056 独立宣言
だれもが、耳をうたがった。
いままで見ていたはずの、悲痛そうな表情を浮かべた元奴隷の少女が、どこにもいない。じぶんたちが同情を向けていた、哀れな洞人少女が、どこにもいない。
代わりにいたのは、怒りを剥きだしにした獣だ。
「可哀相――とでも思ったか?
この奴隷のむすめはなんと哀れなのだろう、
助けてやらねば、
手をさしのべてやらねば――そう、思ったか?
私たちには、このむすめを助けてやることができる、
手をさしのべてやることができる、
なぜなら私たちは、金を持っているから、
力を持っているから――そう、思ったか?
金を出せば、あのみじめな洞人たちは涙を流してよろこぶだろう。
投げられた小銭をささげ持ち、ありがとうごぜえます、旦那さま、奥さま、と、
くりかえしくりかえし礼を言うだろう――そう、思ったのか?
あいにく、おまえたちにわたしたちを助けることはできない。
守ることはできない。
救いをもたらすことなどできない。
わたしたちは、寛大な旦那さま、奥さまからのがれてきたのだ。
のがれた先で、また寛大な旦那さま、奥さまに媚び、
へつらい、
奴隷らしい阿呆面で笑っていることを強いられて、
なにが助けだ、なにが救いだと言うんだ。
北部は、このアメリカ合衆国こそは理想郷なのだと、わたしたちは思い描いていた。
天人も洞人もおなじように扱われ、
あたりまえの人間の幸せをだれもが持てる夢の国なのだと、信じていた。
しかし、どうだ。
ここでも、洞人は天人に見くだされ、虐げられ、さげすまれている。
変わらず、道具として扱われつづけている。
変わらず、人間未満としてあしらわれつづけている。
なにも変わらない。
なにひとつ。
おまえたちは、じぶんを良心的な人間だと思っているのだろう?
じぶんたちは違う、見くだしも虐げもさげすみもしていない、道具として、人間未満として洞人を扱うこともない、進歩的で、価値観の進んだ人びとだと思い込んでいるのだろう?
だが、おまえたちに理解などない。
もし理解などがあったら、わたしはこのような服を着せられていない。
疑問には思わなかったのか?
たとえ元奴隷の洞人といえど、こんな場所に立つときに、こんなボロ布を着てはこないだろうと、ちらとでも考えなかったのか? わたしが恥を感じるだろうと、思わなかったのか?
そうだろうな――
この恰好は、みじめでうすぎたない奴隷という印象は、おまえたちの偏見を、おまえたちの固定観念を、そのままかたちにしたものだからだ。
おまえたちは、洞人がそんなふうに見てくれを気にするだろうという発想さえ持たないのだ。洞人がそんなふうにものを考えるだろうということさえ、思いもよらないのだ。
洞人とはこういうもの、
奴隷とはこういうものと決めつけ、例外を想像しようとしてみた試しさえないのだ。
南部の天人たちと、なにひとつ変わらない。
わたしたちを見くだしておりながら、見くだしていることさえ、おのれで気がつかないのだ。
もう、うんざりなんだよ。
おまえたちが、『じぶんたちの立場』を再確認するための道具として、わたしたちを使うな。
そのために、
そのためだけに、わたしたちを固定観念の枠に閉じ込めようとするな。
おまえたちの善意など乞うものか。
おまえたちの小銭など要るものか」
会場が静まりかえっていた事実に、グレイスがことばを切ったことではじめて気がついた。
だれも、このすきまにさえ口を挟むことがままならない。
洞人が、しかもこれほど年端のゆかぬ少女が、これほどまでにじぶんの考えを語るというだけで、想定外なのだ。それも、これほど攻撃的なことばを向けられるとは、だれも覚悟していない。
思考停止は、まるで荷馬車のまえに飛び出してしまった仔猫のそれだ。
「わたしは憎む。
かつての主人を、ではない。
おのれの運命を、ではない。
ましてや、この黒い肌を、では断じてない。
わたしは、おまえたちを憎む。
他人の不幸を覗き見ようとする、下劣さを憎む。
おのれの身の幸運をたしかめるため、弱者を利用するあさましさを憎む。
他人を弱者の枠組みにおしこめ、へいぜんと善人をよそおう、しらじらしさを憎む。
あくまでじぶんたちを高みに置き、まちがいを犯しているのではないかという疑いをちらとも持たぬ、愚鈍さを憎む。
かくのごとく汚れておりながら、自身を純白と思い込む厚かましさを憎む。
おまえたちの持つ、すべての自己欺瞞を憎む。
おまえたちは、わたしたちに石を投げるものどもの、何倍も、何層倍も、たちが悪い」
憎悪の宣言を、グレイスは終える。
そのまま唇を引きむすび、”声”を用いる。
セイラのなかに眠るジムの血が、そのことばを頭蓋のなかで反響させはじめる。
わが、誇りたかき同胞よ。
この街にいる、すべての黒き人びとよ。
なぜ、下を向く。
なぜ、下を向いてしまうのだ。
絶望をつきつけられたとき、
ひざまずいて諦めようとするのは、
嵐が過ぎ去るのを耐えしのぼうとするのは、
奴隷の態度だ。
おまえたちは、奴隷なのか?
