081 ティチューバ2/ハイド・アンド・シーク
おまえは、ヘレンに手を引かれていた。
息を切らしながら、走りつづけている。
屋敷のなかは暗く、ながい廊下が迷路のように曲がりくねりながらつながっている。恐怖が呼吸をあさくし、終わりのしれぬ疾走が呼吸を荒げさせた。
なのに、呼吸することは、怖かった。
――ほかのだれかに、聞きつけられてしまったらどうしよう。
*
「苦痛を、まぬかれたいのですか?」
エイレナウス・フィラレテスは、十六人のまえでそう言った。
「不可能です! あなたがたの苦痛は、あなたがたの脳に起因しています! 苦痛は生涯つきあってゆく友人となったのですよ。なあに、心配は要りません。脳をかきまわされるような痛みも、臓腑をもぎとられるような苦しみも、実在はしないのですから! その苦痛があなたがたを殺すことはありえません! あなたがたは、苦痛ごときでは死にはしなくなったのですよ! これがどれほどすばらしいことか……なんですか、その暗い表情は? ああ、落胆する必要はありませんとも。苦痛を消失させることはできずとも、緩和させる方法はあります。呪いと呪いを、ぶつけてしまえばいい。するとひととき、苦痛は和らぎます。どうすればいいかって? いちばんたやすい方法をお教えしましょう!」
防疫マスクのくちばしが、天井を指した。
「肝、です!」
そのひとことが、この生き残り競争の幕開けとなった。
十六人は、互いに殺し合い、喰らい合うように仕向けられたのだ。おのれにあたえられた呪いを駆使し、おなじ年の子供を殺しては、その腹を割いて生き胆を喰らう。ひとときだけの緩和があり、それからまたあたらしい呪いをとりこみ、さらに倍加した苦痛にだんだんと正気をうしない、呪いの化け物へと成り果てていく。個体数が減るほどに呪いと狂気は濃度を増し、さいごの一人になったときには、最強の化けものが生まれている。魔術師を人工的に生み出すための触媒として、このうえないほどの「黄金の血液」を供給する、いうなれば“生ける賢者の石”が。
それが、旦那さまの狙いである。
*
「しっ!」
ヘレンの声に、おまえは足を止めた。
すぐに曲がり角の陰へと、ヘレンはしゃがみ込む。おまえも倣った。
ぴちゃ、ぴちゃ。
音が、した。
水っぽい、なにかをひきずるような音。足音にはとうてい聞こえないこれが、まぎれもない足音であることを、おまえもヘレンも知っている。
ぴちゃ、ぴちゃ。
音は、曲がり角の先から近づいてくる。
ヘレンは身振りでもどるように伝えると、足音を立てないように来た道をたどり始める。そのあとにつづこうと思ったおまえは、つい、曲がり角をのぞきこんでしまう。
すぐに、顔を戻した。
魚――のような見た目だった。
いっしゅんだったから、もとは誰だったのかは見てとれない。だが、その化け物がもとは人間であったという事実は、エラのあたりにぶら下がるようにして、鼻すじからふたつに分かれた顔面の皮膚が貼り付いていることで、そうと知れた。顔面は、苦悶によじれた少年の顔だった……ように見えた。
――いやだ。
おまえは思う。
あんなものに襲われるのも、あんなものに成り果てるのも、いやだ。
ぜったいに、いやだ。
嫌悪が、じっさいの嘔吐感としてこみあげてきそうになる。ヘレンに手をにぎられ、なんとか飲み下した。
「だいじょうぶ」
問いかけとも、はげましともとれるヘレンの声かけに、ともかく、おまえはうなずきを返した。
「行かなくちゃ。ごめん」
いたあああああああああああああああああああい。
とつぜん聞こえた声は、三人ほどの声がかさなっているようだった。魚のばけものの声だ、と直感する。すこしおくれて、ぴちゃぐちゃぼた、というような、生肉のかたまりを床にこぼしたような音がした。
たああああああすけてええええええよおおおおう。
恐怖と嫌悪に耳をおおうおまえの二の腕をひっぱるようにして、ヘレンが駆け出す。魚のばけものの声が、とおざかっていった。
