060 潜るんだよ
差し出された水を飲み、すこしのあいだ呼吸をととのえるのに専念したのち、グレイスはようやく落ち着いた様子で、ふーっと息をついた。
「すまなかった。心配を、かけた。
ときどき、『声』が流れ込んでくるんだ。離れているひとのも、対面しているひとのも。あの戦いで、マザーと離れてからだな。まだ、コントロールできてない」
「マーチ。……この嬢ちゃんは、『声』を?」
「ああ」
フレデリック・マーチが首肯する。
「だが、俺の知るかぎり、マザー・旧い馬車のようなかたちではない。
マザーはいちどきに、複数の耳に『声』を吹き込むことはできなかった。
その代わり、夢のなかへ『声』を伝えることはできたようだがね。
……思うに、マザーの『声』とは、対話を企図していたものなんだ。あるいは語りかけかな。
グレイスの『声』は違う。
明確に、演説と説得の方向へ向いてる。魂のかたちが、そう違うんだろうな。
いずれにせよ、『声』は『声』だ」
「それで、マザーか」
ヘンリーは納得する。
納得する、ふりをしている。
心臓が早鐘のように打っていた。
見破られた。
見透かされた。
その動揺に、脳のすべてを占拠されていた。
じぶんが隠しとおそうと努めてきたもの、おくびにも出すまいと気を付けていたものが、見透かされている。考えれば、旧い馬車もそうだった。これほど露骨に口には出さなかったが、ヘンリーのことを分かっているようすで、うなずいていた。
「おまえは、それほど肩肘張らないでよいのだよ」
と、肩を叩かれたこともある。
これが、『声』のちからか。
あらためて、ジョン・ヘンリーはおののいた。
さいわい、フレデリック・マーチらは、グレイスが解き明かした「秘密」に関心を示していないようだった。
グレイスの体調を気づかうのに精いっぱいで、それどころではないらしい。じぶんがこれ以上うろたえさえしなければ、問題なく、流せる。
「もう、じゅうぶんだ」
「しかし、マザー。西部に到着してからというもの、休みをとっておりませんから」
「いいんだ、プルートゥ」
マスクのひとりに手を振ってから、グレイスはもういちどこちらに目を合わす。
黒曜石の瞳が、ふたたびヘンリーを映す。
目を逸らしたいという欲求にけんめいに逆らいつつ、ヘンリーは座を正した。
「すまなかった、ジョン・ヘンリー。ずいぶん失礼を働いた。あらためて謝罪を申し述べたい」
「かまわねえよ。話をつづけようぜ」
「感謝する」
「おまえさんが訊きたかったのは、俺がどうして地下鉄道に協力してるかだったよな?
基本的にゃ、さっき言ったとおりだ。とくに思想なし、余ってる金を送ってるだけ、嫌なら止める――そんぐらいだな。で、どうする? おれは資金提供をつづけていいもんかね?」
「これまでの資金提供については、感謝している」
グレイスは落ち着いた口調で語る。
「おまえは、わたしたちの同胞だ。洞人の互助を機能させてくれていることには、頭が下がる。わたしは西部に着いたばかりだが、この『鉄槌』なるギルドの評判はいくども耳にした。いわく、実力主義で、洞人だけをいたずらにひいきすることもない。合衆国が理想とする民族融和という題目も、ここではしぜんと実現できている。おまえの努力の賜物だろう」
「……だが、と来るのかい?」
「だが。これ以上の資金提供については、つつしんで遠慮したい」
先に反応を見せたのは、マーチだった。
「お待ちください」
「なんだ?」
「あなたが西部にゆくといったとき、俺は止めませんでした。同胞であるジョン・ヘンリー氏との関係をあらためて強化し、そこからの資金を軸に組織を建て直そうという意図があると解釈したからです。だが、これでは」
「これでは?」
ちらり、とマーチの目がこちらを向く。
ヘンリーは「気にしないで、つづけてくれ」との意を込めてうなずいた。
「……これでは、地下鉄道は唯一の資金源をうしないます。ただでさえ、北部では出資者をあれほどに叩きのめしたんだ。空っぽの財布で、どうやって組織を建て直すんです」
「0からだよ、マーチ」
へいぜんとグレイスが言う。
「0からはじめるんだ。
わたしたちは、これまでマイナスからはじめていたんだよ。他人の同情や他人の財布を当てにして活動するっていうのは、借金をしているようなものだ。金を借りておきながら、洞人たちに誇りを持てと伝えるのは、むずかしい。
洞人たちに、いまいちばん欠けているもの、いまいちばん必要とされているものこそが、誇りだ。
洞人は、じぶんたちを天人以下だと思い為している。奴隷にふさわしい劣等種族なのだと、思い込んでいる。あまりに長くそう言い聞かせられているから、呪いのように染み付いてしまっているんだ。
これを、あらためなければならない。
そのために、まずは借金をなくすんだ。地下鉄道は0からはじめるんだよ。わたしたちの手で。そういうすがたを見ればこそ、洞人たちに誇りを伝えることができるんだ。
少なくとも、わたしはそう考えてる。
異論があれば、教えてくれるかい。マーチ」
なるほど、とヘンリーは思う。
この少女は、想像したよりも大した玉だ。新聞記事から読み取れたのは、激しやすく直情的な子供のすがただったが、いま目のまえにいるのは違った。しっかりとした考えを持ち、それをためらいなく実行に移せる優秀な指導者だ。想像していたのと、まるで違った。
たとえ『声』を持っていなかったとしても、彼女はじゅうぶんにマザーと呼ばれる価値がある。
おれの後継者に欲しいぐらいだな、とヘンリーは胸の内でつぶやく。
「……分かったよ、嬢ちゃん。そこまでしっかり考えての結論なら、おれとしても受け入れるにやぶさかじゃねえ。今後は資金提供を遠慮させてもらうさ。だが、べつに道をたがえたわけじゃねえんだ。なにか手伝えることがあれば、いつでも言ってくれ」
「ありがとう。ではさっそく、いくつか頼みたい」
にっこりと、グレイスが笑う。
屈託のない表情に、かすかに警戒心が鎌首をもたげはじめた。
「まずひとつ。
ギルドの設立を、認めてもらいたい」
「……ん?」
予想だにしない申し入れに、ヘンリーは首をかしげる。
「ギルドってのァ……おれの知ってるギルドで合ってんのか?」
「そのとおり」
「なにをするつもりだ、嬢ちゃん」
「潜るんだよ。もちろん」
迷宮攻略を意味するスラングを使ってみせ、グレイスはふたたび笑った。




