093 ティチューバ14/怠惰と暴食
ティチューバの住む小屋は、パリス牧師の屋敷の庭にある。
物置小屋だったものの中身を処分し、あまっていた寝台と、たんす代わりの木箱をいくつか運びこんだだけの、家ともよべないそっけない空間だ。ほとんど持ちものらしい持ちものを持たず、この小屋には寝に帰るだけのことであったから、居心地よくととのえようという発想じたいが、ティチューバにはなかった。ただし、居住する場所には、それなりのこだわりがあった。
屋根裏部屋が、あること。
いま、その屋根裏部屋にうごきがあった。窓がひとつもないのに、すきまのおおい雑なつくりのせいで、つねならばあちこちから太陽光がとびこむ空間なのに、どうしたわけか、ティチューバが住み着いてからというもの、暗闇のなかに閉ざされている。その暗闇に、“なにか”がうごめく──小屋を構成する古くかわいた木材が、悲鳴のようなきしみをあげた。きしみはやがて破断の音へと変わり、小屋の端々がこわれ、たんなる木切れへともどろうとしはじめた。
そこに一部始終を見るものがいたとすれば──そのひとは、なにか重くるしい印象にとらわれ、じきにその正体が“質量”であることに気がついただろう。屋根裏部屋の暗黒が、すきまなく詰め込まれた、えたいの知れぬ“質量”によってつくりだされていたものだと気がついて、またそれが命あるものとして、いま総身をもだえさせつつあるのだと知って──そのおぞましさに、肌を粟立たせることだろう。
蠢動はさらにつよくなり、物置小屋はついに断末魔の声をたてて木切れの山へと成り果てた。そのなかから、にゅるにゅると、挽肉器の穴をとおって押し出される屑肉のように、肉があらわれる。肉たちは木切れのすきまから押し出されたのち、みみずのようにのたくっては合流し、ひとつに結合してゆく。肉と肉とがその赤い断面を撚り合わせると、ぷちぷちという音とともに皮膚が生み出され、その肉塊をおおってゆく。それがあちらこちらでくりかえされ、いよいよひとつになり、完成したのは、巨大な、ふるえる、“肉のかたまり”──その内側に骨を持たず、ぶるぶるとふるえるだけなのに、人間の、なかんずく洞人の濃い肌色につつまれているために、切り出された食肉とも見えない、不自然ゆえの恐怖を煽ってやまぬ、とうてい直視できない、“呪わしき”肉のかたまり──
──呪塊、である。
呪塊は、そのぜんたいを小きざみに痙攣させはじめる。大腸がうごめくような音をたてて、その巨大な質量の下になにかを生み出した。その“なにか”は、呪塊の肉のひだを分けるように這いずり、やがて呪塊と地面のあいだから、すがたをあらわした。
ティチューバ──おまえである。
うまれたての嬰児のように全身を赤い血にまみれさせ、しかし成人したすがた、つい先ごろ、火炙りを受けたままのすがたで、背すじを伸ばし、立っていた。
呪塊の一部が、こんどは縦に切りこみを入れたようにすうっと割れ、おまえの足元に、ぷっ、ぷっ、と、いくつかのちいさなものを吐き出した。おまえはとうぜんのように、それを拾い上げる。
骨だ。
手のひらに収まるほどの、小骨たち。
「……あの小袋は、燃えてしまったものね。ヘレン」
おまえが呪塊に話しかけると、この肉のかたまりは消化器がごろごろとうなりをあげるときのあの音を出して、答える。おまえはうなずきを返し、合わせた手のひらのなかでちゃらちゃらと骨を混ぜると、地面に放った。
未来を、読んだ。
おまえは目を見ひらき、呪塊をまたふりむく。
「……しかたないのね、ヘレン?」
呪塊が、また消化器の音を立てた。
しかああたああないのおおお。
*
悪魔に、名はない。
そもそも悪魔召喚というのは、悪魔界──かたちなき悪意が渦をまく、混沌だけに満ちた理性なき世界から、悪意をとりだすことを指す。とりだされた悪意は、この世界に配置されたしゅんかん、自動的にかたちがさだまり、“悪魔”とわれわれが呼ぶすがたかたちを手にいれるのだ。もともとの悪魔界においては、すべての可能性が収束せずひらかれているから、無作為に生成されるあらゆるすがた、あらゆる細部、あらゆる印象、あらゆる性格は、われわれの世界に配置されたとたんに、「もともと存在している悪魔」として存在が捏造される。召喚された悪魔は、どれほどの異形、どれほどの例外的存在であろうと、「悪魔界に存在する悪魔の複製」としてあつかわれるのだ。複製が先んじ、原型が後に来る。この存在論的矛盾が、悪魔の強力無比なるエネルギーの根拠であるとされている。
そしてまた、人間たちは古来、かぎられた悪魔の名で、無限に増えつづける悪魔のすべてを呼ぼうという、無謀にすぎるくわだてを、そうと知らずにおこなってきた。必然として、おなじ名が、ことなる悪魔に対し何度もつかいまわされる。しかし悪魔がみずから名乗ることもないのに加え、「かつて世にあらわれた悪魔」と「いま目の前にいる悪魔」が同じであるかことなるものであるかをたしかめる術がないために、このずさんな手法も放置されつづけた。
たかが、名。
されど、名、である。
真述師にとって、名を知ることは敵のいのちを掌中ににぎることにひとしい。きょくたんな話、たんにトムという名を持つものがいたとすれば、その敵は、「トムは燃える」という内容の授文をつづってしまえばそれで済むということになってしまうからだ。それゆえに、真述師にとって名とは重要なものである。
では──
名のない悪魔に対しては、どうなるか?