屋敷のなかは、空き家同然だった。
ほとんどの扉が開けはなたれ、すべての部屋が出入り自由になっている。しかし鍵がこわされ、扉の施錠が効かないうえに、窓は鉄格子がはめられたうえから幾重にも板が打ちつけられていて、脱出の道はかんぜんにふさがれている。部屋の扉を閉じたままにたもっておけるような椅子や燭台も、置かれていない。一部屋にかくれつづければ、いずれはだれかに見つかってしまう。こうして、逃げかくれしながら、たえず移動しつづけるよりほかはない。
はじめに正気をうしなったのは、なんとかこの屋敷を脱出しようと、正面玄関扉や窓の格子やらに、呪いのちからをぶつけていた何人かだ。腕力をつよくしたり、念じるだけで物体を破壊できるというたんじゅんな呪いを得た子たちが、出口をふさぐそれらを破壊しようと挑みかかったのだ。
旦那さまはこの舞台をととのえるにあたり、真述陣を用意し、この屋敷の脱出口を真述的に封鎖していたのだ。いかな呪いとはいえ、物理的なちからでは決して破壊しえなくなった扉や窓に、そうとは知らぬ子どもたちはくりかえしくりかえし呪いをふるいつづけ――果てに、つう、と鼻血を垂らした。
「ああああああああああああああああああっ!」
「いたいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」
絶叫しながらかかえた頭が、ぼこんぼこんと異様な音をたてて隆起し、脈打ち――やがて頭皮がやぶれて、その下から異常に変形した頭蓋骨をあらわにした。その拍子に、あるものの眼球は突出し、あるものの眼球はこぼれ落ちて垂れ下がった。頭蓋骨のいくつかには、うしなわれた視力を穴埋めしようとでもいうのか、爬虫類をおもわせるまぶたのない目が、いくつも生まれ、うろたえ泣きさけぶおまえたちを、いっせいにぎょろりと睨めつけた。
「肝」
怪物となった子どものひとりが、言う。
「肝おおおおおおおおおおおおおお……!」
こうして、鬼ごっこが幕をあけたのだ。
おまえがすぐに食い殺されずにすんだのは、となりにいたヘレンがとっさに手をとってくれたからに他ならない。
|隠れ鬼《ハイド&シーク》に長け、いつも冷静なヘレンがいなければ、おまえは早々に生き肝をうばわれていたか、“鬼”の役にまわって犠牲者を増やしていたことだろう。
魚のばけものからのがれたあとも、ヘレンは屋敷のなかに無数の隠れ場所を見いだしては、追跡の手からのがれつづけた。衣装ダンスのなか、テーブルの下、ベッドとベッドのすきま……しかもそこで怪物をいちどやりすごすと、すぐさま移動にうつる。
はじめのうちは、安全なひとところにかくれつづけていればいいのにとかんがえていたおまえも、おなじ部屋にかくれていた少年が怪物にひきずり出されるように捕まっているのを見てからは、考えをあらためた。
ときとして、非情ともおもえる判断力も、ヘレンの強さだった。
ふたりで息を殺して食器戸棚の陰にひそんでいたとき……こういう声を、おまえは聞きつけた。
「ねえ、だれかいないの……? 怖いよ……。わたしも仲間にいれてよ……」
「ヘレン、」
立ち上がりかけたおまえを制し、ヘレンは手のひらでおまえの口をふさいだ。首を横に振っている。そのまま隠れていろと、言うのだ。
――そんな。いくらなんでも。
おまえがそう思ったとき、さきほどの声の主が、
「さっさと出てこいよおおおお! 肝! 肝をよこせええええ!」
そう、叫んだ。
おまえが全身を硬直させる。
怒りの声がどこかへ消えていってしまうと、ヘレンは手を離した。礼と謝罪を口にしようとしたおまえからも顔を逸らし、
「しかたないの……」
と言う。
「わたしだって、みんなは守れないし、助けられない。だから、しかたないのよ……」
ふるえる声は、じぶん自身にも向けられていたようだった。




