098 白い牙1/兄と妹
兄と、そう呼んでいた。
物心がついたとき、かたわらにはいつも兄がいて、おまえのちいさな手をにぎりしめてくれていた。兄の手は、先住民の血が混じったおまえの手よりも色が濃く、その黒さに、いつも守られているような安心感をおぼえた。
ふたりとも、奴隷である。
ふたりとも、親の顔は知らない。
めずらしいことではない。この大陸で、実の子とはなればなれになって売られてゆく洞人など、それこそ星の数ほどいる。親の顔をおぼえている子供こそ不幸である――夢のなかに、出てきてしまうのだから。その点、おまえたちふたりは幸運であったと言ってもよい。親への恋しさを持たず、代わりに支えあえる相手を持っている。
兄とおまえとは、血もつながっていない。
ただ、年が近く、おなじ奴隷宿舎でまとめて面倒を見られていたというだけのことだ。けれども、兄は縁もゆかりもないおまえを妹と呼んでくれた。だから、兄は兄だった。
まわりの洞人たちは、いつもおまえには厳しくあたった。半分流れる先住民の血のせいで、肌色がうすく、顔立ちもきみょうだったせいだったのか。あるいは、いつもむっつりと押し黙ったまま大人の顔をじっと見つめるぶきみな癖のせいだったのか。いずれにしても、兄にかばわれていなかったら、おまえの幼少期はもっと苦しいものになっていただろう。
「いいかい、妹。ひとには、得意と不得意があるんだ」
兄はよくそう語った。
「おれは、笑うのが得意だ。おあいそを言ったり、ひとをうれしがらせたりするのが得意だ。でも、おまえみたいに『よく見る』のはあんまり得意じゃない。おまえは目がいい。いろんなことに気がつく。そら、その仔ヤギのようすがおかしいって気づいたのもおまえだろ? 病んだ仔ヤギのふるまいになんて、おれは気づけなかった。だから、見ることはおまえの得意なんだ」
『でも』
おまえは、左腕に仔ヤギを抱いたまま、右手だけをひらひらとあやつって兄にそう“言った”。
『わたしは、きくことはできない』
「『不得意』さ。『できない』じゃない。おまえは、見るのが得意で、聞くのが不得意。それでいい。不得意の裏にはかならず得意があるんだ。おまえはたしかに耳が利かないけど、その代わりに目がいいから、ひとのくちびるを読めるだろ? その『手話』ってやつも、あっというまに覚えちまった。それらもほら、おまえの『得意』のひとつだ」
『とくい』
たしかめるように手話でそう言うと、兄が頷く。
「そうさ。得意さ」
『わたしは、みるのがとくい』
「うん」
にっこりと、兄は笑う。
「おまえは、見るのが得意なんだ」
『そして、あにはわらうのがとくい』
「そう。おれは笑うのが得意だ」
『わたしは、あにのえがおがすき』
「おれも、おまえの笑顔が好きだ。おまえは、あんまり笑ってくれないけどな」
『わたしは、わらうのがふとくい』
「今はな。いつか、笑うのも得意になるさ。なるべくたくさん笑えば、笑うのなんてどんどんうまくなる。笑うコツを教えてやろうか、妹。まず、笑っちまうんだ。楽しいことやうれしいことを待ったりしないで、じぶんから笑っちまう。そうすると、楽しい気持ちやらうれしい出来事やらはあとからついてくるんだ。かんたんだろ?」
『わたしには、むずかしい』
「おまえには、まだ、むずかしい」
『わたしには、まだ、むずかしい』
兄が、吹き出した。
おまえも、つられて笑った。
*
兄は、お屋敷につとめていた。
ご高齢となってほとんど寝たきりの旦那さまと、青年になりかけたばかりの若旦那さまのふたりが、ご家族のすべてだった。が、広大な屋敷にはおおくの召使がいて、もっとおおくの下働きがいた。この下働きのひとりが、兄だった。
ふたり暮らしには広すぎるほどの屋敷をたもつために、下働きの奴隷たちはあくせくはたらいていたが、おもな心配は、仕事そのものにあるわけではなかった。
若旦那さまの、ことだった。
若旦那さまは、暗いおひとだった。
立ち居振舞いやしゃべりかたがおとなしい、というのではない。むしろ外面的には明朗闊達で、それゆえに周囲の人びとは性根の暗さを見すごした。すっきりとととのえられた身だしなみと、いくぶん痩せてはいたが血色のいい頬と、さわやかによく通る声とにごまかされ、その目のじっとりと湿った色に気がつくことができなかった。
幼少のみぎりには、猫の足を釘打ってじわじわとなぶり殺した。
