050 とある少女の物語1
これは、解放の物語ではない。
これは、革命の物語ではない。
これは、戦争の物語ではない。
これは、恋の物語だ。
わたしにとっては、ずっと。
*
胸に穿たれた穴は、灼熱し、脈打った。
ふしぎと、痛みはなかった。
ただ、目のまえの女の子が、きれいな目いっぱいに涙をたたえたままに崖を落ちていくのが、ひどくゆっくりに感じられた。
――ひどい顔。せっかく、素敵なのに。
わたしはほほえんでいた。
口の端から血の筋が垂れていてみっともなかったけれど、さいごに、その子の記憶に残るわたしの顔が、せめて笑顔であるように。
崖を落ちていくすがたは見届けられなかったけれど、どこにもぶつかることなく、どぼん、という水音が聞こえた。
あそこは、滝壺みたいに水底までが深い場所だから、きっと助かる。
だいじょうぶ、きっと助かる。
あなたは助かるよ。
わたしは、ちょっとだめみたいだけれど。
KKKの追手が、崖の底を覗き込み、なにかを仲間に叫んでいる。
その声も、ずいぶん遠くに聞こえる。
命がうしなわれそうになっているときって、音は遠くに聞こえるんだな。
新鮮にそう感じた。
ああ、とわたしは思う。
夜の森の木々に切り抜かれた月を見上げながら、後悔する。
あなたに、寄り添っていたかった。
あなたと、生きてみたかった。
抱きしめ合ったときの体温が、その熱さだけが、いのちを感じさせてくれた。
熱だけが、ほんものに思えた。
あなたに想われていると知って、あなたに唇を奪われて、あなたの抱えるとほうもない闇を知って、この世界がどれほど残酷で無慈悲につくられているのかを知って、それでも、生きていけると思えた。
ふたつの魂が、抱き合ってさえいれば。
――なに、考えてるんだろ。わたし。
自嘲の笑いが浮かぶ。
神さまを裏切ってるのに、どうして、こんなに幸福を感じたりしているのか。
でも、それももう終わり。
もうすぐ、召されるのだから。
ほら。
天使さまが来た。
KKKの追手を、悪魔たちを打ち倒して、銀色のかがやきを放ちながら、天使さまが来た。
面頬に隠れてお顔は見えないけれど、わたしを覗き込んでいる。
なにかを、おっしゃっている。
「――」
耳がもうすこし利いたらよかったのだけど。
「――」
わたしは目を閉じて、そのしゅんかんを待つ。
ふわ、とからだが持ち上げられる。
*
目覚めは、ゆっくりだった。
一面の白さと、身をつつむやわらかさ。
これが天国かしら、とわたしは思う。
息を吸いこむと、胸がずきんと痛んだ。すぐに現実に引き戻される。
白いシーツにくるまれるようにして、寝台に寝かせられているのだった。
わたしは胸をおそるおそる覗き見る。
ふたつの乳房に、包帯がぐるぐるに巻かれていて、その中央に薄く血がにじんでいる。
おそらく意識をうしなっているあいだに、傷が縫われ、何度か包帯も取り替えられていたのだろう。
的確な治療を受け、一命をとりとめたのだ、と気がつく。
生きていた。
理解したしゅんかんに、ものすごく喉が渇いていることに気がつく。我ながら現金なものだ。
寝台の横には、水差しが置かれている。
飛びつくようにしてそれを手に取るが、注ぐためのグラスは見当たらない。
「……私なら、水を飲むまえにお医者さまにうかがいますね」
女性の声だった。
振り向くと、ずいぶん遠くでドアを開いたばかりといった様子のメイドが、こちらにトレイを持ってくるところだった。
「胸の傷は怖いのですよ。水を飲んだせいで、死ぬ人もいます。
……あなたはだいじょうぶだと、ポッターさんが請け負ってくださってますけどね。
朝食です」
トレイの上には、オートミールの粥と、オレンジジュースのグラスが置かれている。
粥はまだ湯気を立てていた。
くっきりと空中に尾を引く湯気を、見るともなく見る。
「……わたしは、生きているのですね」
「胸を刺されていたのに、うまく心臓を逸れていました。
主に感謝なさいね」
「あの、天使さまは?」
「天使さま? ……ああ、旦那さまですね。
あなたをこの屋敷に置いて、また急ぎ出ていかれましたよ。
まったく忙しないったら。
ああ。言いそびれておりましたが、ここは旦那さまのお屋敷です。
KKK連中には特定されていない『駅』のひとつですから、
安心して療養なさい」
では、あの天使さまは地下鉄道の構成員であったのか。
わたしは脱力する。
すると、粥がいかにもおいしそうに見えてきた。
匙を手に取った。
*
メイドとして働きはじめた。
ハンナとポッターさんに相談し、お屋敷に置いていただくことになったのだ。
おじいさまはKKKに襲われ行方知れずとなっていたし、カナンの地へ逃がしてもらうにしたって頼りはない。
ほかにやるべきことも見つからなかった。
さいしょの頃は、ごくあたりまえのメイドの仕事ばかりをこなした。
広いお屋敷のいたるところを掃き、銀食器を磨き、調度品の埃を払い、本を虫干しした。
やるべきことは無数にあって、おかげで、気をまぎらわせていられた。
だが、ふとした拍子に、物思いは忍びよってきた。
あなたのことを、思い出していた。
生まれて初めて迎えた、『乗客』だった。
だから特別に感じているのだと、じぶんでは思い込んでいた。
それが違うと分かったのは、名付けようのない磁力に引かれていると分かったのは、口づけをされてからだった。
女の子だった。
あなたも、わたしも。
