052 これが、ニューヨークか
世界に五十年、先駆けている。
この都市はそう言われていた。
近未来都市、ニューヨーク。
摩天楼と名指される高層建築の群れが、天をささえる柱のように空を切りとり、そのあいだを新式の飛行船が縫うようにして飛び交っている。
地に視線を落とせば、行き交う人びとは携帯型情報端末を操作してこくこくと変化しつづける株式市場に接続したり、自動車と呼ばれる馬の要らない馬車で駆けぬけたりとせわしない。
すさまじいほどの喧噪と騒音を、道ゆく誰ひとり気にしている風情もない。
これが、この街のあたりまえなのだ。
辻自動車から降り立ったしゅんかん、おおくの洞人はこの騒々しさに圧倒され、しばらくまともに歩くことさえままならなくなる。
慣れ親しんだ南部の風景とのあまりの落差に、その密集した人の群れに、まるで船酔いしたかのように吐き気をもよおしてしまう。
それゆえ、マーチら地下鉄道が洞人をこの街に連れてきたときには、一刻も早く同族たちの集まる集会場へと連れていくようにしているのだ。
おなじ肌を持つ同胞たちに囲まれれば、まだ、息ができるからだ。
だが――きょうに関しては、そうするわけにもいかない。
マーチはそっとグレイスのようすを盗み見た。
少女は辻自動車を下りたしゅんかんこそ目を丸くしていたが、いまは唇を引きむすんで、この異常な環境に身を慣れさせようと努めているように見えた。
口をつぐんだままの彼女は、どこからどう見ても、ごくあたりまえの洞人少女にしか見えない。
――ほんとうに、こんな子供に演説を任せちまっていいんだろうか?
蓋をしたはずの疑問が、またぞろ鎌首をもたげはじめている。
強引に、振り払った。
マーチが、セイラとグレイスを連れてニューヨークを訪問すると決めたわけではなかった。
呼ばれた、というほうが正しい。
この街は産業の中心であり、財を成した篤志家たちがおおく集っている。
おおくは進歩主義者の天人たちだったが、彼らこそが地下鉄道の主要な出資者となっている。
じっさい、このニューヨークこそが地下鉄道の本拠であると言っても言い過ぎではない。
彼ら出資者は、みずから地下鉄道の活動に身を投じるわけではなかったが――奴隷を救うという理念に共鳴し、財の一部を活動資金として提供してくれていた。
その寄付金集めのパーティが、きょう、執り行われるのだ。
もちろん、“カジキ”の崩壊という報を受けての緊急開催であることは言を俟たない。
地下鉄道としては、今回のパーティでなるべくおおくの寄付金を募っておかねばならない。
組織をいちから建て直すとなれば、先立つものはおおいに必要であるし、それ以上の事情もある。
篤志家たちの一部には、これを機に地下鉄道が活動を収縮していくのではないかと見る向きもあるのだ。
きっぱりと、否定しなければならない。
ある程度、再建の手法について語る必要もあるだろう、とマーチは考えていた。
これまでの地下鉄道は、その性質上秘密主義にならざるをえない部分が大きかった。
だが、ここまでの敗北を喫したいま、出資者たちが手を引かないためにも、具体的なビジョンを示してやる必要がある。
どういった形で主要駅を建て直し、組織構成を見直し、KKKとの戦いに備えていくのか、語る必要があるだろう。
もちろん、示した計画はじっさいには使えない――ここは合衆国内の領土ではあったものの、KKKの手の者は至るところに潜んでいる。公開する計画は、ダミーにならざるを得ない。
敗北について報告し、今後の計画を示す。
海千山千の商売人を向こうに回して、納得を勝ち取る。
くわえて――
篤志家たちの同情をたっぷりとひかねばならない。
成し遂げなければならない目標は、あまりに多い。
だというのに。
今や、地下鉄道には旧い馬車がいないのだ。
代わりにいるのは、この十二歳の少女ひとりきり。
着慣れぬ旅行着の背をむずむずと動かしている少女の背中を、もう一度、マーチは見つめた。
「……大丈夫か、グレイス」
そっと声を掛け、少女の顔を覗き込む。
予想に反して、少女はもう、摩天楼を見上げてはいない。
視線は街のなかをさまよっている。
街路をゆく通行人たちを、どこかかなしげにながめている。
「どうした? なにを見てる?」
「……洞人が、いない」
「洞人? そこらじゅうにいるだろう?」
マーチは街を指した。
ちがう、とグレイスは首を振る。
「通行人のなかに、だれひとり、いない。
歩いていない。
この街にいる人間はだれも彼もどこかへ向かう途中みたいなのに、そのなかに、洞人は入ってない。
洞人はみんな、下を向いてる。
……だから、こうやって見まわしているのに、だれひとり、目が合わない」
言われてみれば、とマーチは気がつく。
この街にいる洞人は、みな、肩を縮め背中を丸めて、端のほうにいる。
店の前を箒で掃かされているものがいる。
天人の革靴を一心に磨いているものがいる。
街路の排水溝の泥をさらっているものがいる。
みな、グレイスの指摘どおり、下を向いていた。
「……下を向くのは、目線を合わせたらやばいからさ。グレイス」
セイラがささやく。
「マザー・チャリオットが教えてくれたよ。
この街では、天人は洞人をさげすまない。ただ、怖がられてるんだ。
洞人は、異物として見なされてるから。
洞人は、なにをしでかすか分からない、と思われてるから。
金がなくて、学がなくて、じぶんたちと違う見た目をしているから、なにをしてもおかしくないって思われてる。
だから天人を見たりしてると、その目つきだけで、警官が寄ってくる。
へたに反論したりすると、もうブタ箱行きさ。
よけいなトラブルをしょいこみたくなけりゃ、下を向いてるに限る」
「……これが、ニューヨークか」
ぽつり、とグレイスがつぶやく。
声の端に、失望がにじんでいた。
と。
「やあやあ。お待ちしてましたよ!」
角の高級ホテルから太鼓腹を揺らしながら駆け出してきたのは、三つ揃いの背広を着込んだ天人男性だ。
「お久しぶりですな、ミスター・マーチ。
ひどい怪我をなさったとうかがって心配しておりましたが、
なかなかどうしてお元気そうだ!」
「これでも無理してんですよ、ミスター・フィリップス」
軽口で応じ、肩を叩きかえして固い握手を交わす。
フィリップスは如才ない社交家らしく、旧友との親交をあたため直すのにじゅうぶんと思われるだけの時間、たっぷりとマーチの目を見つめてから、ふと、といった調子でグレイスに目を留めた。
「これはこれは……。
このお嬢さんが、例の”驚嘆すべき少女”ですかな?
