064 黒い猫が目のまえを横切っていく
みなが、騒いでいる。
やけに気忙しい街から、熱のこもった語り口調が漏れ聞こえている。いつになく高頻度で開け閉めされる扉の向こうから、どこか浮ついた空気が流れ込んでくる。迷宮街ぜんたいが、なにやら高まりつつある熱に当てられているかのようだった。こうして事務所に腰かけているヘンリーにも、異様な雰囲気は肌で感じられた。
黒猫の件で、『仔猫』を訪ねた日から、さらに半年を数えていた。
ここひと月ほどは、『仔猫』をおとずれる黒猫の数も激減しており、もとの迷宮街に戻ったとばかり思っていた。だというのに、今日になってとつぜん、街の空気は激変を遂げたのだ。
部下たちはみな、ひとり、またひとりと街のようすを見に事務所を離れていた。彼らが一向に戻ってこないのが、気に掛かってしかたない。残っている何人かも、外でなにが起きつつあるのかをたしかめたくて気もそぞろといった調子だった。
やがて、騒々しさが消え失せた。
ふいに、落ち着かなくなる。嵐が襲うまえの、ほんのちょっぴりの晴天を眺めているようなきぶんだった。ヘンリーは帳簿の上に羽ペンを投げ出した。どっちにしろ、さいぜんから集中を欠いていたのだ。それから膝の上で義腕の拳を組み合わせ、ただ扉を見つめる。そのすがたを見て、部下たちもおのおのの仕事を中断した。
ただ、待った。
きい、と扉が開いた。
受付嬢だ。どこか、呆然としたようすだ。
「どうした? トラブルか?」
部下のひとりが、言わずもがなのことを、尋ねる。
「いえ、あの……皆さま、いなくなってしまって……」
「ああん?」
素っ頓狂な部下の声を聞くよりも早く、ヘンリーは立ち上がっていた。大股で事務所の奥から飛び出して、すぐにギルドの談話室へと駆けつける。
受付嬢の言うとおりだった――そこには、誰もいない。
先ほどまで飲み食いしていたギルド員たちが、飲みさしのグラスや食いかけた肉をそのままに、消え失せている。
「なんだこりゃ……」
追いついた部下たちが、背後で唖然とした声を上げた。
スイングドアが、ぱたんぱたんと閉じたり開いたりをくりかえしている――出ていったばかりのギルド員たちに手を振っているかのように。ヘンリーはスイングドアに近づいた。胸から膝までの高さの扉を、分厚い義腕の手のひらで押し開ける。
目のまえを、ふたりの少年が駆け抜けていった。
少年たちは、どこか興奮したようすだ。顔を赤らめ、いかにも焦った風情で駆けていき、人だかりへと合流していく。
迷宮街の目抜き通り――いちばんの大通りのまえを、見物人たちが埋め尽くしている。ギルド員たちの見慣れたすがたも、そのなかに紛れていた。
「なんなんです、あの騒ぎ?」
「大統領のパレードが通るなんて話は聞いてなかったですがねえ」
部下どもの軽口を無視し、ジョン・ヘンリーは人混みへと入っていった。
豪腕でひとの波をかきわけながら、最前列を抜ける。
目を、丸くした。
黒猫――である。
ひとりやふたりではない。えんえんと連なる行列を成し、黒猫たちは規則正しく行軍している。みな、迷宮から帰還したばかりといったふぜいで薄汚れているにもかかわらず、疲れ切ったようすはない。いまから戦場におもむかんとする精鋭部隊といったおもむきの、自信にあふれた戦士たちの足取りだ。
それにしても、数が多い。
尋常ではない。いつまで経っても行列がとぎれない。
増えているという認識はあったが、これほどまでの規模に膨れ上がっていようとは、ついぞ気がつかなかった。じぶんの知らないところで、なにか巨大な思惑が進行していたとしか思えない。掌握していると思っていた迷宮で、これほどの事態を見過ごしていたという事実が、ヘンリーを打ちのめした。
「……行列は、どこに向かってる」
ギルド員のひとりを捕まえ、問いただした。
えり首をつかむほどの剣幕に驚きながらも、ギルド員は答えた。
「なんでも……ギルド『仔猫』のほうみたいですが……」
やはり、とヘンリーは思う。
人混みを抜け出して、黒猫の行軍をたどるように走っていった。
『仔猫』の看板が見えると、行列はそこで折りたたまれるように整然と街路を埋め尽くしていた。その列からはみ出た数名がおそらく指揮官であろう。そのひとりにけんめいに話しかけているマーチを見つけた。
マーチはまくしたてるようになにかを問いかけ、そのたびに、短く端的な答えしか返ってこない状況に苛立ちを示していた。
「これはなんだ、マーチ」
「分からん。さっぱり、分からん。事前にはなにひとつ聞いていないし、問い詰めてもはかばかしい答えは得られないんだ。まったく、馬鹿にしてる」
へいぜんと背すじを正している黒猫の指揮官をにらみつけ、マーチは吐き捨てた。
「全員、黒猫なのか」
「ああ。だが、『仔猫』の登録者数なんてとっくの昔に超えてるよ、この数。五百人までは数えたが」
「やつらが出てきたのは、いつからだ」
「三十分ばかし前さ。俺も、ひとに言われてはじめて気がついたんだ――慌ててギルドを飛び出したら、もう整列がはじまってた。行列は、迷宮の入り口から連なってやがるんだろ? 俺は見に行けてないんだ、ここを離れられないから」
迷宮から、出てきた?
