082 ティチューバ3/呪いと占い
逃げているさなかで、おまえも呪いをつかわざるをえなくなる折があった。
ばけものがあきらかに、おまえたちのひそむ棚を開けようとのしのしと近づいてきていたとき。
ヘレンがふるえる手でおまえの手を、ひときわ強くぎゅっとにぎりしめたそのしゅんかん――おまえは、呪いを用いていたのだ。
ばけもののかたわらに倒れた、肝を食われた空っぽの死体へと、おまえは念をとばしたのだ。死体にちからを込めた視線をとばし、線をつなぐようなイメージだ。
とらえた。
その感覚をいだいたしゅんかんに、死体が、電流に打たれたもののようにびくんと全身を跳ねさせた。
ばけものが足を止め、ふりむく。
おまえはつながった線をとおして、死体を立ち上がらせた。
あがああああえええええええええい。
ばけものは、獣のようなことばにならない咆哮をあげる。おまえは死体をふりかえらせると、廊下へむけて駆け出させた。ばけものはその後を追って、部屋から飛び出してゆく。
「いまよ」
ヘレンに言う。
食器戸棚の陰をとびだし、ばけものが出ていったのと反対側に、全速力で駆け抜けていった。つぎの扉へと駆け込み、止めていた呼吸をようやく再開する。荒い息をついていると、おまえの見下ろす床板に、ぼたぼた、と数滴の赤色が落ちた。
鼻血だ。
とたんに、頭痛がおそってくる。
目玉の奥をえぐられるようなすさまじい痛みが、ただ過ぎ去るのを待つしかなかった。過ぎてくれ、と願うことしかできなかった。とほうもない時間を経て頭痛がやむと、ようやく、ヘレンが顔を覗き込んできていることに気がついた。
泣きそうな、顔だった。
「ティチューバ……。ごめん、ごめんね……」
「へいき。……ヘレンは、ずっと助けてくれてるじゃない」
きれぎれの息でそう返すと、ヘレンがぶんぶんと首を横に振った。はじめて会ったときの、決然としたあの顔で、ぐい、と涙をぬぐい去った。
「もう、呪いはつかわないで。ティチューバ」
「でも」
「わたしが、つかわせないから」
ヘレンの宣言どおりとなった。
鼻血がとまり、頭痛の波がようやく引いてからは、おまえが呪いをつかって危機を切り抜けなければならない場面はなくなった。
ヘレンのおかげだ。
まるで、数分先が見えているかのように先を読み、ばけものの進路を避けて、かれらの関心が向かわない隠れ場所を見つけだした。
たまにつぎの行き場にまようと、ヘレンはぼろきれを縫ってつくった小袋から、両手のひらにおさまってしまうほどの小さながらくたたちをとりだし、それらを床へと放った。
割れたボタン、焦げたマッチ棒、絡まった糸玉、ネズミの小骨、ちびた鉛筆、虫の抜け殻、先端の折れた針――それらのがらくたは、ヘレンの手から放られると、まるで床板のうえに吸いつくような動きで落ち、配置される。ヘレンは十秒ほどそれをながめると、「こっち」と、つぎの行き場を指し示し、またおまえの手を引くのだ。
「ねえ、ヘレン。これ、なんなの?」
「占いよ」
そのみじかい返答だけでおまえが納得していないことを理解したのか、ヘレンはことばをかさねた。
「おばあちゃんからむかし教わった、暗黒大陸の占いなの。投げたものの配置や向き、裏表を見ることで、未来が分かるのよ。ほんとうは骨投げって言って、いろんな動物の骨を投げるんだけど……このお屋敷じゃ、手に入らないから」
「あてに、なるの?」
「いまは、あてにするしかないもの。それに……いまのところ、わたしたちは生きのこってる。けっこう、ばかにならないでしょ?」
ヘレンがほほえみを向けてくる。
おまえの胸が、ずきんと痛んだ。
――あてになるのか、なんて、訊くべきじゃなかったわ。
ヘレンだって、なにも分からないなかで、必死に先導しようとしてくれているのよ。なんの責任もないのに、わたしの命まで背負い、迷わないように、いっしゅんいっしゅんの決断をしてくれているのよ。
あてになるのか、なんて、どうしてそんなお客さまみたいな物言いができたの……?
