073 赤と白銀
屋敷の廊下には、人影はない。
とおくから、パーティのさんざめく声が聞こえている。書斎の扉からは、わずかにレッドらの商談も漏れ聞こえてきていた。
そっと、その場を離れた。
昼日中だというのに一定間隔で灯された燭台が、ゆらゆらとほのおを揺らしている。南部貴族の屋敷は、意味もなく外界から仕切られていて、暗く狭苦しい。こんな空間で、よく息が詰まらないものだ。
絨毯の上を歩いて足音を減らしながら、すべるように歩いてゆく。
曲がり角に達した。
わたしは「声」を用いる。
聞こえるか、セイラ。
商談は間もなくまとまる。
そろそろここを離れるぞ。
これで、手筈はととのった。
あとはセイラの手引きでひそかに屋敷を離れ、パーティの終わりを待ってレッドの書斎に再集結する。
今後についての協議を終えたら、ことは完了だ。
わたしたちは、次のフェーズへと移行する。
「ああ、きみ!」
とつぜん、背後から声が掛けられた。とっさにふりむきたい衝動を、ぎりぎりのところで抑えた。
「ちょうどよかった、手洗いの場所を聞きたかったんだが」
ふう、と息をつく。
落ち着け。なにも知らない貴族などどうとでも手玉にとれるのだ。
作り笑いをととのえ、いかにも考えのない召使のような表情で、ふりむいた。
笑みが、かたまった。
向こうも、同じだった。
手を上げてこちらへ歩み寄ってきていた貴族は、よくよく見知った顔だったのだ。
金髪に通った鼻筋、さわやかな笑み、伸びた背すじ――トム・ソーヤーがそこにいた。
トムは瞬時にあたりをうかがい、わたしのからだを物陰へと押し込んだ。
鍛えられた両腕が、わたしの頭を周囲の視線からおおいかくすように、壁につけられた。
香水のにおいが、鼻についた。
「いったいなんだって、南部の社交界にきみがいるんだ……!」
ささやくていどの声量で、トムが言う。
「じぶんがどういう立場にあるのか分かってるのか……! 連合国じゅうの真述師がきみを狙ってるんだぞ。なんでわざわざ敵の掌中に飛び込むような真似をしてる? マーチのやつはいっしょなのか? どういうつもりで――」
「おーやおや! これはこれはソーヤー卿! うちの召使にいったいどうした御用向きですかな?」
レッドの声に、わたしたちふたりがともに振り向いた。
とっさにトムはわたしから離れた。
「なにか、うちの召使に粗相でもありましたかな? それとも、なにかほかのお目当てがおありですかな?」
余裕たっぷりの言いまわしにしては、ずいぶんな早足でレッドは近づいてくる。
かつかつかつ、という足音がぴたりと止まると、乱暴にわたしのからだを引き寄せた。両肩にレッドの手が置かれる。
「ただ、このむすめは止めておいたほうがいい。性悪でしてな――猫に手を引っかかれるのがお好きというのでなければ、おすすめはできませんよ」
焦りが、見受けられた。
レッドはトムが地下鉄道の車掌であることなど知らない。わたしが南部の真述師に「くだんの驚嘆すべき少女」であると知られれば、さきほどまとめたばかりの儲けがまるごと消失する。露見のリスクを避けようとするのは、とうぜんの行ないだ。
しかし――
露見をおそれるのは、トムのほうもおなじだ。
「ああ。それでしたら心配いりませんね。私は手を引っかいてくる猫ほどかわいく思うたちでして」
「へえ。変わったご趣味だ」
「失礼でなければ……ひとつ、ご相談に乗ってはいただけませんか」
レッドがぎょっとした顔をした。
わたしにちらりと目をやり、すぐに笑みをとりつくろう。
「いやはや。弱りましたな。じつを申せば、この子はさる筋からの預かりものでして……。私の判断で売るわけにはいかないのですよ」
「そこをなんとか、あなたのお力でどうにかなりませんかね」
トムも引き下がる。
トムの目にもわずかに焦りがあった……わたしが、地下鉄道頭領が、南部貴族の所有物となっている事態を、危難ととらえたのだろう。事情はうかがいしれなくとも、ひとまずは救出にかかるべきと、そう判断したのだろう。
それでいて、間延びした南部口調は崩さない。見事なポーカーフェイスだったが……いまは、うっとうしいだけだった。
「めんどうな。バトラーも地下鉄道側だ、トム」
地下鉄道――という単語を耳にしたふたりの反応は、まさに神速だった。
トムはわたしを背後へ隠し、と同時に懐から抜きはなったナイフをレッドの喉口へと殺到させる。いっぽうで、レッドも袖口に仕込んだ刺突用の短剣を伸ばしトムの喉仏へと突きつける。
たがいに、もう一インチ踏み込めば殺せるという地点で、動きを静止する。
ちぃ、とトムが舌打ちをし、
にい、とレッドが歯を剥き出した。