デイヴィッド・フィリップスと申します。お近づきになれて光栄です」
「グレイス、と言います」
差し伸べられた手を取りもせず、グレイスが言う。
フィリップスの手は数秒の静止を経てすこしのあいだ空中を泳ぎ、ぽんぽんとベストのポケットを叩いた。
さも元からそうするつもりであったかのように、むっちりとした指でつまむように懐中時計を取り出す。
「ああ! これはいけない!
あまり時間がありませんな――あとは控え室でお話ししましょう、どうぞこちらへ!」
*
「そうですか……。マザーはそのようにして最後を……」
フィリップスはやわらかなソファの座面に埋もれるように、ふかぶかとため息をついた。
スイートルームだった。
豪華な調度品のなかで、フィリップスの磨き込まれた肌はシャンデリアの照り返しを受けてつやつやとかがやいている。
フィリップスはしばし沈黙する。
そうしていると、彼自身も高級家具になりおおせたかのようだ。
マーチは知っている。
この男のまとう背広も、香水も、くゆらせるパイプも、このスイートルームの代金も、すべて地下鉄道に寄せられた寄付金のなかから出ていることを、知っている。
ただ、この男の口利きでおおくの篤志家たちをパーティに呼び集められているのも事実であるから、目をつむっているだけだ。
だが。
こうしてマザーの不在を悼んでみせるすがたが、いかにもしらじらしく芝居がかっているのには、さすがに苛立ちを抱いた。
「……ともかく。
これから地下鉄道じたいを建て直していくからには、資金が不可欠です。
マザーの雄弁なくして寄付を募るのは至難の業と言わざるをえませんが――なんとか、われわれが一丸となって乗り越えてみせましょう。
演壇に立つのは、すると、あなたおひとりで?」
マーチは「いいや」と首を振る。
「こちらのグレイスもだ」
額を指で弾かれでもしたかのように、フィリップスは表情をこわばらせた。
これまでほとんど黙殺していたにひとしい少女を見て、幼児に対するおきまりの微笑を向けてのち、マーチの耳元へと口ひげを寄せてくる。
「……それでは、噂はほんとうなのですな?」
「ああ。くわしくその噂とやらは聞いてないが、おおかた合ってるはずですよ」
「間違いないのですな?」
「正直言えば、おれたちも確信を持ってるわけじゃない。
ただ、声を持ってることは、たしかだ」
長い嘆息をもらし、ふたたびフィリップスは背もたれへと帰っていく。
「……私は、地下鉄道の構成員というわけではありません。
ご覧の通り、洞人でさえありませんからね。
ですから、最終的な決定権を持ち合わせていないのは事実です。
だが、言わせていただくなら――私の意見がほんのすこしばかりでも皆さまのお耳に入れていただけるなら――子供に舵取りを委ねるというのは、いささか賛成しがたい決断ですな。
いかに洞人が子供らしく見えようと、ほんものの子供を旗印に立てるというのは――あ、いや、差別的な意図はありませんとも、ええ、神に誓って――それはともかくとしても、組織の長と呼ばれる重責を、この年端もゆかぬお嬢さんに任せるというのは、あまりに無体とは言えませんかな。
私自身はともかく、出資者の皆さまに承服いただけるかどうか……」
返すことばがない。
そもそも、マーチ自身が、理性では納得していない。
しかしあの日――ソーヤー邸の地下空間で、この少女が声を用いたあのしゅんかん、その場にいる洞人すべてがおなじ結論に達してしまったのだ。
それこそ、旧い馬車をはじめて目のまえにしたときと同じく、確信してしまったのだ。
このひとこそ、”マザー”なのだ――と。
その確信を、宗教的啓示とも呼べる体験を、説明することばをマーチはあいにく持ち合わせてはいない。
徹底して実学にこだわってきた生臭牧師であるマーチにとって、それはありうべきはずがない経験だったのだから。
ふう、と、フィリップスはふたたび嘆息する。
「……分かりました。
もともと私は構成員ではありませんからね、意見を容れてもらおうなどと虫のいい考えは持ち合わせておりませんとも。
ええ、皆さまの決定に従います。そりゃもう、奴隷みたいにね。
ひとまず、演説の内容については私に一任いただけますな?
ミスター・マーチ。あなたは地下鉄道の組織再建計画を語る準備だけを進めていただければ結構。
……ああ、時間ですな。
まずはEE社に訪問せねば。
グレイス嬢、セイラ嬢、お疲れのところご無理を申しますが、ご同行願います」




