004 みっともない、礼儀知らずの、無学なこむすめ
「なにを……奴隷ふぜいがっ!」
力まかせに鞭が引かれる。おまえは監視人のほうを振り向いた。
震えている。
怒りに、打ち震えている。
おまえのような洞人のむすめに、こうまでやり込められるとは思ってはいないのだ。監視人は、奴隷を見下げることで、おのれの位置が高められるのだと思っている。信じている。じっさい、これまで奴隷が監視人に逆らうことはなかった――よけいなことを言えば、鞭打たれてしまうがために。
監視人の自尊心を、おまえは傷つけていた。
体面というものもあった。これが旦那さまのまえでなければ、いくぶんましであったことだろう。おまえはとうぜん鞭打たれたろうが、いのちまではねらわれなかった。いまは違う。かれにとって、おまえはもはや仇敵と化していた。
ことばで打ちのめされた男は、拳を振るうしかない。
そこまで追い込まないほうが、賢いやりかただ。
おまえは、稚すぎたのだ。
ひとの機微を解するには、あまりに。
おまえは、にらみつけた。
あくまで敵対を成そうとして。
しかし、そのくわだては、予想しなかった地点からさえぎられることになる。
「グレイスっ!」
激昂の声に振り向くと、母だった。
おまえの頬は張り飛ばされる。
とつぜんのことに、覚悟していない攻撃に、おまえのからだはあえなく吹き飛んだ。
母の拳が、何度も何度もおまえの背中をなぐりつける。
力仕事に慣れていない母の攻撃は、けっして痛いものではない。しかしおまえは、意図をつかみかねて、そのまま拳が振るわれるままにしている。口のなかに入り込んだ土を吐き出すことさえせず、ただ、かすかなうめき声をあげながら。
「よくも、この子は!」
母は金切り声で叫ぶ。
「監視人さまにお世話になっておりながら! よくも、礼儀知らずな! あまつさえ、旦那さまに対してもなんとぶしつけな!」
母に打たれながら、おまえは気がつく。
おまえは守られているのだ。
なぐられ、打たれながら、守られている。よりおおきな拳や、よりおおきな痛みから、守られている。奴隷は、拳によってしか、拳から逃れることはできない。母はそう知っているのだ。
さんざ打ちのめしたすえに、母は、監視人へと頭を下げる。
這いつくばるように、額を大地へとこすりつけながら、謝罪のことばを口にし続ける。
「申し訳のほどもございません。おろかな子どもでございます――みっともない、礼儀知らずの、無学なこむすめでございます。こざかしさに任せて屁理屈を振るう、ひねくれた、性悪な子どもでございます。わたしの教育がなっていなかったせいでございます。どうか、鞭打つならわたしを鞭打ってくださいませ。このおろかなむすめは、鞭打つ甲斐もございません。どうか、どうか……」
きれいな服が土ぼこりにまみれることも恐れず、母はただ懇願をつづけた。
おまえは思う。
お母さんは、やはりお母さんだ。わたしを助けようとしてくれた。
しかし同時に、おまえはこうも思う。
奴隷は、やはり奴隷なのだ、と。奴隷には奴隷のやりかたしか許されていない。わが子をかばう方法を、えらんではいられないのだ。
いっぽうで。
監視人の顔は、困惑に包まれている。
どうしたものか、分からなくなっている。
相手がおまえであれば、監視人にとっても、話は単純だった。おまえを死ぬほどに鞭打つだけでよかったからだ。感情のおもむくままに、ぶちまくってやればよかった。雇い主である旦那さまも、しょせんは雇い主でしかない。最悪の場合は奴隷監視人の職を解くだろうが、話はそこで終わった。
奴隷を殺したていどのことで、旦那さまが賠償をもとめてくることも考えにくい。仮に裁判所から支払を命じられたとしても、ない袖は振れないのだから、黙殺を決め込んでしまえばいい。
あとは失業者として安酒を何日か呷り、じぶんの不幸さをなぐさめてやり、それからほかの農場で奴隷監視人の職をさがせばいいだけだ。
――おまえが思っていたほどに、奴隷殺しは、奴隷監視人を追い詰めない。
しかし。
相手が旦那さまのお気に入りとなれば、話はべつだ。
目のまえで額を土にまみれさせている洞人の女は、まちがいなく、旦那さまのお気に入りだった。
この監視人がこの農場に雇われた十年まえには、すでに、使用人としてお屋敷に上がっていた。となれば、かなり年は取っているはずだが……天人の目から、洞人の加齢を見てとることはできない。いつまでも若々しく、童女のような容貌をたもっているように、見える。
でありながら、齢をかさねた人妻のような、なまめかしい仕草も垣間見える。洞人の女特有の、見た目と姿態との落差が、ある層の男にたいしては、このうえない魅力を訴えかけることも、この監視人は知っていた。
この奴隷女には――手だしができない。
監視人は、そう考えていた。
おまえには、想像もできないことであったろうが。
身うごきの取れなくなった監視人を救ったのは、旦那さまだった。
「よい。下がれ」
告げられたことばは、監視人に向かってのものだ。
監視人がしたがうよりも早く、旦那さまは膝をつき、このやっかいな女を助け起こした。これで、じぶんがなにかの反応を見せなくてはならない時間は終わった。監視人は安堵する。
「どうしたね、マリア。せっかくのドレスが台無しだろう? 誰か。マリアを屋敷まで連れ戻して、あたたかいミルクを振舞ってやりなさい。すこし落ちつくようにね」
「ですが、旦那さま……」
「安心なさい。あの子に手は出させんから」
母の衣服についた汚れを手ずから払ってやる旦那さまを、おまえは見ていた。困惑した顔で、母は他の使用人に連れられていく。
「さて、」
旦那さまが、おまえに向き直る。
どこか満足げな顔つきで、おまえのすがたを眺め回した。
「グレイス――と言ったかな。面白い子がいたものだ。なんとマリアの娘とは。知性のひらめきは、さすがに血かな。いくつになったんだね、グレイス?」
「十二です」
「いい頃合いだな」
旦那さまはつぶやき、おまえの耳元にささやく。
「今夜から、屋敷づとめだ。今晩、わたしの元へ来なさい」
吹きかけられた息が、生あたたかかった。
おまえの意識がぼうっとする。光栄に思うより先に、恐怖がむくむくと沸き立ってくるのを、おまえは抑えかねていた。旦那さまはひらりと馬にまたがり直すと、蹄を屋敷へと向けた。召使いたちがその後へとつづき、監視人が慌てたように馬の後を追いすがっていく。見物を終えた奴隷たちが、また仕事へと戻ってゆく。
おまえだけが、そのまま、立ち尽くしていた。




