077 とある少女の物語4
ずっと、その背中をながめていた。
そうするしかなかった――周囲をきょろきょろ見まわしていれば、鞭打たれるであろうことは想像にかたくなかったから。目のまえの裸の背中には、四本のみみず腫れとなった瘢痕が走っていて、わたしはそれをなんどもくりかえし視線でなぞりつづけた。
額からゆっくりと流れ落ちてゆく汗の筋を、手のひらで拭きたい。
しかし、ただ我慢した。
手を上げたりすれば、手首をつないだ鎖がじゃらりと音を立てるだろう。奴隷監視人は耳ざとくそれを聞きつけ、なんのつもりかとわたしに怒鳴り立てるだろう。汗を拭きたかった、などという言い訳が、通用するとは思えなかった。
わたしたちは十人で列を為して歩いていた。
湿地帯の足をとられる泥濘のなかだったが、遅れることもつまずくことも、許されない。十人の前後に、鞭と筆杖とを腰に提げた奴隷監視人がいて、つねに目を光らせているからだ。
歩きはじめて、三十時間は経っている。
そのうち、座ったり横になったりするのを許された時間は、合わせても六時間に満たない。じぶんたちの今後にかんがえをめぐらせるような体力は、とっくに尽きていた。
――あれは、奴隷狩りだったのかな。
カナンの襲撃は、おそらくものの十数分で完了したことだろう。
カナンには、ろくろく武装がととのえられてはいなかったのだ。敵襲の警告を一帯に出したのち、わたしたち車掌に課せられているのは、避難の誘導だけで、反撃はふくまれない。共同体のなかに数十挺ほど保管されている銃も、訓練の折に三発ずつ撃ってからは、とんとすがたを見ていない。KKKの強襲部隊を相手どってどうこうできるような戦力が、あるはずもなかった。
カナンの人びとは逃げまどい、混乱し――まるで車掌のいうことを聞けなくなっていた。
KKKの筆杖から放たれる緑色の炎は、的確に建物や穀物保管庫を焼き払い、抵抗する気概を打ちくだいていった。
視界のはしばしに、両手を上げて地面にひざまずき、降伏を願い出る十人たちのすがたがうつった。ひとまわり見回すと、ハンナが目に止まった。幼い子どもたちを、身振りで教会へと手まねき、しずかに避難を誘導している。
さすがハンナ、とわたしは思う。
教会の説教壇裏には、地下道へつながる扉がかくされている。トンネルをくぐっていけば近隣の森のなかへと出られるのだ。子どもたちだけでも逃げ延びてくれれば。そうかんがえたしゅんかん、後頭部にがつんと衝撃を受け、わたしは気をうしなってしまったのだった。
目を覚ましたとき――KKKの真述師たちにとりかこまれて縛られている洞人たちのなかに、ハンナのすがたはふくまれていなかった。
――ハンナなら、きっと逃げ延びたはず。
そして、なんとか子どもたちを無事に送り届けただろう。
――“送り届けた”? ……いったい、どこへ?
カナンの地こそが、逃亡奴隷たちが“送り届けられる”先、絶対の安全を誇る『最終目的地』ではなかったのか。主要駅もカナンもうしなわれたいま――洞人にとって、真の安住の地は、この地上にはなくなったしまったと、そうかんがえるべきではないのか。
――ぜんぶ、あきらめるときがきたのかもしれない。
思考を、暗雲がおおいかける。
わたしは胸元に感じる小袋の感触へ、ぎゅっと意識を集中した。そうして、じぶんを叱咤する。
――あきらめる、だなんて。
あなたが総帥として戦いつづけているのに、地下鉄道を存続させようと歯を食いしばっているのに、わたしが投げ出していいはずがあるものか。戦うのをやめていいはずがあるものか。
たとえ奴隷の身になったって、戦いつづけなければ。
――ほんとうに?
ちいさな悪魔が、胸のうちにあらわれる。
――ほんとうに、あの子が戦いつづけているなんて思うの? あの子が地下鉄道の独立を宣言してから、一年。一年間、なんの動きも音沙汰もないのに? 新聞記事に出ることも、カナンに連絡をよこしてくるでもなく、いまどこで何をしているのか、全土もだれも知らないのに?
