096 断章/つまらない少女
見おぼえのない、顔だった。
おまえにとっては、ごくめずらしい。このあたりの年頃の青年──洞人だけではなく、すてきなら天人でも──は、だいたいおまえの頭に入っているからだ。そしていちどはかならず、その相手とのロマンスを夢想してみていた。
夢想のなかでおまえは、その相手にひと目惚れされ、言い寄られる。身持ちのかたいおまえは、なんども断りをつづけるが、けっきょくは相手の情熱に負けて結婚の申し込みをうけるのだ。夢想はいつもそこで大団円となり、そのさきのめくるめく結婚生活までは思いがいたらないが、言い寄られるときのことばや見つめかたが、相手によって多様に変わった。しっくりきて、真剣なときめきへとつながることもあれば、まるで好みの展開にならず、首をふって打ち消すはめになることもある。どちらにいたるとしても、あたらしい年嵩の青年──おまえの十五という年齢を超える相手となれば、ほとんど自動的に夢想ははじまるのだった。
といったって、おまえの暮らす農場はさほどおおきくもない。必然的に、ロマンスの対象はかぎられてくる──ここ半年ばかりは、五人ばかりの相手で夢想をなんどもくりかえすより他はなかった。日がな一日お屋敷にこもっている雑事担当の見習い召使にとって、めあたらしい出会いなどは、そうそう望めぬ贅沢事だったのだ。
だからこそ──。
その見おぼえのない少年をみかけたときには、必要以上に胸がときめいてしまったのかもしれない。けれどもおまえは、まだ口付けさえしたことのないうらわかき乙女は、
──運命!
と、思ってしまったのだった。
洞人としては長身の、痩せた少年だ。靴とシャツとをあたえられていたから、すくなくとも十五は超えている。袖をまくりあげた二の腕と、ズボンから突き出したふくらはぎには、ひきしまった筋肉がついていて、奴隷労働でついた筋肉の痛ましさではなく、むしろ野生動物の、しなやかで自由な躍動を連想させた。髪はみじかく刈り込んでいて、きれいにまるみを帯びた後頭部が、すらりと長く骨張った首につながっている。凹凸のはっきりとした横顔の、額から鼻先、くちびるから顎、喉元へとつながるラインは彫刻のようにととのっていて、おまえはそれを上から下までなぞってみたいという欲望を抑えるのがたいへんだった。瞳の色は、黒だった──まだ正面からのぞきこんだことはないから、その奥にどんなかがやきを見いだせるのかはわからなかった。けれどもおまえは、その瞳にじぶんのすがたを写すことができるなら、『宝石箱』──じつは、おまえがそう呼んでいるだけの、がらくたの詰まった葉巻の空き箱だが──を手放しても、惜しいとはかんじなかっただろう。
少年は、奴隷には見えなかった。
たしかに、肉体労働に従事してはいる──斧をふるい、木材となる老樹を伐りたおす野外奴隷たちに混じり、まじめに立ちはたらいているように見える。けれども、奴隷監視人が通りかかるたびに、不しぜんにならないていどにさっと顔を伏せていたし、ときおり奴隷たちのあいだでひそかにことばを交わし合っているのもみた。それも、野外奴隷たちを束ねる屈強なマイロや、一帯の洞人たちみなから尊敬をあつめる老いた賢人サイラスが、この少年と対等に口を利いているのだった。そういうとき、少年の目つきはいっしゅん、ナイフのようなするどさを帯びる。そこが、おまえの胸をまたどきりと跳ねさせるのだった。
──もしかしたら、『車掌』のひとりなのかもしれない……!
