005 憐れみ、蔑み
気の遠くなるように遅々とした日の陰りを恨みながら、奴隷たちは働きづめに働き、ときどき何人かが鞭打たれた。旦那さまが現われるというめずらしい事態の印象は、労働の単調な律動のなかに埋没してゆき、代わり映えのしない秋の一日がまた過ぎ去った。
そして、夜になった。
仕事を終え、奴隷宿舎へと帰ってゆく洞人たちの流れに逆らって、おまえは立ち尽くしていた。
これから、お屋敷に行かねばならない。
でも、どうやって?
おまえは困惑していた。
使用人たちが、ふだんどのようにしてお屋敷に入っているのか分からなかった。あの木立のなかを通り、威圧的にそびえる正門から、玄関を叩いているのだとは、どうしても思えなかった。
土ぼこりと汗にまみれた木綿のワンピース一枚をまとい、裸足を土に黒ずませている恰好で、お屋敷におとないを入れるなど、考えただけでぞっとする。
せめて、宿舎から靴だけでも持ってこようか、とおまえは考えていた。
と。
洞人たちの行列が過ぎ去ったとき、そこにひとりの使用人が立っていたことに、おまえは気が付いた。使用人は母の身につけていたのよりも華やかさに欠ける服を身にまとい、おまえをまっすぐに見つめている。
「来なさい」
短く、きびしいことばを放って、使用人は歩きはじめた。
お屋敷の方角に向かっている。彼女が迎えのものだと気が付いて、おまえも慌てて後を追った。
お屋敷づとめの洞人の例に漏れず、その使用人も、綺麗な顔立ちをしていた。しかしどことなく神経質そうなきつい眉をしていて、お母さんほどはうつくしくない。とはいえ、綺麗な服装と決然とした態度に、おまえは気後れした。このひとに逆らわないほうがいい、と思った。
「あの……グレイスと言います」
「分かっています」
自己紹介も、にべもなく撥ね付けられた。
名前を聞き出そうという試みにも頓挫して、おまえはただ、その使用人の早足に遅れまいと足の動きを早めることに集中する。
なにも考えまいとすると、空腹が存在感を主張しはじめる。
いつも通りに帰っていれば、そろそろトウモロコシ粥にありついているころだ。母が屋敷づとめで帰ってこない日には、おまえも畑で働けない年齢の子供たちに混じって、大鍋で煮たどろりとした粥をすすっていた。そのために、配給されたトウモロコシの粉を隣の夫人に渡しているのだ。湯気の立つトウモロコシ粥を思い浮かべると、お腹がきゅうっと鳴った。
じろり。
前方を歩く使用人が、おまえを睨めつける。
お腹の音を鳴らすことは、お屋敷ではとんでもなくはしたないことなのだろう。でも、お屋敷で食事にありつけなければ、旦那さまのまえでも鳴らしてしまいかねない。家内奴隷たちがどんな食生活を送っているかは分からないけれど、じぶんにも分けてくれるだけの量があるといいな、とおまえは思う。
歩きはじめて三十分もしたころ、ようやく、お屋敷まえの並木道へと差し掛かった。
まるで王様のまえに控える侍従兵のように、大きな楡の木が両側を埋めている。その中心に腰を据えているお屋敷がだんだんと近づいてくる。
お屋敷を見るのは、何年ぶりだったろうか。
おまえには思い出せない。
この大農場に生まれ育ったおまえにとって、お屋敷の存在はいつも心にあるものだった。もっと幼いころは、そのなかでくりひろげられる絢爛な生活を夢見たし、すこし年長になってからは、畏怖の念をいだきながら仰ぎ見た。歩けば三十分ていどで着くお屋敷ではあったというのに、はるか遠いものとして見ていたのだ。
いつか、お屋敷づとめになる。
お母さんのように綺麗な服を何着も持ち、旦那さまや奥さまにお声を掛けられて、そのお世話をするのだ。
そういう夢が、いま叶おうとしている。
だというのに、おまえの胸に、高揚はない。
疑問が頭にうずまいているだけだ。
旦那さまが、なにを評価してじぶんを家内奴隷へ出世させたのか、まるで分からない。奴隷監視人に背いただけだ。たしかに小利巧な口を利いたりはしたものの、奴隷が知恵を振るうことをよろこぶ主人など、どの世界にもいるわけがない。
いや、とおまえは考えなおす。
旦那さまは、立派なかただ。
お母さんのように、うつくしく、賢いひとをちゃんと分かって、お屋敷に置いているのだ。きっと、使用人をつとめるのに必要なのは、従順さだけではない。気が回ること、知恵がはたらくことを求められるのだ。
だから、わたしは評価された。
お母さんが評価されているのと、おんなじに。
おまえはそう思う。
それでも、おまえのなかに、誇らしさは立ち上がってこない。
