097 断章/今宵、貴女のもとへ
まさか、と思った。
そんな急な、と思った。
けれど、応えないという選択肢はなかった。
夕方になったころ、屋敷の廊下を歩いていたおまえのもとに、あの少年があらわれて、口早に言ったのだ。「ねえきみ、一目惚れって信じる……? ううん、違うな。……運命の恋って、あると思う……?」
おまえが泡を食って手に持っていた若旦那さまのシャツを取り落とし、先輩召使がたんねんにかけたアイロン跡をだいなしにしてしまったのにも気がつかず、目を白黒させていると、少年は目を伏せて、すこし離れた。
「ああ――ごめん。びっくりさせたよね、きみとぼくとは初対面だっていうのに。ぼくはグレイ。覚えているかどうかは分からないけれど、昨日、屋敷の窓辺にいたきみを見て――あまりのうつくしさに、目を奪われてしまったんだ。ぼくはそのとき、確信した――これが、ぼくの運命の人なんだって。でも……ぼくは、その……とある事情があって、長くはこの場所にとどまれないんだ。せっかく、すべてを捧げたい女性に出会えたっていうのに、こんな残酷なことってない。それで――ひとつだけ、お願いがあるんだ。ぼくに、ひとつだけ、思い出をくれないか。きみがもしも嫌でなかったら、今晩、寝室の鍵を開けて待っていてほしいんだ」
おまえはこくこく、と壊れた仕掛け人形のようにうなずいた。
「よかった。ぶしつけなお願いだから、きっと聞いてもらえないと思ったんだけど……舞い上がるようなきぶんだよ。今夜、もし会うことができたなら――ぼくの秘密も、話すよ。きみはきっとおどろいてしまうだろうけど、きみには、ぼくのすべてを知ってほしいんだ。それで、もしきみが、退屈な毎日を飛び出したいと願うなら、もしきみが、危険や冒険を愛するひとなら、ぼくたちはひょっとしたら――いや、これ以上はやめておこう。とにかく、今晩だ。……いいかい、寝室の鍵を、開けておくんだよ」
こくこくこく、とおまえはうなずく。
グレイはあのうつくしい顔で、ふふ、と笑った。
「ありがとう。……それじゃ、また夜に」
片目をつむってみせ、グレイはあらわれたときと同様、すごい早さで立ち去っていった。
おまえは、呆然とし――
それから、なにが起きたかをようやく理解して、ちいさく悲鳴をあげながらその場にへなへなとへたりこんだ。
最後まで、若旦那さまのシャツのことは頭に浮かびもしなかった。
*
「……こういうのは、これっきりにしてほしい」
熱く火照った頬を両手のひらで覆いながら、わたしは消え入りたさをけんめいにこらえた。
「いやー、なかなかの名演だったよ。こりゃ一生の語り草だね。黒猫みんなに教えてやらなくちゃ。あ、跳ねる蛙のやつ、ちゃんと見てたかな、プルートゥ?」
「よせセイラ。マザーが限界だ」
げらげらと笑うセイラと、対照的に心配そうなプルートゥのどちらが心にくるかというと、圧倒的に後者だった。ティチューバはというと、いたってまじめな顔で、「これで第一の目的は叶いました」と平然としており、それはそれでなかなかに酷だった。
「大丈夫ですか、マザー。どうかお水を」
「すまないプルートゥ……」
「いやー、しかしすごかったねグレイス。いや、グレイって呼ぶべきかな……あの子の勘所、ぜんぶつかんでたじゃん。『声』のおかげでしょ?」
「ああ」わたしはプルートゥの水を飲み、ようやくすこしだけ落ち着きをとりもどした。「だが、信じられないほどに頭が痛くなる『声』だった。なぜ、あれほどに空虚な……」
「そんなもんそんなもん。年頃の女の子だもんよ」セイラはからからと笑い、「まあでも、きみからしたら信じがたいだろうな。ふつうのひとの視点からしたら、きみこそ異常なんだけど」
