049 黒い炎
「マザーが死んだから、それがどうしたんだ」
もう一度。
先ほどよりも感情を剥きだしにした声で語りながら少女が、一歩、二歩と、進み出る。
グレイス。
グレイスだった。
「グレイス……?」
たしなめるような、あるいはたしかめるようなヘスターの声を、少女は歯牙にもかけない。
「なにも終わらない。なにも終わっていないでしょう。
むしろここから始めなくちゃならない。反撃を。復讐を。
わたしたちは、長を殺されたんだ。
なぜ、怒らないの。
なぜ、憤らないの」
グレイスは両腕を開いて、ぐるりと身を回しながら、その場にいるすべての人間を指し示す。
「なぜ、だれも怒っていないの?」
舞うような動きが、静止する。
決然と。
「運命を呪ったり、嘆いたり、泣きわめいたりするばかり。なぜ、怒りを燃やさないでいられるの?」
少女のおおきな瞳が、らん、と輝く。
獲物を見いだした肉食獣の眼のように、ひとところに据えられる。
駅員の、ひとりだ。さきほど手を挙げて発言した壮年の駅員だ。
「あんた」
「……っ」
「あんたは、怒らないの? 天人どもを殺してやりたいと、目にもの見せてやりたいと、思いはしない?」
面食らっている。
まさかじぶんが狙われるなんて思いも寄らなかったという顔で、しかし目を逸らすことはできないでいる。
「しかし、そんな……」
「『そんな』、なに?」
年端もいかない少女に、かんぜんに気圧されている。
この地下鉄道において、いくつもの修羅場をくぐりぬけてきた熟練の駅員が、である。
まるで蛇に睨まれた仔兎のようだ。
「それは、獣の考え方よ。グレイス」
割って入ったのは、ヘスターである。
「牙に対して牙を以てするのは、人間以下のやりかた。
私たちは、正しいやりかたで戦わなければ、意味がないの。
報復や憤怒、憎悪を恣意のままに振るってしまえば、KKKと変わらなくなる」
「それの、なにが悪いの?」
間髪入れず、グレイスがそう返す。
ヘスターが口ごもる。理解が追いつかないようだった。
「逆に訊くよ、ヘスター・プリン。
いままさに牙があなたを引き裂こうとしているとき、あなたは獣を相手に対話を望むの?
ことばの通じない相手を、説得しようとする?
では、目のまえで幼児が襲われていたとしたらどう?
幼児の手には、ナイフがある――それを、あなたはあくまで振るうなと言うの?」
「それとこれとは話が違うわ……」
「同じだよ、ヘスター・プリン。
洞人がいま立たされているのは、そういう局面。
洞人がいま突きつけられているのは、そういう選択。
なぜ、分からないの?」
しん、と。
広間のなかが静まりかえっている。
いまや、涙に暮れるものはひとりもいない。
この場にいる全員が、少女のことばに耳を傾け、目を逸らしている『シスター』と、あくまで真正面から目を見据えようとしている少女のすがたを、固唾を飲んで見つめている。
目の前で起きはじめているなにかを、見逃すまいと努めている。
マーチは反射的に恐怖を感じた。
この場の雰囲気が、支配されはじめている。この少女によって。たった数分間の発言によって。
なにか取り返しのつかない現象がはじまりつつある事実を、じぶんがとうてい制御しきれない空気の揺らぎを、マーチは恐れた。
「口が過ぎるぞ、グレイス」
だから。
月並みな、大人のような顔をとっさに取りつくろっていた。
「なにが?」
「冷静になれ」
重ねることばには、中身がない。
とにかくこの不自然な風向きを断ちたいという、ただその一心でしかない。
「冷静? わたしは、この上なく冷静だよ。
うろたえているのはあなたでしょう、フレデリック・マーチ」
そして。
中身のないことばを、少女は許容しない。容赦しない。
「口が過ぎるって、どういう意味?
子どものくせに口が過ぎる?
女のくせに口が過ぎる?
洞人のくせに口が過ぎる?
それとも、奴隷のくせに口が過ぎる、ということ?」
「おい! いい加減にしろ!」
怒声がほとばしっていた。
聞くも空しく上擦った声は、地下空間のなかで幾重にも反響した。そのそらぞらしさを糾弾するかのように。
グレイスはため息をつく。
「お願い、フレデリック・マーチ。
お願いだから、声を荒げるのはやめて」
幼児に語りかけるようなゆっくりとした口調だった。
「わたしは対話を求めているの。
大きな声で意見を封じ込めようとしないで、まるで天人みたいに」
怒りを噛み殺した口元に、マーチは怯えた。
叱られた子どものような心地だった。
「それよりも、わたしの疑問に答えて。
なぜわたしたち洞人だけが、このように堪え忍ばなくちゃならない?
天人は暴力を使う。
ヘスター言うところの、獣のやりかたをもって、わたしたちを支配しようとしてくる。
それに対して、なぜわたしたちは暴力で応えてはいけない?
なぜ、『人間らしいやりかた』を徹底しなければならない?