――ほんとうは、逃げてしまったのでは? 威勢のいいことばを吐いてみたはいいものの、世間に指弾され、批難され、であるのに地下鉄道再建の道すじが見いだせず、あきらめと堕落のなかに身を没してしまったのではないの? そうでないという確証が、いったいどこにあるというの?
「……うるさい」
ちいさく、つぶやいた。
そのことばにつづく反論は、思いつかない。
*
KKKからわたしたちを買い受けた奴隷監視人は、大西洋を大まわりする航路で南部連合国の領土に入り、湿地帯をながながと歩かせて、やがて河川近くの都市へとたどりついた。
カナンの清浄な空気に慣れたわたしにとって、その暑さが息が詰まるようだった。
石畳のおおい町で、せまく入り組んだ通りに面して、鉄製のバルコニーを持つ家々が密集するように立ち並んでいる。市内は運河や水路が縦横に走り、水がおおいせいか、蚊がうっとうしくてしかたなかった。
それでも人はおおく、活気に満ちている。
大通りには馬車が行き交い、身なりのいい人びとが市場を冷やかしながら歩いている。屋台には肉や布や雑貨のたぐいが並び、売り手たちが張り上げる声にまじり、バンジョーをかき鳴らす音がひびいている。
すさまじい喧騒のなか――わたしたちだけが、重い沈黙を守りながら歩きつづけていた。通行人は、わたしたちとすれ違うたびにそっと目を逸らし、なにも見なかったように元の会話へともどってゆく。彼らの世界には、鎖も、鞭も、あってはならないことになっているらしかった。もくもくと、わたしたちは歩いた。
奴隷市場に近づくにつれて、空気が変わっていった。
煉瓦づくりの建物が増えはじめ、窓には鉄格子がはめこまれはじめる。ときおりそこから、さぐるような視線がわたしたちに投じられる――おなじ運命をかこつ洞人たちの、感情の光をやどさない目。
くわえて、通りすぎてゆく天人たちの目つきも変わる。さきほどまで市場や通りでおおく見た、鷹揚な貴族の目つきではない。抜け目ない商人や奴隷使役者たちのするどい目つきだ。洞人相手に振るってきた冷酷さを、演じているうちに、そのまま自我へとすっぽり引き込んでしまったという印象だ。
怖かった。
自由洞人でいたころ、あんなふうな目を向けられることは、なかったのだ。奴隷身分というのがどういうものなのか、すこしずつ、わたしは理解しはじめていた。
競り台は、広場の中心に据えられていた。
広場といっても、市場のほうで見かけたような明るい雰囲気の場所ではない。高い建物にとりかこまれて日陰をたもち、ひときわじっとりとしたかびくさい場所だ。奴隷たちの涙が、この場所の湿気をいやましているのかもしれない。
競り台には、成人男性の洞人が立たされている。
混血ではないらしく、ずんぐりとした低い身長にたっぷりとした筋肉と脂肪を乗せた、いかにも洞人らしい体格だ。シャツは脱がせられていて、まわりのスーツを着込んだ天人たちが、その胸筋をたたいてみたり、顎をつかんで横を向かせたり、口を開かせて歯ならびをたしかめたりと余念がない。
――まるで、家畜を買うときみたい。
いや、事実、そうなのだろう。
これは、品さだめなのだ。仔牛を買うのと、なんら変わりはない。ただひとつちがうとすれば――洞人は、じぶんが品さだめを受けていると理解できる、という点だろう。
天人たちが心ゆくまで“商品”の確認をし終えたようすを見計らって、競り台のかたわらに競売人が立った。
「さあて、おっつけ始めますかね――みなさん、品さだめに熱心なのは結構ですが、このままじゃ日が暮れても競売が終わらない。あたしゃそれでも構いやしませんが……農園主のみなみなさまは、もう一晩泊まるなんてことになったら、奥さま連中にさぞかしどやしつけられちまうでしょう、ねえ?」
競売人のくすぐりに、天人たちが笑いを漏らす。
へへ、と笑った競売人は、すうっと息を吸い込みなおすと、朗々ととおる声を張り上げた。
「さあて、お立ち会い! 本日も皆さまの農場へと良質な労働力をお届けいたしましょう! しっ、静かに――聞こえますか……? ああ、この音は……硬貨があなたのまえに積み重なる音だーァ! すばらしい! すばらしいね――それでははじめましょう! さいしょの出品です!」