「だが、プルートゥではだめだったのか……?」
「だめだめ。こいつ、退屈じゃん」
プルートゥがおどろいた顔でセイラを振り向いた。セイラはまったく気にせずにそれを黙殺し、「えーっと、この後どうすんだっけ?」とティチューバをふりむいた。
「ルースを、じっさいに襲わせる必要があります」
へいぜんとした顔で、ティチューバが答える。
「さもなければ、彼女が奴隷境遇の悲惨さを実感するにいたりませんから。さいわい、この家の次男坊がルースに性的なまなざしを向けはじめています。寝室の鍵さえ空いていれば、そこは女慣れのしていない青年のこと、都合のよい解釈で、ルースからの誘惑と受け取りますわ」
「へー。じゃあこれは、どっちかっていうとルースに対しての罠なんだ」
「そうとも、言えましょう」
うなずいたティチューバの横顔を、わたしは見る。
あくまで無表情をたもつその横顔に、罪の意識などは見受けられない。ふむ、とわたしは思う。あの少女に対するティチューバの思いには、多分に同情がふくまれているものと思っていた。しかし、どうやらそうではないらしい。罠ということばに忌避感を抱いていない以上、少女に対してティチューバが「利用」という意識を向けているというのは、ほぼまちがいない。あのルースという少女に対し、いまだに可能性は感じないが……ティチューバには、未来視のちからにより「何か」が見えているのだろう。
なら、もうすこしようすを見る必要がありそうだ。
「今夜、すがたを出すのは?」
「そちらは、わたしが」
ティチューバがプルートゥの問いに応えて、うなずいた。
*
はたして、ルースの元に例の若旦那さま――屋敷の次男坊は、あらわれていた。
その工作には、黒煙兵も一役買った。若旦那さまの自室から、廊下にかけて、一部の灯燭をともしたままにさせておいたのだ。いぶかしんだ若旦那さまが灯燭を追ってゆくと、ルースの眠る召使用寝室へとたどりつく。若旦那さまが胸をはやらせながらノブをひねると、鍵は開いている……ここまでくれば、わざと誘惑されているのだと、欲情に取り憑かれた天人男はかんがえるのだ。
とうぜん、ルースはおどろく。
しかし、叫べば声を聞きつけてやってきただれかに、さらに恥辱のさまを晒すことになってしまう。その乙女らしい躊躇が、少女の喉をしぼり、声を止めさせる。その隙に、寝台へともぐりこんできた若旦那さまは、ルースの裳裾をまくりあげ、急いて本懐を果たそうとする……。
と、そこに、ティチューバがあらわれる。
すっと伸びた背すじのさきにうすく白い布をふわりと乗せ、顔をまるごとかくしている。布はただ乗せているだけにすぎないから、ほんのすこし急いでうごくだけでも落下してしまうだろうに……端をひらめかせることさえなく、両手のひらをからだのまえに組んだままに、ティチューバはシーツをまくりあげてみせた。呪いを、もちいたのだ。
若旦那さまは、気づいていない。とつぜんの闖入者、白い布のせいで亡霊とも見える相手の出現じたいにおどろくのが精いっぱいで、シーツを保持しているのも、そろそろと若旦那さまの両腕両足へとにじり寄るのも、ティチューバの腕などではありえないという事実に、気づいていない。
「なんだ、おま――」
むぐ、という音とともに若旦那さまの声が押し殺される。口をふさがれたのではない。口に、肉の触手が飛び込んだのだ。瞬時に喉奥までをふさがれた若旦那さまは、混乱に暴れまわろうとするが、そのときには両腕両足にも肉の触手がとりついていて、身じろぎひとつできなくなっている。ティチューバはそのまま“肉のかたまり”を操作し、若旦那さまの裸体を空中へと持ち上げていた。みじめに縮こまった男根が、ぶらんと揺れる。
「ひっ――」