あの黒猫どもが、いっせいに?
そんなこと、いままで聞いたこともない――五百人以上の採掘者が、いっせいに出てくるなんてことは。ひとつの採掘隊が目標の金額に達したり、なんらかの目的を果たして連れ立って出てくる例ならある。黒猫たちを巨大なひとつの採掘隊と捉えるのであれば、ありえない話ではないのかもしれない。だが、目的を果たしたのだとしたら? 黒猫たちにとっての目的とは、いったいなんなのだ?
うずまく疑問の答えは、やがて、向こうから現れた。
いつまでもつづくかと思われた行列が、向こうから、ざわめきをまといながら、その「端」をあらわしたのだ。
ひときわぼろぼろになった黒装備をまとう、黒猫であった。
最後尾を成すその三名だけは、装甲服の上に黒色の外套を羽織っている。整然と行進するその直前までの黒猫と異なり、悠然と歩をすすめるその三名だけが、異様な空気を発していた。肩口にひっかけられた同色の外套が、風に揺れている。
中央を歩く一名――その肩にまとわりつくように、黒い煙が揺らいでいるのも、また異様である。
煙は意志あるもののように伸び縮みしながら、ときおり空中に静止し、また動き出すことをくりかえしている。野生動物がぐるりのようすを伺うときのような動きだ。
最後尾の三名が、市中の注目を一身に浴びながら、静止する。
とたんに、黒猫たちが全員、背すじを伸ばした。よく訓練された兵団を思わせる。
「マーチ」
中央のひとりから、くぐもった声がする。
「マーチは、いるか」
「ここです」
おずおずと、ヘンリーの隣でマーチが手を挙げる。
マントを羽織った黒猫はこちらに近づいてくる。仮面が外された。
「マーチ。待たせた」
グレイスが、あらわれる。
この一年で、ずいぶんと背丈が伸びたようだ。天人の血が混じっているのだろう。マーチの鳩尾までしかなかった頭が、いまやほとんど首元まで来ている。どこか精悍ともいえる表情に、以前見たときの幼さはもはやみじんもない。代わりに、削ぎ落としたような鋭いものがある。目つきは余裕をたたえ、肉食獣の獰猛さを保持しつつも、荒んではいない。人を率いるのに馴れたようだ。
「ああ、ジョン・ヘンリー。おまえも来ていたか。ちょうどいい、助言を請いたい」
「なんだ?」
声が上ずらないよう気をつけながら、ヘンリーは返す。
「出てこい、亡霊王」
ことばは、中空に向かって投げつけられた。
そのしゅんかん、グレイスの肩にまとわりついていた煙はひとところに凝縮し、まるで瞬時に液体と化したかのように、質感を変える。空中に、そこだけ切り抜いたかのような闇が顕現した。闇のなかに、にい、と笑うひとの歯列がとつぜんに現れる。
目鼻のあるべき箇所の空間に、文字が浮かび上がる――「Hi!」であった。合わせて、頭部の巨大さに不釣り合いなあほどに小さな胴体と、手のひらだけを肥大化させたようなアンバランスな両腕があらわれた。胴体の下に足はない――空中を、浮遊している。
「オイオイオォォォォイ!」
きんきんとした甲高い声が、あたりに響きわたった。
「ご主人よォォォ! おれさまをそう使い魔みてえな気安さで呼びつけてもらっちゃあ困るぜえ! こちとら天下の亡霊王! 木っ端みてえな死霊や動物霊ふぜいとはものが違うんだァからよォ! ものがよォ!」
闇に浮かんだ口がくるくると動いて喋りはじめる。
その都度、顔に浮かんだ単語は目まぐるしく入れ替わっていく。どうやら、この亡霊の心情をあらわすらしかった。
詰めかけていたギャラリーがどよめく。
異形にあふれた迷宮のなかでも、これほど巧みに人語を操る怪物は見たことがない。迷宮の真緑なしにこれほど形状を保っている怪物というのも、前代未聞だ。
「うるさい。すこし黙れ」
グレイスの声に「ORDER!」という文字を浮かべて亡霊は黙る。口はひん曲げられ縫いつけられでもしたかのように閉ざされた。
「それでヘンリー。相談というのはこいつに絡むことなんだが――」
「すまん嬢ちゃん。河岸を変えても、構わねえか?」
ヘンリーがかろうじてさえぎりそう言うと、グレイスはいま気づいたようにあたりを見回す。迷宮街中の人間が、野次馬になって詰めかけ、聞き耳を立てていた。
「……たしかに、衆目が多すぎるな」
グレイスは、笑った。