少年になってからは、近郊の農家の少年を束ねて自由洞人の畑を荒らしたり納屋を燃した。農場を練り歩いては意味もなく奴隷の子を鞭打ち、その親にこう聞いた。
「なぜ、こいつを鞭打ったと思う?」
答えられなければ、親も鞭打つ。だから親はけんめいに子の罪をでっち上げる。それを聞いて、この暗い少年は笑うのだった。
ひまに明かせてやりたい放題にふるまい、そのまま青年となった。彼の振舞いに苦言を呈していた旦那さまが老病の床についてからは、彼を止めるものはもういなくなった。
兄がうまくかばってくれていたから、その鞭がおまえに届くことはほとんどなかった。けれども兄はそのぶん、降りかかる火の粉を払いきれず、生傷が絶えることはなかった。
「へいちゃらさ」
兄はそう笑った。
「べつに、殺されるわけじゃあないんだ。傷なんてじき治る。若旦那さまだってたいへんなんだぜ――旦那さまがああなってから、おひとりでこの農場を経営する重圧に耐えてらっしゃるんだ。たまに虫の居所がわるくなることぐらい、あるだろうさ。おれたち奴隷が支えてやんなくちゃあ」
おまえは、すなおにうなずいた。
――あにはすごい。わかだんなさまになぐられたって、ごかぞくのことをかんがえてる。すごい。
だが、おまえは知らない。
兄だって、子供であることを、忘れている。その『分別のある物言い』が、屋敷でだれかが殴られるたびに、奴隷たちがたがいにささやき交わしていることばの、受け売りでしかないだなんて、思いも寄らない。兄が、そのことばをなによりもじぶん自身にけんめいに言い聞かせることで、なんとか涙をこらえているのだという事実を、知らない。
辛抱は、しかし、むくわれるとはかぎらない。
もはやだれに止められることのない若旦那さまの横暴は、おなじく残酷さを持って生まれた富裕な友を得たことで、ますます加速していった。面白半分で奴隷をしいたげ、ときには死なせてしまうことさえあったとささやかれていた、友人たちだ。しかしいっぽうで、この一味は天人に対しては手出しをしなかった――たとえ貧乏天人が相手であっても、常日頃の傍若無人はさしひかえられた。若旦那さまたちは、世間の指弾を受け、司法の手にかかることだけは恐れていたのだ。
そこで、洞人だ。
洞人相手ならば、いくら無体な仕打ちをしたって、世間は関心を持たない。たとえ打ち殺してしまったって、その奴隷が自家の持ちものであるのならば、だれに迷惑をかけるものでもないからだ。せいぜい、自宅の皿を叩き割ってよろこぶ奇人に眉をひそめるぐらいの温度感でしか、受け取られない。
だれのとがめをも受けず、
しかも、仲間内での評価は高くなる。
暴力は、そのような環境とむすびついたとき、おぞましいほどの激化をとげてゆくものだ。
あるとき、若旦那さまの邸宅で、ポーカーが遊ばれた。
さいしょのうちは高額紙幣の札びらがやりとりされたが――この面子では、どれほどの札束を積み上げたってスリリングさには欠けた。農場の権利書をまるごと賭けるような真似は、彼らのだれもできなかったのだ。惰性でカードを触っていると、ひとりが、こんなことを言い出した。
「金じゃあ、つまらんよ。どうだ、ここはひとつ、奴隷を賭けてみては?」
「奴隷だ? そいつのどこが面白い。べつに俺んとこは働き手にゃ事欠いてないぜ」
「まあ、聞けよ」
言い出した友人がわずかに身を乗り出し、賭けの内容について語る。若旦那さまたちの目は、生気をとりもどしたようにぎらりとかがやいた。
「そいつは、面白い」
「やろうぜ」
「ぜひ、やろう」
これまでとは打って変わった熱心さで、カードがくばられ、交換された。ベットの段になると、交わされたのはこのようなコールだ。
「18歳、ひとり」
「13歳、ひとりだ」
「俺は11歳といかせてもらおう」
カードが裏返された。
今回のゲームでは、勝者ではなく、ただひとりの敗者を決めることになる。負けたのは、若旦那さまだった。
「あは! おまえか!」
「ちょうどいい。俺たちのとちがって、おまえの奴隷はすぐに呼べるからな。さあ、呼べよ。支払いの時間だ」
「くそ、しかたないな」
若旦那さまは、しかし期待にじぶん自身もくちびるの端に笑いを浮かべたまま、ぱちんぱちんとせわしなく指を鳴らした。そっと扉を開いた召使に、ある奴隷を連れてくるようにと命じた。