ルースがシーツを引き寄せて、むきだしの肩を隠そうとしながら、若旦那さまの状況に息をのむ。いまにも叫びだしそうなすがたに、ティチューバはこんどはじぶんの手で、「しー……」というしぐさをあらわした。
「大丈夫。あなたに危害はくわえません。どうかおおきな声を出されませんように。わたしは、助けにきたのです」
「助けに……?」
「あとで、ご説明しますわ。いまは、こちらの殿方にお話をしなくてはね」
ティチューバがふりむくと、若旦那さまがくぐもった声で騒ぎながら逃れようとする。無駄な試みだった――肉のかたまりの拘束は、びくともしない。ティチューバはそのまま若旦那さまを見上げる位置にまで歩んでくると、
「あなたが、チャドウィック・グリーンさまですわね。……いえ、ご挨拶は結構。よくよく存じておりますから。しかし、わたしの同胞に手を出そうとするとは、ずいぶん思い切ったものですわね。他人を搾取しようとするものは、搾取されても文句は言えませんのに。……もう、そんなに暴れずとも結構です。あなたの命なぞに興味はありませんから。それよりもね、わたしたちは、提案にきたのです。あなたに、利益のある提案ですわ。お聞きになりたい? ……あなたは、この農場の次男でしたわね。相続権も持たなければ、お父上にも兄上にも放蕩ぶりを疎まれているから、生活するのにじゅうぶんな土地を分け与えてもらえる期待もできない。将来の不安をごまかすために、酒や賭博に手を出し、またお父上たちの評価を下げてしまう。堂々めぐりですわね、おかわいそうに。ですが、朗報ですわ。あなたのお父上はちかぢか、馬車の暴走により事故死します。それも、あなたの兄上とごいっしょに。つまり、一足飛びに相続権はあなたのものになる。悪くない、お話でしょう?」
ティチューバの声に、若旦那さま――チャドウィックが、必死にうなずきを返す。
「結構。ですが、条件が三つ。ひとつ、このルースに手を出さない。ふたつ、わたしたちのことを詮索せず、誰にも話さない。みっつ、わたしが合図をした日に、ご家族を連れて一週間地下室にこもること。……質問は、許しません。あなたにいま許されるのは、首を縦に振り、それからごじぶんの寝室にもどること。朝まで、声などを出してはなりません。父上や兄上よりもさきに天国の門を覗きたくなければ、滅多なことはかんがえないことをおすすめします。よろしいですわね?」
チャドウィックは、したがった。
肉のかたまりの拘束がゆるまっていき、どしんと重い音を立ててチャドウィックのからだが床に転がされた。脂肪まみれの巨体に似合わず、意外なまでに速いうごきで寝室を飛び出し、ほとんど這うようにして屋敷の廊下を駆けていった。
それを見おくったのち、ティチューバはルースへと振りむく。白い布を取り去り、素顔を向けていた。ルースはいまだ混乱したようすだったが、いささか落ち着いたらしく、「あなたは……“車掌”なの……? あのグレイと、お仲間なのね……?」と、疑問形での確認を投げかけた。
「半分ずつ合っていて、半分ずつちがっています。わたしは、たしかにいまや地下鉄道の構成員ですが、“車掌”ではなく“士師”なのだそうです。また、あなたがおっしゃるあの方とは、たしかに仲間ではありますが……名前は、グレイではありません」
「え……?」
「グレイス、と言う」
そこでわたしはすがたをあらわした。
ティチューバの許可を得て、寝室の陰にあらかじめ潜んでいたのだった。
「えっ、グレイ……どうして……?」
「許してくれ、嘘をついた。わたしは、グレイという名の少年ではないんだ。グレイスという名で、女だ」
「……女のひと?」