その『人間らしさ』は、『奴隷らしさ』と、どう違うの?」
グレイスはことばを切る。
マーチの返答を待っている。自身がそう述べたとおりに、対話をしようというのだろう。
「心に、自由がある」
ともすれば真っ白になりかける頭のなかから、古い議論の切れ端を、ようやくのことで引っぱりだした。
「人間らしい方法を選ぶとき、おれたちはひとつの選択肢をみずからの意志で選び取っている。
恐怖や怒りに駆られてナイフを手に取るのではなく、それをみずからの意志で置く。
それこそが、自由意志だ。
心が鎖で繋がれていない証拠だ。
奴隷らしさとはまったく異なる」
かろうじて、言い切った。
グレイスは、マーチの目を見据えている。
その奥の揺らぎさえも、見通されているようなきぶんに、マーチは陥った。
「フレデリック・マーチ。
あなたは、かつて奴隷だったことはある?」
「……その質問に、なんの意味がある」
「答えてほしい。あなたは、奴隷だったの?」
「……囚われた経験がある。そこで、奴隷として扱われた」
「それは捕虜だよ」
一蹴だった。
「奴隷とは、だれかに所有権を握られ、単なる財産として扱われる状態を指すの。
ヒトではなく、モノとして扱われることを指すの。
こういう身分だったことは、ある?」
「……ない」
グレイスが視線をめぐらせる。
「ヘスター・プリン。あなたは?」
「……ないわ」
「ミスター・ポッター。あなたはどう?」
「ありませんな」
ふたたび、グレイスの視線がマーチのもとへ戻ってきた。
「わたしは、ある。
わたしは、奴隷だった。
ここにいる、多くの洞人たちとおなじように」
両手を広げたグレイスは、駅員や乗客のひとりひとりと目を合わせていった。
目の合った洞人たちが、グレイスにうなずきを返していく。
まるで契約を結ぶように。
「奴隷ってね、絶えず肉体がだれかに所有されつづけるということなんだよ。
『心の自由』と、さっき言ったよね。フレデリック・マーチ。
心だけで言えば、すべての奴隷はもともと自由なんだ。
精神だけは、だれにも所有されないから。
そして、それこそが――奴隷制において、もっとも残酷なことなの。
自由な心を持っているのに、肉体は束縛されつづける。
精神はじぶんのものなのに、肉体は他人に奪われつづける。
そして、感情は肉体に従属するものなんだよ、マーチ。
涙や慟哭を許されぬ哀しみや、大声や拳を許されぬ怒りは、昇華や消化のしようがないまま心の奥底へ吹きだまっていく。
澱として、沈殿しつづける。
その澱が水面を超えてしまいそうになると、奴隷はどうするか知ってる?
縊れるんだよ、みずから。
地獄に落とされると分かっていて、自死を選ぶの。
そうするしかないから。
生きていられないから。
おのれを殺すことを、自由意志の発露と呼ぶの?
ナイフを置いて、獣の牙に身を委ねることを、人間らしさと呼ぶの?
だとしたら、死んだ洞人は『自由な人間』なんだろうね。
だとしたら、生きのこった洞人は、『不自由な奴隷』なんだろうね。
あなたの言に従うのなら、ね。
これが、奴隷だよ。
これが、奴隷が強いられている生き方なんだよ、フレデリック・マーチ。
あなたたちがこの地下鉄道で強いているものも、これと同じ。
あなたたちは、怒るなと言う。かつてのわたしたちの主人と同じように。
あなたたちは、殺すなと言う。かつてのわたしたちの主人と同じように。
あなたたちは、大人しくしていろと言う。かつてのわたしたちの主人と同じように。
そして、そのまま殺されていろ、と言うんだね」
「…………」
返すことばなど、なかった。
論理の穴がどうこう、という次元の話でさえも、なかった。
もはやこの子が語る絶望を、すべての奴隷たちが直面した現実を、体重の乗っていないことばで圧し潰すわけにはいかなかった。
黙っているしか、なかった。
「ねえ、フレデリック・マーチ。
わたしはあなたが好きだよ。
この地下鉄道が好き。
希望にあふれた乗客たちの顔を見るのが好きだし、
正しい物事のためにみずからを捧げつづける駅員たちの汗が好き。
意志の力で築きあげられた、あのすばらしい主要駅が好き。
すごく、好きだったんだ。
けれど。
わたしが好きだった人たちは、死んだ。
わたしが好きだった場所は、壊された。
わたしの好きだったものが、また、奪われていった。
わたしは許さない。
わたしは許せない。
わたしは許さない。
KKKを許さない。
天人を許さない。
奴隷制を許さない。
連合国を許さない。
屈辱を許さない。
虐待を許さない。
差別を許さない。
別離を許さない。
失望を許さない。
蔑視を許さない。
哀哭を許さない。
そして、すべての諦観を許さない。
怒りを、
ただ怒りだけを、
肯定する」
なにかが、閾値を超えた。
なにかが途切れ、代わりになにかがつながれた。
ふいに燃え上がるようなほのおが、幻視された。
見つめていた少女の影に重なるように、目がくらむようなかがやきと、全身の血が沸き立ったような熱量が、マーチのからだ目がけて襲いかかってきた。
ほのおは、憤怒だった。
この少女が抱き、この場のすべての洞人へ伝播し、その感情すべてを燃料として吹き上がった、純粋な怒りそのものだった。
もう、やめだ。
もう、終わりにする。
わたしたちの非暴力を、終わりにする。
虐げるものたちを、虐げてやる。
踏みつけるものたちを、踏みつけてやる。
この大地を、
黒く、
黒く、
塗りつぶしてやる。
声、だった。
すべての洞人たちが、おなじ声を聞いていた。
耳元でささやかれるがごとく、おのれの胸郭にひびくがごとく。
――マザー。
気づくと、少女のまえにひれ伏していた。
はじめてオールド・チャリオットに出会ったときのように。
周囲で、すべての洞人がおなじくひざまずいているのが分かった。
おのれの身のうちに、いまや共有物となった憤怒のほのおを燃やしながら。
――マザー・グレイス。
だれかが、呟いた。
やがて――
だれもが、呟いた。