だれかが鞭打たれるまえと同じような、恐怖未満の感情が、胸をざわつかせている。その感情を、おまえは緊張と名づけることにした。わたしは緊張しているのだ。柄にもなく、あがってしまっているのだ。生まれてはじめてお屋敷のなかに入るのだもの、しかたないことなんだ……。
グレイス。
グレイスよ。
おまえは、目を背けている。先祖が与えてくれた精霊のおつげを聞くちからを、信ずることなく、耳を傾けることもなく、流れに身を任せている。
いまはまだ、しかたない。
おまえは、十二歳の少女でしかないのだから。いまは、まだ。
お屋敷の正面玄関を見ながら、ぐるりと裏口へまわると、壁のなかに溶け込むようにして、扉がつくられていた。使用人は迷うことなく扉を開ける。おまえはその後につづいて屋敷へと入る。
勝手口、であったようだ。
繋がっているのは、家内奴隷たちのはたらく台所だ。奴隷宿舎と同じ、むっとした体臭がおまえの鼻をついた。積み上げられたじゃがいもを剥いている奴隷がいる。暖炉にこびりついた煤を拭っている奴隷がいる。それらの目が、じろりとこちらに向けられる。
農場ではたらかされている野外奴隷たちと、ちがうところはなかった。
表情にちからはなく、瞳に光はない。
屋敷づとめであることの誇りや、選民意識は、見受けられない。おまえは困惑する。値踏みされるような目を向けられることよりも、彼女らの顔に明るさが見受けられないことに、戸惑う。
「この子を、洗いなさい」
使用人は、天人のように居丈高な口調で言った。
「湯と石鹸を使って、隅々まで磨き上げて。この子は旦那さまのまえに出るのだから」
幾人かの奴隷がおまえに歩み寄った。
おまえの腕を引っ張ると、台所の隅まで連れてゆく。断りもなく服を脱がされ、どこかに持ち去られた。ちゃんと返してくれるんだろうか、とおまえが思っていると、湯が沸かされ、金だらいへと注ぎ込まれる。そのなかにうずくまるように言われ、目の粗いブラシで体がこすられはじめた。
おまえの体から、みるみる土ぼこりと垢がこすり落とされていく。脂で固まっていた髪が、石鹸の泡で包まれ、何度も湯で流され、だんだんと軽くなっていく。
「その汚いなりでは通せないからね」
使用人が冷たく言う。
「お屋敷のなかに足跡でも付けられたらと思うと、ぞっとするよ。ノミやシラミを持ち込まれて、奥さまやお嬢さまたちのつかうシーツにでも移されたら、わたしたちが鞭打たれちまう。そんなのはごめんだよ」
からだを洗われることについて、おまえには異存などあるわけがなかった。
こんなにたくさんの湯や石鹸をつかうことなんて、生まれてはじめての経験だ。
子供のころは、周りの子供たちと十把一絡げに川で行水させられるのがせいぜいだったし、さいきんでも、週に一回湯を染ませたぼろきれでからだを拭うぐらいが関の山だ。髪を洗ったのなんて、思い出せないほど昔のはなしだった。
さすが、お屋敷だ。
ようやく、おまえのなかに高揚感が芽ばえはじめた。
清潔なタオルで拭われたあと、おまえに手渡されたのは、絹のドレスだ。
しゃらりとした手ざわりは、生まれてはじめてだった。ずっと撫でていたくなるような感触だ。あまりの白さを、じぶんが着ることで汚してしまうのではないかと、恐れたほどだ。覚悟を決めて身を通すと、おどろくほど抵抗なく、肌のうえを生地がすべっていった。
ひんやりとした着ごこち。
すこし身を動かすたびに、風に吹かれたようにさらりと動き、落ちる布地。
こういうものを服というのだ。おまえは息を呑んだ。
「こちらに立ちなさい」
使用人が、おまえの手を引いた。
連れてこられたのは、鏡のまえ。いくぶん錆び、端々が黒ずんだ姿見のまえで、おまえはおまえのすがたに息を呑む。
母に、似ていた。
いくぶん肌色こそ薄いものの、その色艶や、瞳のかがやきは母のものとおなじだ。
うねりながら落ちてゆく髪のくせも、脂が取れてみれば、なかなか悪くない。気の強さがあらわれていると不評だった、太く吊った眉のかたちも、母ゆずりのやさしい目頭に合わされば、それほどいやな感じを与えない。
身ぎれいにするだけで、これだけお母さんに近づけるんだ――。
おまえにとって、それがなによりうれしいところだった。
グレイス。
グレイスよ。
おまえは気づいていないのだ。
じぶんの変身ぶりに夢中になるあまり、周囲の視線に、気づいていない。周りをとりまく洞人たちが、おまえにどういうまなざしを注いでいるのか、分かってはいない。
それは、憐れみのまなざしだ。
それは、蔑みのまなざしだ。
これから穢されるもの、これから損なわれるもの、なにも知らずに笑う無邪気なおまえのよろこびを、シルクの布地から透ける肌を、憐れみながら、蔑んでいるまなざしだ。
おまえ以外は、知っているのだ。
これからおまえに、なにが待っているのかを。