「ああ。男性だといつわったわけではないが、否定しなかったからな。それと、おまえはわたしのことも“車掌”とかんがえていたようだが、それもすこしちがう」
「そうですわね。マザー・グレイス」
「えあっ……!」
頓狂な声をあげて、ルースはわたしの顔を指さした。マザーと呼ばれる年若の少女が地下鉄道の長をつとめているという話は、ルースも知っていたのだ。ようやくすべてが繋がったことで、ルースは驚愕し、混乱し、あげくに、気をうしなった。
「あら」
「む」
「……まあ、明朝、わたしのほうからくわしい説明はしておきますわ」
「たのむ。だが……大丈夫なのか、“これ”で」
わたしは、寝台のうえで仰向けに気絶しているルースを指した。その開いたままの口の端には、あぶくさえもが浮かんでいた。
「“これ”がいないと、だめなようです。わたしがまともに、士師というお役目を果たすには」
「……わかった。好きにしろ」
「マザー・グレイスは、もう、お好きなときに発っていただいて結構です。あとは、わたしのほうで諸事万端ととのえておきますわ。ルースとじっくり語り、地下鉄道への協力を承諾されましたら、あのチャドウィックの陰にかくれて一帯の洞人たちを組織し、ルースを中心とした叛乱軍を築き、マザーからの蜂起のお声をお待ちしております。……つぎにお会いするのは――いよいよ蜂起となった折でしょうか」
「士師があつまった段階で、いちど集結して意思統一を図りたいとかんがえてはいるが……参加の是非なども、おまえに任せよう」
「ご配慮、感謝いたします」
礼をするティチューバが、またゆっくりとした所作で背すじをただして、わたしの目を見返してきた。何度みても、真意のくみ取れない目だった。
*
「まあしゃーないよ、ぼくみたいに可愛くしてないグレイスが悪い。ていうかほんと鈍いよな、迷宮いるときからずーっと思ってたけど、じぶんのご面相分かってる? たいていの女の子はぐらつくぜ。迷宮でも、女だって公言してたのに、たいへんだったろ」
「……たいへんだった」
「な? 悪いことは言わないから、女装しとけっての。きみみたいなほんものの女の子に『女装』とかいうのも変な話だけどさあ」
軽口をたたき合いながら、わたしたちは歩いていた。
ティチューバとは、あの夜這いの夜に別れていた。自由洞人としてあの農場の近くに小屋を持ち、ルースの近くに留まるとのことだった。ふたたびプルートゥ、セイラとの三人旅にもどってしまったわけだ。正直なところ、こちらのほうがよほど気楽ではあったが。
「……あ。いま、ちょっと『こっちのほうが気楽だな』とか思ったでしょ」
「言うな」
「意外と人間関係へたくそなんだよな、友達もいないし」
「言うなよ」
「だってぼく以外友達いないっしょ」
「……プルートゥがいる」
「プルートゥは友達じゃないじゃん」
プルートゥがおどろいた顔でセイラを振り向いた。それからまたわたしに向き直り、「……マザー。俺は、友人ではないのでしょうか」
「うわまためんどくさい絡み方してきやがったな。プルートゥは友達じゃないだろ。友達ってのはぼくみたいなのを言うの。あーもう、また傷ついたみたいな顔する。跳ねる蛙見習えよ」
「……そうだ、跳ねる蛙がいる」
「パッと名前出なかったくせによく言うよ」
ぎゃあぎゃあと言いながら、わたしたちは歩きつづけた。
*
つぎの「声」を捕捉するまでには、数ヶ月がかかった。それまでに、いくつかの農場をめぐり、いくつかの“火種”を見つけた。蜂起の合図を待てと言いのこし、つぎへつぎへと農場を、奴隷たちのあいだをめぐった。そうしながらも、士師になりうる人間の、特有の「声」のひびきをさがしつづけていた。
そして、見つけた。
――兄と、そう呼んでいた。
「声」を、わたしたちはまた追った。