「ヘレン」
おまえは言う。決然と。
「わたし。もし逃げられなかったとしても、あなたについていったことを悔いたりしない。さいごのさいごまで、あなたに感謝してる」
「なによ、それ」
「あなたといっしょにいられて……ほんとうに、よかった」
ヘレンの顔が、真っ赤になる。
涙が、目の端に浮かぶ。
ぐ、とくちびるを噛み締め、ヘレンは目を逸らした。
「……そのセリフは、逃げおおせてから聞くわ」
芽生えかけた友情を、ヘレンがそのそっけない言い方で抑え込もうとしたことなど、おまえには思いもよらない。おまえに輪をかけた苦難を忍んできたヘレンの、それは自己防衛本能のあらわれだった。……なにかに思い入れすぎてしまえば、それをうしなったときの痛みはよけいに大きくなる。だからはじめから、なにかを大切に思ったりすまいと、決めておく。そういう心理がヘレンに根ざしていることを、おまえは知らない。
けれども、ヘレンだって、知らない。
おまえとおなじく幼いヘレンには、わかっていない。
「これ」を好きになってはいけないのだとじぶんに言い聞かせるとき――すでに「それ」のことを好いてしまっているものなのだと、わかっていない。気づかぬうちに、ヘレンにとっておまえは、「うしないたくないもの」になってしまっている。
だから、度を越す。
とりかえしがつかないところまで、いってしまう。
何度めか知れない骨投げをヘレンが終え、「こっちよ。行きましょう」と言いながら、がらくたを集めて小袋にしまいおえたとき、おまえははっと気がつく。
「……来てる!」
おおおおおおおあああああああっ。
曲がり角の向こうから、怪物の声がひびく。さいわい、ヘレンが示した方向とは逆で、おまえは急いでヘレンの手を引こうとする。
ヘレンが小袋をにぎりしめたまま、呆然としているように見えたからだ。
しかし手をひっぱろうとしたしゅんかん、
「やめてっ」
ちいさな、けれども断固とした拒絶が、おまえをはねつけていた。拍子に、ぼたぼた、となにかが床板の上に垂れる。黒ずんで見える、粘着性の液体。
鼻血、だった。
ヘレンは顔の下半分をおおった手のひらのすきまから、鼻血を垂らしつづけているのだった。
「うそ……ヘレン……?」
おまえは小袋に目をやる。
遅ればせながら、理解が追いつきはじめていた。顔をぶつけたわけでもないのに、とつぜん流れ落ちる鼻血。蒼白となった顔のなかで、苦痛を堪えるように幾重にもしわが寄った目元――頭痛を、こらえているのだ。まちがいなかった。
――呪い。
「ねえ、……それ、占いじゃないのね……?」
「占いよ」
「でも」
「ほんとう。おばあちゃんから教わったのも、ほんとう。でも、この占いをとおして、こんなにくっきりと未来が見えるわけじゃない。占いって、そういうものじゃないのよ。たしかに将来のことを言い当てるものではあるけれど、もっと思わせぶりで、もっとコントロールできないものだもの。こんなにくっきり見えるのは、たぶん、わたしの呪い」
「そんな……!」
「行って」
ヘレンはおまえに小袋を押しつける。
おまえはそれを突き返そうとし――ヘレンの頭がぼこりぼこりと内側からふくれあがりつつあるのを見て、がくぜんとして手を止める。
「しかたないの」
額から上が、パン種がそうなるように内側からぶくぶくと膨れあがっているというのに――ヘレンは、おまえにほほえみかける。死の苦痛など、ないもののように。
ヘレンの体ぜんたいが、床にたおれ伏す。
と、その衝撃でおしだされたもののように、全身から肉がほとばしり出た。皮膚をやぶり、筋繊維の赤い筋と、脂肪の黄色い丸みとが、飛び出てきたのだ。痙攣するように脈打ちながら、肉は不規則につきでた棒状の部位を床に立て、杖のようにして立ち上がる。棒状の部位が、ちょうどけものの肢のように見える――膝関節も指も肉球も見いだせない“それ”を、肢とよぶことが許されるのであれば。
立ち上がった肉のかたまりは、その前方にヘレンの頭を残している。いまや苦しみというよりは悲痛の表情となったその顔が、おまえに向けられた。
「ごめんね。約束、果たせなかった」
――そのセリフは、逃げおおせてから聞くわ。
「……ヘレンっ!」
ヘレンの顔が、肉塊のなかで、こくりとうなずいた。
おわあああああああああああああっ。
そのとき。
せまってきていたばけもの――まえにやりすごした魚のばけものが、曲がり角からすがたをあらわした。魚のばけものはおまえを見、それからヘレンを見た。
に げて。
ヘレンはそう吠えた。つぎのしゅんかんには魚のばけものへと体当たりをくらわせていた。ふたつの巨大な肉のかたまりがぶつかり合い、衝撃で壁がばきばきと破損してゆく。
おまえは走った。
走るしかなかった。