おまえは、ひそかにそうかんがえていた。
地下鉄道、という奴隷逃亡支援組織の実在が明かされたのは、二年ほどまえの『主要駅陥落』の折であった。それまで主人たちは、奴隷たちのあいだでささやかれる噂話を否定していたくせ……地下鉄道が崩壊したとなると、とたんに手のひらをかえしたのだ。天人たちはおおっぴらに地下鉄道について語り、これで逃亡奴隷問題に頭をわずらわされずに済むと、杯を交わし合ったものだった。
しかしおなじころに、洞人たちのあいだでは、地下鉄道の残党がいまだに狩り出されずに南部に身をひそめているという噂が生まれはじめていた。主要駅崩壊からほどなくして、あたらしいマザーが生まれ、ニューヨークで演説をし……その命令により、一部の地下鉄道構成員──『駅員』や『車掌』らが、連合国でふたたび活動を開始したという、噂である。あたらしいマザーは年端もゆかぬ少女で、例の「独立宣言」以降は身をかくしてしまってゆくえは知れず、一説にはもうKKKに暗殺されてしまったとも言われているが……逆に、組織はもうすでにほとんど立て直しに成功しており、ふたたび『線路』が敷かれはじめているという噂も語られている。洞人のあいだでは、見慣れぬ同族を見かけるたびに、あれは『車掌』なのではないかとささやくのが習慣になっていたほどだ。
──さしづめ、あの男の子なんて……。
まさに、『車掌』であってもおかしくない。奴隷逃亡を指揮するにはどうみたって若すぎるが、あたらしいマザーだって、おまえとそう変わらない齢なのだというし、若き車掌がいたとしてもなんらおかしくはないのだ。それに、現実的にどうであるかということよりも、おまえにとっては、夢想のしがいがあるかないかこそが肝要だった。
たとえば、若くして『車掌』をつとめる影のある男の子と恋に落ち、手に手をとりあうようにして、この屋敷から連れ去られ、合衆国でしあわせな結婚をする──などというのは、悪くない。いやむしろ、彼に合わせてじぶんも『車掌』となり、夫婦で危険を乗り越えていくというのも、刺激的だ。危機を切り抜けるたび、夫婦の愛は熱く燃え上がるに違いない。すんでのところでKKKの魔の手をのがれた彼とおまえは、走る機関車の荷車のなか、情熱的なキスを交わし──というところまで夢想がひろがったところで、おまえはぱちんという音によってひきもどされた。白昼夢を見ながら主人の鉢植えの剪定作業をしていたせいで、出たばかりの芽を、剪定ばさみで切り取ってしまった音だった。おまえはあわてふためき、切ってしまった芽をどう始末したらいいか迷い、けっきょく鉢植えの土のなかへとふかぶかと埋め込んでしまった。お仕着せの背中を脂汗でじっとりと濡らし、だれかに見られてやしないかと窓の向こうへと目をやったとたん──あの少年と、目が合った。
少年は、ちょうどごみのたぐいを燃すため、かまどのある裏庭にやってきたところらしかった。両腕に抱えたかごはもう空っぽで、あとは戻るばかりというところで、おまえを見つけてしまったらしい。
──ひえっ。
泡を食うおまえを、少年は立てた指でしー、とだまらせた。それからくちびるの端に笑いをうかべ──おまえがどきっとするような悪戯っぽい笑みだった──そのまま、なにくわぬ顔で、歩き去ってしまった。
おまえは少年の背すじののびたうしろ姿をみおくり、
──うう……かっこい……。
じぶんの恋心が燃え上がるのを、感じたのだった。
*
つまらない、少女だった。
ティチューバが足を止めたのが、ふしぎでならない。わたしだったら黙殺するような、ごくあたりまえの奴隷だ。
わたしが探しているのは、火種だ。叛乱の火種。叛逆の火種。アメリカ大陸を燃え広がらせ、洞人の一斉蜂起をしかけるための、起点。そうなりうる存在をこそ、見つけなければならない。火種は、多いほどいい。大陸のあちこちから、発火がはじまるというかたちをとるためには、多くの火種が欠かせない。業火となりうるものが、士師だ。
士師にかんしては、とかく耳をすませた。
わたしの「声」がとらえる声のなかで、通奏低音のような、低い低い、しかし絶えずひびきつづけるいくつかの音がある。大地の底からひびいてくるような音だ。その音をたんねんによりわけてゆき、しまいに見いだすことができた端を、つかまえる。それを引きずりだしてゆく。そうすると、巣穴から蛇が引き出されてゆくように、全容があきらかとなってゆく。蛇の顔を見ることができるのは、最後だ。「声」は、生まれ落ちたときから、おのれを語る。注意をとぎすませば、すべての「声」がおのれの来し方を語っていることに気がつけた。その「声」が特有のひびき――呪いのリズムを持っているとき、そのものは、呪人であると判断することができる。
呪人――それこそが、呪いなる洞人特有の、きわめて稀少なちからを持つひとにぎりの連中の呼び名だ。数万人、数十万人の「しいたげられたもの」のなかに、ぽつりと生まれる奇跡。ティチューバにこのことを聞かされ――わたしは、士師となりうる人物が、呪人であることを確信した。
ただし、これはきわめて数がすくない。わたしが点すほのおのほとんどは、たんなる「火種」――蜂起の指導者となるだろう。それでよい。火種がおおければ、士師という業火へと合流し、燃えさかるだろう。数年間の道行きのなかで、いくつもの火種を見つけ、接触をはかり――そのなかで、いくたりかの士師を見いだすことができれば、じゅうぶんだ。