おまえたちは、まだ奴隷なのか?
まだ、おまえたちは鎖に縛られているのか?
まだ、おまえたちは鞭に打たれているのか?
まだ、奴隷としておのれを扱っているのか?
わたしは、そんなものを認めない。
わたしは、そんなことを許さない。
鎖は、おまえたちのなかにある。
鞭は、おまえたちのなかにある。
だが、思いたがえるな。
鎖は、心を縛れない。
鞭は、心を砕けない。
下を向くな。
前を向け。
にらみつけろ。
運命がおまえに刃を突き立ててくるのなら、
刃向かうしかない。
跳ね返すしかない。
視線に、殺意を込めろ。
まなざしに、叛意を込めろ。
おまえを虐げるものに、
おまえを型に押し込めようとする力に、
抗わなければならない。
これ以上、連中をのさばらせておくな。
おまえたちは、
おまえたちこそが、
誇りたかき、最高の民族なのだ。
常に、そのことを覚えておけ。
この場にいる、数のすくない洞人たちが、グレイスの目をまっすぐに見つめている。
セイラはそう気がついた。
いつの間にか、会場のなかには何人かの洞人が目につくようになっていた。給仕をしていたものは立ち止まり、料理をしていたものは裏から出てきていた。靴磨きの少年が立ち上がり、花を売っていた少女が立ち尽くし、電灯を直していた修理工が地表に降りてき、下水道工事の配管工が顔を覗かせていた。いままで、努力しておのれの存在感を消していた彼らが、すがたを見せていた。立ち止まり、視線を受けるのも気にせず、グレイスを見つめていた。
グレイスは、そのひとりひとりと目を合わせるように、ゆっくりと眺めわたす。
大騒動が起きている。
この場にいる”声”を聴けないすべての天人たちにとって、数分間にわたるこの「沈黙」は、少女のことばを脳が咀嚼し終え、なんらかの感情的反発を示すまでにじゅうぶんな猶予であったのだ。
あちらこちらで怒声がひびき、壇上からこの無礼なむすめを引き下ろすよう騒いでいる。
上流階級のものが多いとあって、ものこそ投げつけてはこなかったが、白い顔を真っ赤に染めて激怒を示している。
気短な紳士のひとりが、眉間に皺を寄せ目を剥きながら、壇上へと上がろうとするのを、セイラは見た。手ずからこの無礼な元奴隷を引きずり下ろそうと画したのだろう。
男は、太鼓腹をゆさぶるようにして壇上へと大股で歩み寄り――その道中で、何者かに阻まれる。
行く手を阻んだ人影と、赤ら顔の紳士が何往復かの口論を交わし、しびれを切らした紳士が手をあげようとし、勢いあまって転んだ。
その醜態を見下ろす、人影の正体が見えた。
洞人の、少年である。
エジソン社の芝生で押し問答をしていた彼だと、セイラは気がついた。
少年は倒れた紳士を威嚇するようににらみつけ、それから壇上へ視線を向けた。つづけてください、というようにうなずく。
「プルートゥ」
満足げに少年の名前を呼び、グレイスは微笑を返した。
グレイスは、騒ぎ立てる聴衆へと向き直る。
それだけで、けたたましい天人たちのわめき声が、収まる。格上の肉食獣に威圧された、みじめな雑食獣のように。
そして。
宣言する。
「わたしたちは、自立する。
地下鉄道は、独立する。
今日このときをもって、おまえたち天人のくびきから、洞人を弱者にとどめおこうとするすべての圧力から、解放される。
――二度と、われわれの首に鎖を巻こうなどと思い上がるなよ、天人」
少女が、視線を外す。
彼女がもう振り向かないと分かったとたんに湧き上がった糾弾や痛罵の声を背に、グレイスは袖幕の奥へと去っていく。大声をあげる隣席の天人の目をそっと盗み、セイラは会場裏へと急いだ。
グレイスは、ボロ着のうえに男物のフロックコートをばさりと羽織るところだった。
いままでじぶんが立っていた演壇にも、わなわなと震えるフィリップスにもまるで関心をうしなったかのような顔で、こちらに視線を向けてくる。
「セイラ。マーチ。
まずは、財源を確保しよう」
「どうするおつもりです?」
マーチのことばが、目上の人間に対するものに変わっていた。本人が、気づいているのかいないのか。グレイス自身もそのことになんの疑問も持っていないように、そっけなく語を返す。
「西へ、ゆく」




