006 なにをお願いするのかと訊いているんだ
それから、おまえは待たされた。
夜になってから、ずいぶんと時間が経ったようだ。
着替えさせられたあと、使用人に連れられて、きれいな部屋へと通されていた。
さいしょの頃こそ、ご家族がたがつかうようなベルベット張りのソファや、蝋燭がふんだんに点された華美なシャンデリアに緊張したものだが、ここで待たされる時間が数時間におよんだとなれば、おまえも見飽きて退屈するばかりだった。はてには、眠気まで忍びよってくるほどだ。
もともと、奴隷たちも夜は遅い。就寝時間は午後九時とさだめられていたし、毎晩、奴隷追立て人たちが就寝をたしかめにやってきたが、この男が帰ってゆくと、奴隷たちの時間がはじまったものだ。
こっそりと寝床を抜け出して、じぶんたちの菜園をたがやすのだ。
トウモロコシ粥だけで足りない栄養をおぎなうため、じゃがいも、かぶら、えんどう豆といった作物をつくることが、奴隷たちには認められていた。けれども、菜園をたがやすのは週に二回とかぎられていた。これでは、いかにも足りない。だから、奴隷は夜、主人たちの目をぬすむようにして、たがやす他なかったのだ。きつい肉体労働のあとに、さらに肉体労働が待っている。へとへとになって宿舎にもどると、死んだように眠りをむさぼるのだ。
おまえにとっても、おなじこと。
ほんの限られた広さの土地とはいえ、毎晩たがやしているから、今日ひと晩放っておくのが、落ち着かない。あの畑はどうなるのだろう。お屋敷づとめの奴隷たちに、畑をたがやす時間なんてあるんだろうか。それとも、そもそもじぶんたちで野菜をつくる必要がないほど、お屋敷では豊富な食事が与えられるのだろうか。
くう、と腹が鳴った。
その割には、とおまえは思う。こんな夜ふけになるまで、粥の一杯もパンのひとかけらももらえるでもなく、ただ、待たされている。腹にはなにも入れないほうがいい、としか言われていない。家内奴隷として、なにを仰せつかるのかの説明も受けていない。ここにおまえを連れてきたとき、使用人はただひとこと、
――お声がかかるまで、待ちなさい。
そう、言いのこすばかりだった。
もしかしたら、旦那さまはわたしのことなど、忘れているのかもしれない。
おまえの頭に、そんな考えが浮かんだ。
気まぐれに野外奴隷に声をかけ、家内奴隷に引き上げることなど、旦那さまにとっては、めずらしくもないのだろう。これだけおおきな大農場を経営されている旦那さまのことだ、もっとたいせつな仕事に打ち込まれているうちに、ちいさな洞人のむすめのことなど、頭から消えうせてしまったのかも。
そうとも、とおまえは思う。
旦那さまは、おえらいかたなのだもの。とるに足らない奴隷むすめのことを、いつまでも覚えているわけがない。この大農場には、八〇〇人もの洞人たちがはたらいているのだ。あんなささいな事件ひとつで、声をかけられたことじたい、なにかのまちがいだったのだ。
それよりも、おまえが気になっていたのは、母の居場所だった。
この広いお屋敷のなかの、どこでお母さんははたらいているのだろう。どんな仕事をしているのだろう。もしかしたら、夜おそくまで書きものをされている旦那さまの、お手伝いをしているのかもしれない。ガチョウのペンを削り、書棚から本を取ったり、たまにはお考えをまとめるために話し相手になったり。お母さんは字が読める。もしかしたら、旦那さまの代わりに、本の一節を読み聞かせてさしあげたりすることもあるのかもしれない。
わたしだって、とおまえは思う。
わたしだって、字が読める。お母さんが、こっそりと教えてくれたのだ。たまに奴隷宿舎に帰ってくると、おなじ毛布にもぐりこんで、手のひらにアルファベットを書いてくれた。二十六文字を、くりかえし、くりかえし。ときどき、お父さんからの手紙も読ませてくれた。かんたんな単語のつづりかたは、それで覚えたのだ。だから、わたしだって、字が読める。
旦那さまがそれに気づいたら、と夢想は広がっていく。
わたしも、旦那さまのお手伝いをできる。お母さんといっしょに、ガチョウのペンをけずったり、書棚から本を探したりできるんだ。お母さんとはたらいて、旦那さまに褒められて、毎晩お母さんといっしょに眠ることができる。もうからだを酷使したり、土にまみれたりすることもなく、まるで天人のように、暮らすんだ。そんな生活ができたら、最高だ。
「来なさい。……おまえはそのまま、つづけていなさい」