競り台の成人男性が、示される。
かれの頭を、競売人のぽちゃぽちゃした肉付きのよい手のひらが、子どもにそうするように、叩く。
「ジョセフをご紹介しましょう――二十三歳! 体重はおよそ一八〇ポンド(八十一キログラム)! ご覧くださいこの屈強な筋骨! みなさまが子供時代に絵本で見た洞人そのものの体格でしょうが? これほどがたいのいい洞人は、ニューオリンズじゅうを捜しまわってもそうそうめぐり会えませんよ! 綿花畑でもサトウキビ畑でも、鉱山労働でもばっちこい! それでいて無駄口はほとんど叩かないってんだから、こりゃほかのボンクラ奴隷どもにも見習わせたいやね! ほれ、歯を見せてみろ!」
ジョセフの口に強引に指先をつっこむようにして、白い歯ならびをあらわにさせる。
「目端の利く手練れのみなさまは、こいつを見なきゃね! ほおら、歯ならびも申し分ない! てこたあ、このジョセフは健康そのもの、あと半世紀がとこは畑に立ちつづけられるってこった! さあさあはじめましょう――四〇〇ドルから!」
競売がはじまった。
買い手が札をあげながら、口々に入札金額をさけんでいく。
ぐい、と鎖が引かれ、わたしはつんのめった。
「ぼおっとしてんなや。おめえはこっちだ」
競り台のある広場からひきはなされて、わたしと何人かの女性は建物の陰へと連れていかれた。そこで待っていたのは、化粧の濃い天人の中年女だ。垂れはじめた乳房の上部をドレスからこれ見よがしに突き出していて、顔の産毛におしろいの粉が浮いているのが見える。
中年女は、ふん、と鼻を鳴らし、わたしたちの顔を見くらべた。
「この子と……この子だね。あとは要らない」
指さされたふたりのなかに、わたしは入らなかった。
「おいおい、こいつはどうした」
奴隷監視人に、わたしはぐいと引き出される。
「面なら、こいつがいちばんいいだろ」
「分かってないね。この子は“黒すぎ”なんだ」
にべもなく中年女が切り捨てる。
「さいきんじゃ、こういう濃い肌は人気がないのさ。うちの客どもはみんな白いのを抱きたがる。本音を言や天人がいいし、そうじゃなくてもなるべく白い洞人をえらぶね。ご面相なんざ大した意味はないのさ。娼館はうすぐらいんだよ――こまかな目鼻立ちなんぞより、白い肌がぼうっと浮かび上がるほうが、よほど“来る”もんさ。黒いのを抱きたきゃ、てめえんとこの泥くせえ奴隷を抱いてりゃ済む話だ、それにわざわざ金を払うもの好きなんざ、そうそういやしないよ」
「へえ、そういうもんかね」
「じゃあ、二人で三〇〇ドル、置いてくよ」
中年女が金を払うと、奴隷監視人は指名した二人の手錠を外した。その手首についた痕を、中年女がせわしなげにさすった。
「あらあら、可哀想にねえ。こんなに痕が付いちまってさ。……さあさ、こっちにおいで。ふたりとも、さぞかし疲れたろう。まずはなにかひと口食べて、それからゆっくりあたたかい寝台でお休み。明日になったら、店を案内してあげるからね……」
不自然なほどにやさしい声色が、建物のすきまへと消えていく。
奴隷監視人が、残されたわたしに向き直った。
「残念だったな。おめえは、きれいな服は着れねえってよ」
皮肉ではなく、心底から残念そうな声だった。もっとも、このひげ面の男にとっては、高値で売りさばけなかったことに対する残念さだったのだろうが。
「ちくしょうめ、だから女子供の洞人は貧乏くじだってんだよな。あのジョセフみてえな売れ筋が、ふたりもいりゃあなあ。しばらく、仕事を休んでウイスキーに浸かれるってもんなのによ……」
ぶるり、と身がふるえた。
いまさらになって、実感がわいてきたのだ――いま、わたしはかろうじて娼婦となる道を避けられたのだと。純潔など、経験な信徒としての生活態度など、洞人の女にとってはなんの意味も持たないのだと。
――お祖父さま。
胸の内で、よびかけた。
やはり、つづくことばは見つからなかった。