だが、とはいえ――。
火種にさえなりえないような奴隷を、救うつもりなどはなかった。
「……あれを、助けろと?」
屋敷の外から、ティチューバやセイラと並んで窓をのぞきこみながら、わたしは問うた。ティチューバがうなずく。
「あの子は、主人にねらわれています。このままでは今晩、あの子は主人の寝台にひっぱりこまれるのです」
「例の『骨投げ』ってやつ? やっぱ未来予知って便利なもんだねえ」
「ええ。使いかたを、気をつける必要はありますが」
セイラの軽口に、ティチューバは生真面目に返答する。
この背すじの伸びたうつくしい女性と行動をともにして、すでにひと月になろうとしていたが……まだ、この生真面目さにおおわれた本音を見抜くには、骨が折れた。「声」に頼ろうとしてみても、なかなか内面の声を明かさない。このときも、なにをかんがえているのだかは読み取れなかった。
「すまないが、ティチューバ」
「はい、マザー・グレイス」
「わたしは、奴隷をだれかれかまわず救うために歩いているわけじゃない。むしろ、救う対象は慎重にえらばねばならないんだ。傷つけられる同胞を片端から救いたいのはやまやまだが、そうすることによって、すべての目論見がくずれ去るのを、看過もできない」
「ええ、理解しています」
「わたしが『火種』と呼んでいるひとの定義も、分かってくれているな? そういう『火種』をこそ、救わねばならないという事実も」
「もちろんですわ」ティチューバは言い、窓から少女を指さす。「ですから、あの子を、と」
「……あの子が、『火種』だと言うのか?」
「まちがいなく」
「それも、『骨投げ』?」セイラが横から尋ねる。
「いいえ。これは、わたしの確信です」
もういちど、わたしは少女を眺めた。
とうてい、『火種』になりえるような人材とは、思えない。夢見がちで、現実のなんたるかを理解していない、子供としか見えなかった。年齢は、おそらく十五になったわたしとほとんど変わるまい。だが、漫然と生きてきた者は、四十になろうが五十になろうが、さしたる価値はない。
おそらく――あの少女は、めぐまれているのだろう。
ここの農場は、さほど苛酷な待遇を奴隷にあたえていないようだった。家内奴隷は失敗しても鞭打たれず、野外奴隷は日が落ちるまえに仕事を切り上げられることもしばしばだ。だがじつのところ、こういった場所にこそ、奴隷身分に不満をもつ『火種』は生まれ得る。あまりに苛酷すぎる状況は、奴隷の思考能力をうばい、逃亡や叛乱などを考慮に入れるよゆうさえうばってしまうからだ。疲れ切った奴隷は、斧を振りかざせない。時間や体力を持て余していればこそ、おのれの境遇を見直す余白も生まれるというものだ。じっさい、わたしの話したなかでは、マイロやサイラスといった男たちは、じゅうぶんに叛乱の火をひろげられそうだった。
しかし、あの少女は――。
「ティチューバ。あの子のなにがよいのか、説明してもらえるか?」
「わたしにも、説明はできません。ただ、確信だけがあるのです」
ティチューバがふりむいた。
ふしぎに沈静した瞳が、わたしのすがたを写している。
「マザー・グレイス。わたしを、士師とされるとおっしゃいましたね。士師とは、独立した叛乱軍の、軍事指導者であるとも」
「まちがいない」
「でしたら、この地方での指揮はわたしの判断にゆだねてくださいませ。あのルースという少女が、要るのです。彼女を旗頭として、わたしは軍をつくるつもりですわ」
「待て。あの、少女をか?」
「ええ。あの少女を、です」
それから、ティチューバはくちびるをひきむすんだ。言うべきことはすべて言った、あとはそちらがどう判断し、どう決断するかだ……まるでそう言っているかのようで、わたしはそれ以上の追及はできないと悟った。
この女性――ティチューバという士師を、わたしはすでにあつかいあぐねている。洞人の未来のために、みずからの手を汚すと決めた彼女であれば、われわれの志に共鳴してくれるものと信じていた。その推察自体はまちがいではなかったが、こうまで自己流にこだわるとは、予想外だった。
おそらく――
このティチューバは、手元に置いて意のままにできるような人物では、ないのだ。志をおなじくしてはいても、行動をともにできるとは、かぎらない。黒猫の連中とは、明白にことなる――それもそうだ、彼女はたんなる洞人ではない。
なにせ、士師なのだから。
それならば、それでよい。
「……わかった。おまえの思うとおりにしよう」
「ありがとうございます、マザー・グレイス」
「あの子を、今夜までに助ければよいのだな。屋敷にわれらが潜入するか、連れ出すのがいいか……。顔見知りならともかく、身も知らぬわたしたちの声がけで連れ出すことはまず不可能か。マイロたちにちからを借りるか、いやしかし……」
「むずかしくかんがえなくていいよ、グレイス」
セイラが脳天気な声で言う。
「きみが声かければ、ひょいひょいついてくるって」
「そんなわけないだろう」
「いや来るでしょ。そもそも、あの子きみに惚れてんじゃん」
「は?」