お声がかかったことに、すこしの間気づけなかった。
いまのは、旦那さまの声だった。
さいしょの来なさい、ということばは、まちがいなくじぶんへと向けられている。おまえはそう気づいて、慌てておおきな扉を開いた。音を立てないように後ろ手に扉を閉めると、薄くらがりのなかに、踏み込んでゆく。
寝室のようだった。
中央に、天蓋つきの巨大な寝台が据えられている。わずかな蝋燭が点され、薄絹の緞帳の向こうから、人影が座っているのが見える。くぐもった水っぽい音がたえまなく響いていた。
ううむ、と旦那さまがうなり声をあげる。
ご不満のお声だとかんちがいして、おまえは身をびくりと震わせた。が、違うらしい。心地よさに浸っているような声だった。よくよく見ると、旦那さまのシルエットの下半分が、小刻みにうごいているようにも見える。
なんだろう、とおまえはいぶかしむ。
「来たかね。さあ、こちらへおいで」
旦那さまがおまえを手招きする。
おずおずと、おまえは寝台へと歩み寄ってゆく。
近づいていくほどに、薄絹の向こうのすがたが見えてくる。旦那さまは、寝台の縁に腰かけているようだ。その下にひざまずくようにして、だれかがいるらしい。一心不乱に、うごいている。水っぽい音は、そこから響いているのだ。
しゃらり。
緞帳が、旦那さまの手によって開かれる。
ひざまずいていただれかが、びくりと身を震わせ、しかしまた動きを再開した。
「え――」
ちいさく、声を漏らしていた。
おまえの見たものが、あまりに予想外の光景であったからだ。
旦那さまは、裸だった。
その股間に、顔をうずめているのは、洞人の女性だ。やはり裸の背中をこちらへ向けている。水っぽい音は、口でなにかを咥えながら、けんめいに上下に顔を動かしている音だった。その後頭部から垂れる、うねりながら落ちてゆく髪のくせに、見覚えがあった。
「ほら来たぞ、マリア」
女性が、股間にうずめていた顔を上げる。こちらを向いた。それでおまえは知る。聞きまちがいだと思った名前が、正しかったということを。
母が、そこにいた。
「い……や……」
母は、よだれを垂らし、頬と耳を真っ赤に染めたままに、半狂乱になって騒ぎはじめた。
怒られる、とおまえは身がまえするが、母が、旦那さまに向かって叫んでいたことに気がつく。
なぜ。
なぜですか。
娘にはお手をつけないでくださいと、あれほど。
旦那さま、お約束してくだすったのに、なぜ。
「おいおい、落ちつきなさい、マリア。
たしかに、おまえの言うとおりだよ。約束はした。だから私も手をつけなかったのだよ、三年前にはな」
「そんな――っ!」
「いまはもう、違うだろう?
おまえの娘は、じゅうぶんに熟れた。いまが、摘み頃だろう?」
「娘は、まだ十二ですっ……!」
「おまえがさいしょに私の寝室に来たのも、そのぐらいだったなあ」
母が絶句する。
なつかしいなあ、と旦那さまは、母の髪をもてあそんだ。
「実になつかしい。あれがもう、十三年もまえのことになるのだから。
しかしつくづくすばらしいな、奴人という連中は。十三年も経つというのに、マリア、おまえの見てくれはまるで変わらない。あれほど恥じらい、あれほど泣きわめいた夜から、なにひとつな。
だから、こういう趣向も叶うのだ。
見た目の変わらぬ母娘を、同時に愉しむ、というような」
母の目が、いっしゅんだけ、おまえを見つめる。
絶望を浮かべた瞳が、なにかを諦めるように、またたきする。旦那さまの足元に、ふたたび、ひざまずく。
お願いいたします、と母は言う。
なにをお願いするのかね、と旦那さまは言う。
娘だけはどうか、と母は言う。
なにをお願いするのかと訊いているんだ、と旦那さまは言う。
母は。
やがて、うなだれる。
「わたくしに、くださいませ」
床に額をこすりつけるようにして、母は言う。
「この哀れな牝に、くださいませ」
旦那さまが笑い。
母が、その上へとまたがる。旦那さまの目は、おまえを見つめている。反応を愉しむように、おまえの価値観が砕け散っていくのを、見てとろうとしている。
母が、貫かれる。
「いやあああああああああああああああああああああああっ!」
おまえは、叫んだ。
いまなにが起きているのかを、これまでなにが起きていたのかを、ようやくに悟って。
グレイス。
グレイスよ。
ここでおまえがした選択が、おまえの人生を、すべて変えてしまったのだ。
おまえは――