──Behemoth ardet.(べへモスは燃えている)
──Baphomet congelatur.(バフォメットは凍っている)
──Belphegor respirare non potest.(ベルフェゴルは呼吸できない)
それらの授文が宙に描かれ、緑にかがやき──効果を発動させることもないまま、消えていく。あてずっぽうでつづられた授文が通用しないことを知り、真述師たちは悲鳴をあげた。
「だめだ! やはり無駄だ!」
「一般攻撃授文にもどせ──頭部に攻撃を集中させろ!」
金切り声にちかい指示が、中途で踏みにじられてかき消された。
「悪魔」は真述のほのおや氷をいっさいうけつけない鱗で、ゆうぜんと攻撃をうけとめ、腕をふるうたびにふたり以上の人間をつかまえては、菓子をむさぼり食う幼児そのままの無作法でもって、腹部の大口へと放りこんでゆく。くちびるのない口腔のなかで犠牲者が断末魔をあげながら噛みくだかれ、赤黒い肉団子へと変じてゆくさまを、つぎの犠牲者が見とどけている。戦意など、たもてようはずもなかった。一分もしないうちに、「悪魔」に立ち向かおうとする村人も州民兵もいなくなり、村のなかには背を向けて逃げまどう獲物たちと、それを追ってはむさぼり食うこの巨大なる頂点捕食者という、ごくたんじゅんな構図が生まれた。
「悪魔」にとっては誤算であったことに、このからだは鈍重にすぎた。
一般に、生贄の数がおおいほど、召喚される悪魔も理性的に、洗練されたものとなり、数がすくないほどにその反対となる。百六十九人の約定に対し二十五人という少なさが、この、肉を喰らうことの他はなにもしたがらないのろまの肉体をつくりあげたのだ。そのことに、口惜しさを感ずるような理性さえも、「悪魔」にはない。
ただ、捕食者としての本能が、
──これでは、だめだ。
と、感じさせていた。
いまの遅い足では、立ち向かってくるものを捕まえることはできても、ちいさな歩幅でちょこまかと駆けまわるあの食肉どもをとらえるのは、困難だ。視界は高すぎて陰にかくれたちびたちを見つけられないし、巨大すぎる手のひらはそれ自体が邪魔して、せまいすきまにもぐりこんだ食肉をつまみあげられない。
「悪魔」はしばし立ち止まり、じぶんのてのひらを、見つめた。かたほうの手に並ぶ、計十七本の指を、見つめた。
それから、指の一本をひきぬいた。
黄色い粘液が噴出するのにもかまわず、ひきぬいた指をこねまわし、拳のあいだににぎりこみ、それから地面に落とした。
落ちた肉塊が黒ずんで硬直し──つぎのしゅんかんには、表面がぱりぱりと割れて、ひらいていた。卵、であったのだ。生まれたのは、がりがりに痩せたシルエットをもつ、小悪魔だった。骸骨の上に見すぼらしい肌をちょくせつ貼りつけたようなすがたで、地面に擦るほどにながい両腕と、そこだけ異常に肥大した腿の筋肉が、目をひく。脂肪によって山なりのシルエットになった禿頭の“老いた男”の顔だけが、「悪魔」と共通する部分であった。
小悪魔たちは、「悪魔」が指をひきぬくたびに生みだされてゆき、総勢三十四体の群体が、またたくまにそろった。
おおおおあああ。
きい。
きい。
きいきい。
「悪魔」の気だるそうな咆哮に合わせ、小悪魔たちはくちぐちに鳴いた。そして村じゅうへと、いっせいに走り出した。
「やだあ、やだあ!」
「やめてえ!」
悲鳴をあげながら、文字どおり“ひきずりだされてきた”人間たち──おおくは女や子供たちだ──を、身軽な小悪魔たちが「悪魔」のもとへと運びはじめた。軽い子供はひょいっとかつぎあげ、重たい男や女たちは両足や髪などをつかんで地面をこすり──つぎつぎに、「悪魔」の大口へと放りこんでゆくのだ。
「悪魔」がやるべきは、いまや、口をうごかし咀嚼しつづけることと、さまざまな高さでかなでられる老若男女の悲鳴に耳をかたむけることだけだった。ごろりと頬杖をついて横たわり、腹の口だけをむしゃむしゃとうごかしつづける「悪魔」のすがたは、怠惰と暴食の悪徳をそのまま体現するようなありさまで、どこか滑稽ですらあったが──笑える余裕のあるものなど、もはやセイラムにはひとりもいなかった。




