちのぼる。

 欠けたマグカップの縁から、かすかな苦みが部屋に広がった。


 遊は椅子に深く腰を沈め、ゆっくりと一口飲む。

 朝の光はもう強く、カーテンの隙間から白く差し込み、床の上に長い四角を作っていた。掃除を終えたばかりの床は、妙に静かで、音を吸い込む。


「……落ち着いた?」


 ひよりがそう言って、窓を少しだけ開ける。

 風が入り、紙の束がかすかに鳴った。


「まあな。人並みには」


 遊はそう答え、マグカップを両手で包む。

 視線は自然と机の隅に置かれた、同じ柄のもう一つのマグカップへ向かいかけて、すぐに逸らした。


 しばらく、何も言わない時間が流れる。

 時計はない。代わりに、どこか遠くで金属を打つ音が、町の朝を知らせていた。


 やがて、遊が立ち上がる。


「……そろそろ、ちょっと見るか」


 部屋の中央。

 洗濯機ほどの大きさの機械が、布をかけられたまま鎮座している。

 ひよりは何も言わず、その布を外した。


 中身は、まだ未完成だった。

 配線は整っているが、どこか余白がある。

 呼吸を待っているような沈黙。


「ここ、流れが詰まる」


 遊が指で示す。


「感情、でしょ」


 ひよりが即座に返す。


「そう。強いところだけ拾うと、溜まる。溜まると、濁る」


 彼は言葉を選ぶように、少し間を置く。


「……だから、逃がす道が要る」


 ひよりは頷き、機械の側面を見つめる。


「捨てるんじゃなくて、流す」


「そうだ。流れて、薄まって、戻る」


 まるで水の話をしているようだった。

 だが二人とも、それが違うものだと分かっている。


「うまくいけば、綺麗な熱になる」


「うまくいかなかったら?」


 遊は少しだけ笑った。


「黒くなる」


 それ以上は言わない。

 ひよりも、聞かない。


 彼女はそっと工具を手に取り、遊の示した場所の横に置いた。


「じゃあ、ここ。少し、広げよう」


「ああ。頼む」


 二人は並んで機械を覗き込む。

 会話は途切れ途切れで、必要なことだけを交わす。


 マグカップの中のコーヒーは、いつの間にか冷めていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。第一章いかがだったでしょうか?まだまだ未熟ですが、今後ともお付き合いいただければ幸いです。

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