007 筆杖
奴隷たちから奪われている感情のうち、最大のものが“怒り”である。
奴隷は怒ることを許されていない。反抗的な感情をかけらでもいだいたことが分かればとうぜん鞭打たれるし、そのように見えるというだけでもじゅうぶん鞭に値する罪であると見なされる。どの世界でも、怒りというのは、上位者にだけ許された感情表現なのだ。
笑うことは許されている。
泣くことは許されている。
しかし、怒りだけは許されない。
どのようにむごい扱いを受けても、どのように不条理な苦痛を強いられても、怒ることだけはしてはならない。殴られても、子を奪われても、阿呆のように笑っていなくてはならない。もし感情を昂ぶらせ、ご主人に手をかけるようなことがあれば――
死、である。
だから、奴隷ははじめから、怒りの感情を抱かないように努める。
激情が噴きあがりそうになったときは、大声をあげて、泣きわめく。それが習慣づいている。それも、ご主人のまえでは許されないから、奴隷宿舎に帰ってきたとき、水桶に顔を突っ込んだり、枕を口にあてがったりして、ぞんぶんに泣き声をあげるのだ。
奴隷として生まれついた子供たちは、さいしょから、怒りという感情を知らない。
それは、親が腹いせにじぶんたちをなぐるときに用いたり、奴隷監視人が思い出したように振るうちからであって、じぶんたちには縁のない感情であると思ったまま、育ってゆく。
だから、おまえのその激情は、ほとんど突然変異に近い。
すくいようのない真実を目のまえにして、
つらぬかれ、むさぼられる母のすがたを目にして、
グレイスよ、
おまえは――怒ったのだ。
「あああああああああああああああああああああああああっ!」
叫びながら、おまえは走った。
旦那さまに飛びついて、母を引き剥がそうとしたのだ。苦悶に眉をゆがめた母の、みじめなすがたをこれ以上見たくないと思ったのだ。
しかし、そのくわだては失敗に終わる。
旦那さまが、筆杖を手にしたのだ。
筆杖。
それは、南部貴族にとって、権力と暴力の証である。じぶんたちに、いとたかき青い血が流れていることの証左である。洞人たちが天人たちに逆らえぬ、最大の理由でもある。
旦那さまは筆杖を手のなかで走らせた。
たっぷりとした真緑が、空中に軌跡を残していく。貴族ならではの流麗たる筆記体が、いくつかの単語をつづり、ひとつらなりの文章を為していく。
文章が、緑に光る。
ほんのいっしゅんのことだった。
旦那さまの白い肌に指を掛けようとしたそのしゅんかんに、おまえのからだは、反対がわの壁へと叩き付けられていた。あまりの衝撃に、息が詰まり、おまえは激しく咳き込みはじめた。胸をつよく打たれたのだ。
真述――である。
世界の理は、すべてただ一冊の本――“せいなるしょ”へとあらかじめ書き込まれている。鳥は飛ぶ、けものは走る、果実は落ちる……この世のなかであたりまえとされている物理的事象のことごとくが、その本には文章として書き込まれている。そこに書き込まれているがゆえに、あたりまえ――とされているのだ。
それを、書き換える。
真緑と呼ばれる元素を用い、筆杖を用いて、“せいなるしょ”の内容を、書き換えてしまうのだ。ほんのひととき、常識を非常識へと改竄し、鳥を落とし、けものの走りを止め、果実を飛び上がらせる――。それこそが、真述なる業である。
むかし、旧世界では、この業はすべての庶民があたりまえに使えるものだった。
めずらしくもなかった。
新世界――すなわち、この大陸にあらわれたとき、先住民たちや、奴隷として買い取った洞人たちに、このちからがないことを見てとるや、天人たちは歓喜した。つまり、われわれこそが神に愛され、世界のすべてを支配する天与の権利をもちあわせた種族なのだと、確信した。
こうして、支配が生まれたのだ。
こうして、絶望が生まれたのだ。
おまえの、知らないうちに。
「はっ……あっ……ごほっ、ごほごほっ、……おえっ……!」
めまいと吐き気にさいなまれているさなかのおまえを、旦那さまのおおきな影が覆う。
こわくてこわくてたまらないのに、おまえのからだは動かない。動いてくれない。
旦那さまはにんまりと満足そうに笑って、言う。
「おどろいた、ああ、おどろいたよ。
あやうくなぐられてしまうところだった。奴人のむすめなぞに怪我でも負わされたとあっては、社交界で言い訳ができんからな。危ない危ない。マリア、おまえの娘にしては、ずいぶんと気丈じゃないか、ええ?
さあて、どうしたものか。
さあて、どうしてくれようか。
さいしょだからやさしくしてやろうとばかり思っていたのに、これでは、そうするわけにもいかんではないか。ええ? 教育は主人のつとめだからな。奴隷に侮られたとあっては、農場経営にもさしさわるからな。
さあて、さて。
なにがよいかな。鞭ではいかん。鞭ではありきたり。刃物もいかんな、愉しむ時間が短くなってしまう。ああ、そうだ。すてきな張り形があったはずだ。疣の代わりに、棘を設けてあるやつ。欧州から取りよせてからひと月にもなるのに、すっかり忘れておった。マリア、おまえにも見せただろう、あの引きつった笑顔を、いまでも覚えて――」
旦那さまのことばが、止まる。
「……マリア? なにをしておる?」
おまえが顔を上げる。
おまえは、母を見た。旦那さまの白い腕に、震えながら、怯えながら、歯を立てているのだった。皮膚がぷつりと噛みきられ、ひと筋、ふた筋、血が流れている。しずかに音もなく流れるその血液は、浅黒い赤だ。
青い血では、ないんだ。
場違いなかんがえが、おまえの頭をよぎる。
「なにをしておるッ!」
怒鳴り声とともに、母のからだが振りはらわれる。倒れた母の細い腰が、二度、三度、渾身のちからで蹴り上げられている。顔が踏みつけられている。筆杖をつかうこともなかった。旦那さまはみずからもしゃがみ込みながら、母の顔を、豚の肺臓のような丸まった拳で、打ちつづけた。
死んでしまう。
お母さんが、死んでしまう。
やめて。
やめて、お願い。
おまえはうごかないからだを罵る。
騒ぎを聞きつけた天人の召使いたちがあらわれて、旦那さまの代わりに母を殴りはじめる。飛沫となった返り血を、旦那さまが肩で息をつきながら、緞帳で拭いている。
やめて。
やめて、ゆるして。
おかあさんをゆるして。
おねがい。おねがいだから。
おまえの祈りは、届かない。
やがて、ぼろ切れのようになった母が、天人たちの隙間から現われると、おまえは這いずるようにしてすがりついた。息を確かめる。か細い息が、まだあった。薄い胸が、かろうじて上下している。
「――ぃ」
おかあさん、おかあさん、おかあさん。
何度もくりかえしくりかえし呼びながら、おまえは、母のことばを待つ。
助けて、とは言わなかった。
お医者を呼んで、とも、言わなかった。
母は言っていた。
おまえにしか聞こえないほどの、ちいさな声で。
「――にげ、なさい……」
逃げる――。
その選択肢が、おまえのなかに、うまれてはじめて、生まれた。