そんな常識をすいっと飛び越えてみせて、あなたはわたしを見つめた。
あのまっすぐな黒い瞳で、見つめた。
それで、わたしはいままでに身につけたすべての倫理、すべての良識を、投げ捨ててしまえることに気がついた。
手を繋がれているとき、このままどこかへ連れ去ってもらえたら、とわたしは何度も願った。
でも、違う。
あなたは逃げてきたのだ。昏い運命から、惨い宿命から。命ひとつを手にして、ただえんえんと駆けてきたのだ。
深く、深く、傷つきながら。
わたしが要る、と思った。あなたが立っていられるために。
あなたが要る、と思った。わたしが立っていられるために。
しがみつきながら、抱きしめていた。
抱きしめられながら、しがみつかれていた。
震えたからだで、ただ、互いの熱を分かちあった。生きるために。
あのときのことを思い出すと、いつも身が震えた。
小刻みに肩が震えだし、止まらなくなった。
あたたかな屋敷のなかにいるというのに、まるで雪の中に裸で放り出されたみたいだった。
わたしとあなたは、寄り添っていなくてはいけない。
寄り添っていなくてはいけないのに、離れている。
その事実が、底冷えを生み出していた。
わたしは身の震えを同僚に悟られないよう、うずくまるようにして仕事をつづけた。
そんな日々がつづくうちに、旦那さまが帰ってきた。
お礼を申し上げ、お声を掛けていただき――そのとたんに、あの悲報が届いた。
主要駅が、襲撃された。
旦那さまはポッターさんを伴いすぐに出動され、それから、おおくの傷ついた駅員たちが大挙して屋敷に現われた。
屋敷は野戦病院へと作りかえられた。
きれいに磨かれた床に血が流れ、高級な調度品には包帯や消毒液が山のように積まれた。
わたしたちメイドは、看護婦となって眠る時間もなく働いた。
めまぐるしいほどの、忙しさ。
旦那さまがじきじきに連れてこられた、地下鉄道の幹部の方々に、挨拶をする余裕もなかった。
手当てを待ちながら苦悶の声を押し殺している人びとをまえに、待ってくれなどと言えるはずもない。
不眠不休の数日が慌ただしく過ぎていった。
*
「集会、出なくてよかったの?」
ハンナが水差しを取り替えながら、そっと言う。
「あなた、もともと駅員なんでしょう?」
「駅員なんて言っても、祖父と二人きりの駅でしたから。
わたしなんかが出たって、意見を申し上げることもできませんし。
それより、まだ苦しんでる方がいらっしゃるのですから」
ようやく寝付いた怪我人の額に浮かぶ汗の粒を、ぬぐう。
駅員は全員参加のこと……とのお達しではあったが、もちろん、集会に出られるような体調ではない人も大勢いる。
寸刻も目を離せないひとも何人かいたから、残ることに躊躇はなかった。
たくさんの汚れ物を籠に満載して、中庭の井戸へと移った。
周囲にだれもいないことを確かめてから、ハンナが声を低くした。
「……今回はたぶん、よくない話になるわよ」
「よくない話、ですか?」
「ポッターさんたちが話しているのを、偶然小耳に挟んだの。……地下鉄道は、たぶん、おしまい」
「そんな」
「マザーが、行方知れずなの。……ご存命だって信じたいけれど、あのご高齢で、『絶望の魔法使い』と戦ったのよ。ご無事とは、思えない」
マザー・旧い馬車と、わたしは会ったことがない。
しかし、その声は知っている。
この国に暮らす洞人ならばだれでも、夢の中で、幾度も聞いたことがあるはずだ。やさしい、落ちついた、昔話を語るような口調の、老女の声を。
あのひとがいるかぎり、地下鉄道は揺るがないと言われていた。
では、あのひとがいなくなったとしたら?
「地下鉄道が、終わる……?」
洞人の希望が、最後の救済が、ついえる。
それが、どれほど重い意味を持つことか。
奴隷の身分に甘んじさせられているすべての洞人にとって、地下鉄道という名がどれほどの光明であったことか。
水をくぐらせた包帯の端を、思わずぎゅっと握りしめた。
「……いま、下ではその話をしているんでしょうか」
「……たぶんね」
ハンナも、目を落とす。
しばらく、会話をつづけることができなくなって、わたしたちは包帯の洗濯に集中した。
たらいに開けた井戸水のなかに、血を含んだ包帯を入れ、押し込むと、水がしだいにピンク色に染まっていく。
たらいのなかは、じきに赤黒く変色していった。
風が吹いた。
ひっつめにまとめた髪が幾筋か、こぼれ落ちた。
――と。
もう、やめだ。
もう、終わりにする。
わたしたちの非暴力を、終わりにする。
虐げるものたちを、虐げてやる。
踏みつけるものたちを、踏みつけてやる。
この大地を、
黒く、
黒く、
塗りつぶしてやる。
声が、聞こえた。
耳打ちされたかのように、間近に聞こえた。
憤怒の感情が流れ込んできた。
怒りはやがてわたしの困惑を包み込み、得体の知れない憤りが代わりに吹き上がった。
数秒間、炎が視界を真っ黒に染めていた。
やがて、
感情がわたしの支配下へと戻ってくる。
「――いまの」
ハンナが、耳を押さえていた。
聞こえていたのは、わたしだけではなかったようだ。
「いまの、声よね。……マザーの。
でも、マザーの声じゃなかった……」
ハンナの疑問に応える余裕が、わたしにはなかった。
声に、どうしようもなく聞き覚えがあったからだ。
知っている女の子の声にしか、聞こえなかったからだ。
わたしは立ち上がり、空を仰いでいた。
これは。
この声は。
「――あなた、なの?」




