076 とある少女の物語3
カナンの地――。
そう、呼ばれている場所だった。
話には聞いたことがあった。お祖父さまが、何度か語ってくれたからだ。むかし、逃亡奴隷たちの希望といえば、この場所をさししめしたのだそうだ。地下鉄道がいまだ産声さえあげていないころ、聖処女と呼ばれた偉大な洞人によって立ち上げられた、洞人たちの共同体。あらゆる寄る辺なきひとびとを受け入れ、その最終目的地として存続しつづける、さいごの希望。
それが、カナンだ。
じぶんが、じっさいにこの地に立つ日がくるとは、思ってもみなかった。
けっきょくのところ、わたしはたかをくくっていたのだろう。逃亡奴隷を助けることがあっても、じぶんが追われる身の上になるはずがないと、思い込んでいた。
カナンは、ふしぎと落ちついていた。
主要駅の崩壊も、地下鉄道の瓦解も、この場所からは遠くへだてられている。まるで、とおい異国が滅びた報を聞くかのように、ひびく。あらゆる現実、あらゆる喧騒からきりはなされ、いわば聖別されているのだ。
広場の中心に、像が据えられている。
聖処女──と呼ばれている。
合衆国でも連合国でも、そんな名の洞人は知られていない。ふくよかなすがたで空を見上げる祈りをささげるシスターの像のまわりは、きれいに掃き清められている。カナンの地に洞人があらわれると、まずおこなうのはこの像のまえでひざまずき、祈りをささげることだ。
わたしも、そうだった。
ハンナとともに降り立ったとき、逃げ延びたというよりは、たどりついた、というような意識をいだいたものだ。聖処女像を見上げていると、守られているような、ふしぎな感覚になった。しぜんと、膝をついていた。
あの日――ポッターさんに屋敷を追われた日から、もう一年が経つ。
カナンにぞくぞくと入ってきていた洞人たちも、ようやくひと区切りがついたようだった。主要駅の崩壊、各地の駅および線路の破壊によって行き場をうしなった駅員や乗客たちを、三名の武装車掌が縦横無尽に活躍して救い、このカナンへと送り込んでいたのだという。傷ついた人びとが到着するのを、わたしたちはもとの住人たちとともに迎え入れ、パンと小屋とを割り当てた。
カナンにいたのは、もともと数百人ていどだった。だのに、森の奥が切り拓かれ、ゆうに数千人が同時に暮らせるだけの広さが確保されている。たんなる村ではないことを示すように、家々は密集し、最大の効率をもって空間をつかえるように工夫されていた。すこし離れた箇所にはさまざまな畑と家畜小屋が設けられ、食糧のすべてが自給できるようになっている。年に生産できる食糧は、一万人が食いつなぐことができるほどのものだった。
つまり、カナンは準備されていたのだ。
こういった、避難民を受け入れる事態を想定して。
カナンに、村長はいなかった。
もともと、ちいさな共同体であったのだ。なにかあれば話し合い、合意をもって決定する。しかし、住人の数が二千人を数える現在では、これまでのやりかたはあまり合理的とは言えなくなった。
しぜんと、グループごとに代表があらわれ、それぞれの集団の利害を語るようになった。ひとりの人であれば、謙虚さや譲り合いの美徳が成立したが……属性をおなじくする集団がいくつも並び立つとなると、欲望や忌避感はむきだしとなってあらわれた。それぞれの集団が、問題は不均衡と不公平にあると口をそろえて主張した。食料の配当がおかしい、仕事の割り振りが公平でない、やつらだけが不当に優遇されている……こういった主張はいつも主観に濁らされてしまっていて、地下鉄道の面々はその対処に追われっぱなしとなった。
ハンナは、ソーヤー邸という巨大な「駅」での経験を買われ、このカナンでも駅員たちをまとめるリーダーとしての役割を果たしていたが……あまりに自分勝手な主張をくりかえす乗客たちに、ねばりづよく説明をおこなうのに忙殺されてしまっていた。
「あのひとたち、ほんと勝手だわ!」
ふたりになったしゅんかんを見つけて、わたしは溢れそうになっていた怒りを口にした。
「ハンナのこと、まるで圧制者みたいな言い方で責めるじゃない。みんなのために日々飛びまわってるのに、そこに対する感謝もなしで、毎日毎日これがほしいだのこれがやりたくないだの……」
「そういうものよ、乗客って」
「でも、いまは乗客じゃないのに」
「そうね、メアリーの言うとおり」