「……口は、封じなくていいってことか。グレイス」
「そうだ」
「ほう。これは驚いた。ソーヤー卿、あなたともあろうお方が、洞人に膝を屈しているとはね。なかなかスキャンダラスな光景だ」
「やはり、口を封じておくか」
「おおっと。よしてくれたまえ。私はきみたちのたいせつな顧客だよ? そうだろう、グレイス?」
「ナイフを引け、トム・ソーヤー」
「ほうら。きみの主人がこう仰せだぞ、犬っころ」
ぎり、とトムが歯ぎしりをした。
トムがナイフの刃先をひっこめようとしたしゅんかん、
「おまえもだ、レット・バトラー」
と、わたしは言う。
レッドはもったいぶった動きで刃先を引き、トムも同時にしかたなさそうにナイフを懐へと収めた。
張り詰めた空気は、しかしやわらぐことはない。
トムが、まだ納得しかねているのだ。
警戒の色を解くこともなく、レッドから目を離すこともせず、トムはわたしに問うてくる。
「……この男を、車掌に?」
「違う。協力者だ」
「顧客、とさきほど言っただろう。耳はついているのかね、仔犬くん」
あくまでにやにやとした笑いを、レッドは崩さない。
その胸ぐらを、トムの拳がねじり上げる。
「そろそろ黙れ」
「おやおや、血の気の多い……。グレイス、飼い犬の躾が足らんようだぞ」
意味のない敵対だ。
わたしはこめかみを揉んだ。
こういう連中は、黒猫のなかにもいた。意味なくつっかかるものと、すぐに喧嘩を買いたがる手合い。たがいの言い分をときほぐしてみても、最終的には理ではなく感情に終着するのだ。「あいつがどうも気に食わない」というような。労力をかけるだけ、損だ。
かれらのような人種には、あつかい方というものがある。
──と。
「あら。バトラーさん。それにソーヤーさままで」
スカーレットが、完璧なほほえみをたたえて廊下に立っていた。
わたしがそれに気づいたときには、トムはレッドの服を離しており、レッドも着衣の乱れを完璧にととのえ終えている。個人的な感情を剥きだす割には、ふたりとも擬態にすぐれていた。
「スカーレット嬢」
「変わった組み合わせですわね。おふたりは、知己でしたかしら」
「ええ、まあ」
トムが言いよどむと、横合いからレッドが悠然とした顔で言う。
「ゆっくり語らうのは、きょうがはじめてですよ。いや驚きましたな──スカーレット嬢、このソーヤー卿はすばらしい旅行家でいらっしゃるのですよ。まさか北西部の狩猟がそこまで刺激的なものだとは……このレット・バトラー、蒙をひらかれました!」
「ええ。とはいえ私も、ミネソタ州でケンタウロスを撃ったにすぎません。バトラー卿、あなたのようにほんものの竜を撃ったひとなど、そうはいますまい」
とつぜんの話に、トムも顔色を変えずに如才なくついていく。
レッドの片眉が、興味ぶかそうに持ち上げられたのを、わたしは見逃さなかった。
「狩猟、狩猟ね。南部貴族の方がたは、明けても暮れてもそれですもの。すこしはご婦人がたにも関心を持てる話題をえらんだっていいのではなくって?」
「ご婦人がたの話題となると……編み物ですかな? ソーヤー卿、編み物はいいですな……こう……編むところが」
「ええ、それと……暖かいところが」
「はいはい。無理を申したわたしが馬鹿でしたとも」
スカーレットをむくれさせて笑い合う男ふたりは、まるで幼なじみ同士のような無邪気さと仲の良さをうかがわせる。ふたりとも、たいした役者だ。
「さあて。そろそろ私たちは失礼しましょう。どうですかな、喫煙室で葉巻でも」
「お、噂の喫煙室ですね。これはうれしいお誘いだ。バトラー卿の、あの有名なグリフィンの剥製を拝見できるとなれば、大陸の端からでも駆けつけますとも」
「ああ、あれは仔グリフィンなのです! 私には敵が多くてね、評判ばかりを釣り上げようとする輩が多いのですよ……」
熱っぽく語らいながら、ふたりは廊下を後にしていく。
ふん、と聞こえよがしに鼻を鳴らしてふたりを見送ったスカーレットが、ふと、こちらを振り向いた。
「あなた」
目を伏せる。
ふしぜんな行動ではない。奴隷は、基本的に指示されなければ天人と目を合わせないのが礼儀だからだ。だが、じろじろとこちらを見てくるスカーレットの視線をこれ以上避けようとすれば、不審がられる。
わたしは、表情を変えた。
口をすこし開き、表情筋を弛緩させ、まぬけた面をよそおう。すべての奴隷が演じることのできる、ありふれたおろかな奴隷の顔を、つくろう。
スカーレットの視線がさえぎられた。
と同時に、なにかが投げ渡される。とっさに受け取ると、日除け帽だった。
「これを、オハラの召使に渡しなさい」
ちいさくうなずき、わたしはその場を辞した。




