008 懇願
おまえと母とは、小屋に投げ込まれていた。
母は小きざみに震えている。水を与えなければ、傷を手当てしなければ、とおまえは思うけれど、動くこともままならない。
鞭打たれた奴隷に、奴隷はやさしいものだ。
だれかが近寄ってきては水を与えたり、ぼろ切れを包帯に仕立ててくれたりする。つねならば。
今回はちがう。
今回ばかりは、そうはゆかない。なにせおまえたちの犯したのは、旦那さまを傷つけるという、空前絶後の大罪である。奴隷たちのおおくが、想像してみたことすらない、大逆である。
旦那さまに手を掛ける。
どれほどおそろしく、天に唾する行為であることか。奴隷たちは、じゅうぶんに知っている。
だから、手を出さない。
おまえたちを遠まきにして、かかわり合いになるまいと目を背ける。目を合わせれば、おまえにたすけを求められるかもしれない。もしかしたらじぶんは、そのたすけを拒めないかもしれない。憐れみをかけ、代償として、死や暴力をたまわることになるかもしれない。奴隷たちは、そのように恐れている。恐れながら、憎んでいる。
とうぜんだ。
かわいそうな人間を、見捨てなければならないのだ。非人間的な行為だ。そんな非人間的な行為を強制しているのは、ほかならぬおまえたちなのだ。だから、おまえたちを憎む。逆説的に憎んでいる。
恐怖と、憐憫と、憎悪。
おまえたちの周りには、負の感情が渦を巻いている。
おまえは、みずからの服を破いた。
ちぎり取った袖の、できるだけきれいな部分を探して、母の傷をぬぐった。褐色の肌にこびりついた血をぬぐい、まだ痛々しく開いている赤い傷を見いだすと、細く裂いた布を巻き付けていく。
薬がほしい。
清潔な水で傷を洗いたい。
湯を沸かして、汚れを拭き取ってあげたい。
けれど、それを許してもらえそうにはなかった。おまえと母を遠巻きにして取り囲む洞人たちは、共同炊事場で湯を沸かすことなど許してくれないだろうし、ましてや、貴重な膏薬を分けてくれるはずもなかった。
奴隷たちが待っているのは、たぶん、きっかけだ。
おまえにもそれは分かっていた。
おまえが行動を起こそうとすれば、恐怖と憎悪とが、憐憫を置き去りにする。じぶんがなにをしたか分かっているのか、よくもみずからの罪を棚上げして慈悲を買おうなどとあつかましいことをかんがえたものだ、などと爆発的になじるだろう。そうやって奴隷たちは、旦那さまへの忠誠心を必死に示そうとするのだろう。
おまえは、そういう幻視のなかに、じぶんのすがたをさえ見る。
立場が逆であったら、じぶんも、糾弾する人びとに加わっていただろうと、思っていた。縊られるトビーを見つめていた、きのうの夜とおなじように。
おまえは、あきらめる。
ちいさくふるえている母の腕のなかに、じぶんのからだをすべり込ませる。なにもかんがえたくはなかった。ただ、赤子だったころのように、抱きしめてほしかった。
ぬくもりのなかに溶け込むように、意識が薄らいでいく。
*
おまえは目を覚ます。
深夜だ。
母の呼吸が荒くなっていた。額に手をあてる。熱がひどくなっていた。あせって周囲を見わたすが、奴隷たちは我関せずとばかりに眠りをむさぼっている。
なぜ眠ってしまったのか。おまえは後悔にさいなまれ、小屋を抜け出す。
井戸から清涼な水をくみあげると、大いそぎで小屋へととってかえす。先だってちぎりとったのとは反対側の袖をまたやぶり、水に浸して、母の額へとあてる。
こんなものが、気やすめにしかならないことぐらい、おまえも承知している。
けれども、ほかになにができるというのか。
薬が要る。
膏薬ではもはや用を足さない。必要なのは、お医者さまが処方してくださる、ちゃんとしたのみぐすりだ。
けれども、どうやって?
お医者さまを呼ぶとなれば、旦那さまでなければならない。奴隷ごときがいくら大さわぎしてみせたって、立派なお医者さまがこんな深更に駆けつけてくださるはずもない。洞人の生き死になど、天人の紳士にとってなにほどのことでもないのだ。
でも。
お母さんのようすは、あまりに酷い。
高熱のなかで、低いうなり声をあげながら、瞼をぴくぴくとふるえさせている。月明かりに照らされたその褐色の頬は、彫刻のように生気をうしない、いまにも魂が飛び立ってゆきそうだ。食いしばられた前歯のすきまから、うわごとのようになにかの単語をくりかえしている。
おまえが、母の口もとへと、耳を近づける。
「ごめんなさい...…ごめんなさい...…ゆるして……」
母は、あやまりつづけているのだ。
もう殴られていないということさえ、分からないのだろう。ただひたすらに、旦那さまや天人たちに赦しを乞うているのだ。おまえはそう信じて、泣き出しそうにさえなる。
グレイスよ。
おまえは、分かっていない。
その謝罪が、真実のところは、だれに向けられていたのかを。
おまえは、気づいていない。
母の指が、枕もとをしきりに指さそうとしていたことに。
気がついてさえいれば、おまえが負う傷は、ひとつすくなくなっていたはずだのに。
おまえは、泣いた。
このままでは、お母さんは死ぬ。死んでしまう。あんなにきれいなお母さんが、こんなにみじめに、力を尽くされることもなく、いのちをうしなってしまう。あんなに太陽が似合うひとが、日だまりでほほえんでいなくてはならないひとが、夜にうばわれてしまう。
わたしのために。
わたしのせいで。
泣きじゃくる声を、今夜にかぎってはだれも止めようとはしない。奴隷たちは知っている。わきまえている。家族をうしなうそのときだけは、どんな人間にも、思いきり泣く権利があるのだと、理解している。
おまえは、だからぞんぶんに泣きわめく。
泣いて、泣いて、涙の泉が涸れはてたところで、腹を決める。周りで固唾をのんで見まもっていた奴隷たちがおどろくほど、とつぜん、立ち上がる。
おまえは屋敷へと向かう。
裏口から訪いを入れ、旦那さまに取り次ぐようたのみ、例の使用人にともなわれて、寝室へとたどりつく。もう二度と来たくはなかったその場所へと、みずからの意志で足を踏み入れる。
旦那さまは、とうぜんのように目を覚ましている。笑みを浮かべ、寝台の縁へと腰かけている。母が、その足もとへとひざまずいていたときと、まったく同じ姿勢で。
お願いいたします、とおまえは言う。
なにをお願いするのかね、と旦那さまは言う。
薬をください、お医者さまを呼んでください、お母さんが死んでしまいます、とおまえは言う。
なにをお願いするのかと訊いているんだ、と旦那さまは言う。
おまえは。
やがて、うなだれる。あきらめる。
服を脱いでひざまずき、地面に額をこすりつける。
「わたしに、くださいませ」