ハンナの疲れた顔に、うすい笑いがうかんだ。
「『このカナンにたどり着いたからには、聖処女さまの前で、対等な村人同士。ひとりひとりができることをやって、カナンを支えなくてはならない』……だったわよね。でも、すぐには意識は変わらないわ。とくに、いまはもとのカナンびとよりも、流入者のほうが多いような状況だもの。池にコップ一杯のコーヒーを注いでも、池全体が透明なのに変わりはないけれど、流れ込むコーヒーの量がおおすぎたら、どうしてもね……」
「そもそも、じぶんたちのちいさなグループの利益ばっかりかんがえてるのが、納得いかないのよ。カナンびとになったからには、カナンびとだわ。聖処女さまの率いた『聖餐隊』には洞人も天人も先住民もいたのよね。それとおんなじに、カナンもすべての人がひとしくカナンびとであるはずよ。それを、もと住んでた土地やら、おなじ主人に仕えた仲間やらで勝手に区切りをつけて、ほかのひとたちをまるで敵みたいに見て……そんなのは、カナンの理念に反するでしょう?」
ハンナが、くすっと笑った。
「あなた。ほんとうに、烈しくなったわね」
「え」
「いや、もともとこういう子だったってことよね。そんなに、理路整然と怒る子だとは思わなかったわ。おとなしそうに見えるから、てっきり、主張のすくない子だとばかり決めつけていたけれど……お屋敷では、ずいぶん猫を被ってたじゃない?」
「猫を被った覚えはないもの」
わたしはむっとして言う。
「怒る必要がなければ、怒らないわ。わたしは、理不尽が許せないだけ」
「ふんわりした声で言うには、いさましい台詞だわね」
「ハンナ!」
「あはは。ごめんなさい」
わたしはすこしふくれてみせてから、ハンナの笑いに釣られた。
「なんにしても。あなたが、明るく話してくれるようになっただけでも、救いだわ。この村ぜんたいのことは仕方ないけれど、わたしとあなただけでも、対等な関係でいましょう」
「ええ。対等な……お友だち?」
「あはは。そう呼んでもらえるのは、うれしいわ。わたしは姉妹みたいに思ってたけど」
「もちろん、わたしが姉ね?」
「言うわね、メアリー」
ハンナがいてくれることは、わたしにとっても救いだった。
軽口を交わすことができる相手、気がねなく接することができる友人……七つ年上のこの女性は、尊敬できるすばらしいひとだ。
わたしも、すこしは成長した。
すくなくとも、じぶんではそう思っている。
十四歳に、なっている。からだつきがすこし丸みを増し、子供の頃から荒れ放題にふくれていた癖っ毛を後ろでくくり、その上から頭布でまとめるようになった。粗布のワンピースとエプロンを身につけているすがたは、きっと、生活感あふれる主婦のように見えるだろう。
見た目だけでは、ない。
ハンナを手伝ってカナンの運営にたずさわるようになってから、ひとと仕事をすることにも慣れていった。相手が年上であっても、遠慮なくものを言うことができるようになり、じぶんの領分でみずから采配を振るうことにも慣れた。自信がついたせいか、すこし声がおおきくなった。乗客の人びとからは、一人前の駅員として、頼られるようにもなった。
……もともとこういう子だった、とハンナは言ってくれていたけれど、実のところ、わたしはひっこみ思案な少女から一皮むけたのだと自覚している。
けれど。
グレイスにくらべたら、わたしの変化なんてなにほどのこともない。
――マザー、なのだもの。
あの日、お祖父さまの家の戸口に倒れていたすがたを思い出す。
つぎのしゅんかんには飢え死にしてしまいそうなほど痩せて、裏切りをおそれる猜疑に充ちた光と、救済をもとめてすがるような光が、その黒い瞳のなかにまたたいていたのを。
そしてあの夜、月光に照らされた湖のほとりで、唇をかさねたときの顔を思い出す。
目をつむるまえには、祈るような、希うような欲望のふるえを発していたその顔が――目を開けたときには、おもわず目のまえに平伏してしまいたくなるような尊大なまでのやさしさをたたえ、わたしをつつみこむように見返してきていたのを。
いま思いかえすグレイスのどんなすがたにも――新聞が寄ってたかって書き立てているような、苛烈で果断な指導者へと成長する種がひそんでいるようには、見えなかった。
どうしても、あの少女と、地下鉄道の新総帥とが、頭のなかでかさならない。
――ほんとうに、あなたなの?
