051 とある少女の物語2
マザーが、現われた。
マザーが、生まれた。
新しいマザーの噂は、集会に立ち会った駅員全員から、屋敷中にもたらされて駆けめぐった。
あれは間違いない、俺は見たんだ――。
先だってまでの敗残兵の絶望は、もはや見る影もなかった。
昂揚感に囚われた駅員たちが、新しいマザーについて語らっていた。
ほんのちっぽけな、少女なのだという。
ついこのあいだまで、奴隷だったのだという。
たったひとりで奴隷追跡人を数十人も打ち倒したのだという。
旧い馬車が目を掛けていて、後継者とささやかれていたのだという。
異常にことばにちからがあり、語る声を聞いていると、取り憑かれたようになるのだという。
マザー。
その名は、まだだれも知らなかった。
だれに聞いても、判然としなかった。
噂の張本人は、幹部連中と屋敷の一室に籠もりきりになっていて、会うことは許されなかった。
だれもが会いたがり、声を聞きたがっていたけれど、だれも許されなかった。
でも、会わなければと思った。
わたしは、会わなければならない。
わたしの耳が正しければ、そのマザーは、ひとりしかいないのだ。
だというのに――。
「どうしてですか」
わたしはポッターさんに詰め寄っていた。
この上品な老執事が、これほど憎く思えたことはない。
「どうして、わたしがカナンの地へ向かわなければならないんですか」
「避難のためです」
ポッターさんは冷たく言いはなった。
「あなただけではありません。メイドは本人の意志にかかわらず、カナダへと旅立ってもらうこととなりました。主要駅が潰されたいま、この屋敷が特定されるのも時間の問題。そのまえに、すべてを引き払う必要があります。
あなたがたメイドは、地下鉄道について、知りすぎている。
それはつまり、KKKに身を狙われるということです。捕まれば、ひどい拷問が待ち受けている。残念なことに、旦那さまにもわたしたちにも、あなたがたを守ってさしあげる余裕はないのです」
「守ってほしい、などと言ってはいません。わたしも地下鉄道の『駅員』です。地下鉄道が再建の道をゆくのであれば、お手伝いしなければなりません」
「足手まといですな」
ずばりと言ってのける。
「それに、地下鉄道が再建できるとは限りません。何年経っても目処が立たず、生涯にわたる逃亡生活をただ強いられる羽目になるやも。旦那さまはこう仰いました――『ウチのかわいいメイドたちを、そんなもんに巻き込むわけにはいかないよね』と」
「わたしは、」
「あなたの意気は買いましょう。ただ、それだけです。これは相談やお願いではありません。旦那さま――つまりは地下鉄道の『武装車掌』が出した命令なのです。あなたが地下鉄道の一員であると名乗るのであれば、命令系統には従いなさい」
「……はい」
うなずくしか、なかった。
「よろしい。では、早く支度をなさい」
「最後に、いいですか」
「なんですかな」
「新しいマザーに、会わせてください」
背を向けていたポッターさんが、こちらを振り向く。
表情は、変わっているようには見えない。
「どうして、あなたが?」
「個人的な問題です」
「いけませんな。……そもそも、あの少女をマザーと見なしているのは一部の駅員です。あまり期待を掛けすぎると、失望しますよ」
「いいんです。その子がマザーでなくたって。
ただ、マザーと呼ばれているその子に会わせてください。
一度だけ会わせてもらえたら、おとなしくカナダへ向かいます」
「駄目です」
「どうして」
「あの子が、マザーになる可能性があるからです」
予想外の答えだった。
「いいですか。
私はまだ、あの子がマザーであるとは見なしていない。ただ、これから彼女が地下鉄道を統率する器に育ちうる、とは見ているのです。
彼女はたしかに力を持っている。あの集会は、はからずもそれを証明してみせたのです。
あの弁の立ちよう、度胸の据わりよう、決断の力強さ、おのれの感情を伝播させる能力、ことばの持つ魔力……。
すべてが、われわれ幹部にはないもので、後天的には身につけようもないものなのです。
声を持っているかどうかなんてことは、さほど重要なファクターではない。ひとを統べる器というのはあるものだ。私ははじめて旦那さまに会ったときにも、感じた。じっさい、その直感は間違ってはおりませんでした。
まだ、マザーではない。マザーには、足りない。
ただ、今後マザーになりうる。
それが、私の結論です。
おそらく、いま議論を戦わせている幹部連中も、じきにその結論へと達するでしょう。
となれば――あなたの存在は、邪魔なのです」
「邪魔……?」
「あなたは、彼女を知っていたのでしょう?
事情は知りませんが、なみなみならぬ思い入れを持っているようすだ。つまり、彼女にとっても、あなたはそれだけ重要な存在ということになる。あなたに会うことで、彼女が単なる女の子に戻ってしまうかもしれない。怒りを燃やしつづけることを、やめてしまうかもしれない。
そうなれば、地下鉄道はふたたび、頭領を失うことになる。
これは、なんとしても避けたい事態なのです。
だからあなたを、あの子に会わせるわけにはいかない。
私の独断ではありますが……長い目で見れば、幹部連中も、彼女自身も、納得してもらえるはずだ。
お分かりですかな?」
「そんな……」
「あなたは、地下鉄道の『駅員』だと名乗りましたね。
なら、重要な目的のためにおのれを押し殺す覚悟はできているはずです。
個人的な感情は、後に回しなさい」
「……あの子は、納得しているんですか?」
「言ったでしょう。これは私の独断です」
怒りが沸点に達した。
わたしは大きく息を吸い、屋敷じゅうに響き渡る大声でわめこうとし――失敗した。
ポッターさんは、片方の掌でわたしの口をふさぐと、もう片方の掌でわたしの鳩尾を軽く叩いた。
痛みはほとんどなかった。
だのに、意識が薄れていく。
「……お許しを、メアリー嬢」
ポッターさんの声がとおくに聞こえる。
もう声は出なかったけれど、わたしは何度も胸の中で呼びかける。
グレイス。
グレイス。
あなたに、いつかかならず、会いに行くから――。
*
目が覚めると汽車のなかにいて、傍らのハンナがわたしを厳しい目で見据えていた。
わたしはもう後戻りができない場所にいるのだと気がついた。
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第二章完結です。
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