首に下げたぼろ布の小袋から、わたしはちいさく折りたたんだ紙片を慎重にひろげる。……“地下鉄道独立宣言”を報じた記事から、こっそりグレイスの顔写真だけを切り抜いたものだ。演壇からずいぶん離れて撮った写真をひきのばしたらしく、目鼻がぼやけかけてはいたが――そのグレイスの顔つきにも、いくつかの感情は読み取ることができる。
憎悪。
怒り。
屈辱。
殺意。
反抗心。
……いずれも、わたしの知る少女からは、ずいぶんと遠い。
写真のなかの顔を、わたしは指先でそっとなぜる。ざらざらとした粗い紙の感触をとおして、その奥の魂に触れることができたらいいのに、と思いながら。
――グレイス。
肩が、ぞくっと震えた。
いまや夏の盛りにも手ばなすことのできなくなった肩掛けを、そっとかけなおす。寒気は、すっかり馴染みの顔になった。あるべき熱からへだてられているせいで、寒くてたまらない。
あなたもそうだといい、とときどき思う。
傷ついてはいないか、無理してはいないかと心配するふりをしながら、あなたもおなじぐらい寒がっていてほしい、ともかんがえている。わたしは、とてもみにくい。
ぶぉーーーーー……おぉーーーーーおーー……。
地をふるわせる音がした。
子どもたちが騒ぎながら、空の向こうを指さしている。その指の向こうから、空をおおうような巨大な影があらわれる。
カナンの村じゅうが作業の手を止め、空を見上げた。
日に一度、このときだけはみなが仕事を止めるのがおきまりになっていた。
村ぜんたいをまるごとおおいかくすその影は、涙滴型のふくらんだ全身――まっしろな体表から、無数の緑色の帯をひいて空をとおりすぎていく。ゆっくりとすべるように流れていく。はるか上空にいるはずなのに、あまりに巨大すぎるがゆえに、間近にいるようにしか見えない。数十秒をついやし、ようやく影はとおりすぎた。
『白鯨』と名づけられた、それはそれは旧い龍だ。
この大陸北部を支配する空の神。伝説では六千年を超す太古から、カナンの地を見下ろしつづけているという、まっしろな龍の王。一説には、主要駅が敷設されていた龍――『カジキ』よりも年ふりた、世界最高齢の龍だと言われている。
ぶぅーーーーー……おぉーーーーーーーーーー……おぉーーーー……。
ふたたび、大気がふるえる。
そのまま『白鯨』は、はるか地平のかなたまで飛び去っていった。
手を止めていた人びとがまた、作業へとかかってゆく。わたしも、にぎりしめたままだった切り抜きを小袋のなかへとしまいこみ、ワンピースの襟元へとたくしこんだ。
「……さぼりすぎちゃった」
ひとりごちて、かたわらに置いてあったおおきな水桶を、また頭のうえに乗せた。
あと、三往復はしなければならない。よし、と気合いを入れて、わたしは郊外につくられた井戸へと歩きはじめる。
子どもたちがふざけながら駆けまわっているなかを、女たちが小粒のジャガイモの皮を剥いているなかを、歩いていく。ごくありふれた、カナンの光景。世間のあらゆるけたたましさから隔てられた、おだやかな村の、変哲もない一日だ。
「あ」
声に、立ち止まった。四歳ぐらいの男の子が、ぽかんとした顔をで空をながめている。『白鯨』はもうとっくにいってしまったというのに。
その子を残して、いっしょに駆けまわっていた子どもたちは陰へと走り込んでいってしまった。
「どうしたの?」
声を掛けた。
「みんな、行っちゃったよ?」
「……あれ」
男の子が指さす先を、振り向いた。
空に、ちいさな点々があった。
おおきな点のまわりに、ちいさな点たちがあちこちと飛びまわっている。夏場の蚊柱のようにも見える。しかしそれらはみるみるうちに大きくなってゆき……こちらに向かって編隊を組み飛んでくる、竜の一群だと気が付かされた。
おおきな点――ひときわおおきな一頭の背に、ふたりの子どもが乗っている。
天人の、うつくしい双子だった。
英国の貴族の子弟のように、きちんと仕立てられた半ズボンすがたで、どこか愉しげに歌っている声が聞こえてくる。
「♪ころーすころす」
「♪ころーすころす」
「♪われらが姫の、命ずるままに」
「♪われらが姫の、望むがままに」
「♪奴人はわたしにひれ伏して」
「♪泥んぼは泥に突っ伏して」
だんだんとおおきくなっていく歌声を、いつまでも聴いていることなどしなかった。
わたしはあらかじめ決められていたとおりに、すべての駅員が腰に下げている笛をとりだし、高らかに吹いた。ぴりりりり……という音が大気を切り裂いた。吹き終えると、叫んだ。
「敵襲ーーーーーーーっ!」




