047 幕を引くもの
目を覚ましてから、どれが夢で、どれが現実なのかを飲み込むまでに時間がかかった。
ようやくじぶんを掌握し直すと、フレデリック・マーチはきしむからだをゆっくりと起こす。
思い出したように、周囲のざわめきが耳に入りはじめた。
屋敷の広間だ。
いくつもの簡易寝台が運びこまれ、床は埋め尽くされている。
野戦病院のようだ、とマーチは思う。
耳に届いているのは、怪我の痛みにうめく駅員たちと、子供の乗客たちのすすり泣きの声、
そして彼らのあいだを忙しなく駆け回っては、治療や世話に追われる女中たちの足音だ。
トム・ソーヤーの屋敷か、と気がついた。
南部貴族の典型をなぞるような、豪華なのに洗練とはほど遠い内装に、見覚えがあった。
わざとこうしておるのです、趣味には合いませんが、擬態を優先すると旦那さまがおっしゃいますからな、と苦々しく語っていたポッターのすがたを思い出した。
じぶんのからだを、たしかめる。
全身を包帯でぐるぐるにまかれ、あちらこちらで血が滲んでいる。
ひどい有様だ。
とはいえ、四肢のいずれもうしなっていないのは僥倖だった。感覚もある。
あの『大佐』をまえにして、このていどの傷で生還を遂げたというのは、奇跡にひとしい。
ほう、とため息をついた。
「お目覚めになりましたか」
英国風のアクセントで話しかけられ、首を向けた。
執事服に身をつつんだ、老齢の天人である。
いつ見ても皮肉っぽく歪められた唇の輪郭を、ととのえられた白い髭がおおっている。
「ポッターさん。おかげさまでね」
「ポッターと。敬称は無用に願います」
「そうはいくめえよ。……どう見たって、地下鉄道は、招かれざる客だ」
「だとしても、旦那さまのお客さまですので」
否定しないあたりがこの老人らしい。
マーチはにやりと笑った。
「で、その旦那さまは?」
「ただいま、外出を」
「外出?」
「やはり、ご存知ありませんでしたか」
この老人にはめずらしく、言いにくそうに目線をいっしゅん外した。
周囲を見わたすと、
「……ここでは話せません。痛むでしょうか、お付き合いを」
耳元でそう、ささやいた。
*
渡された新聞は、四日前の日付だった。
連合国政府は、かねてより洞人奴隷の強奪をくりかえしていた犯罪組織『地下鉄道』の本拠を特定し、これを打倒した。
と同時に、大陸各地に潜んでいた協力者の隠れ家、通称『駅』を一斉に検挙する電撃作戦を敢行。
『地下鉄道』が関連する隠れ家の9割を損壊せしめたとの確信を抱いている。
これらの奴隷強奪組織の壊滅については、かねてより連合国大統領、アシュレー・ウィルクスが公約に掲げていたものであり、情報筋によると、ウィルクス大統領自身も本作戦を現場で指揮し、みずから筆杖を振るって犯罪人たちの捕縛に尽力したという――云々。
マーチは、地に堕ちた『カジキ』の無惨な写真を見て、そっと新聞紙を畳んだ。
「……やられたね、同時作戦とは」
車椅子の背もたれに身を預け、空を仰いだ。
さきほどの広間からは打って変わって、この庭は人気がなく、静かだ。
こういう場所をポッターが選んでくれて、つくづくよかった。
さすがに、この落胆を表に出さないでいるのは、むずかしかったからだ。
「『カジキ』を叩いていたのは、KKKの本隊で間違いありません。ですが、それと連携して連合国の警察組織と正規軍が密かに動員されていたようです。われわれとしても、情報を掴むのは遅れ、まっさきに主要駅のほうへ向かってしまいましたからな」
「それで、トムが飛びまわってくれてるって訳かい」
ポッターが、神妙な面持ちでうなずく。
「9割――とまではいかずとも、『線路』が壊滅的な打撃を受けていることは間違いありません。旦那さまが戻られ、正確な被害状況が掴めるまでにはまだ日がありますが――いまのうちに、今後について話し合う必要があるでしょうな」
今後。
地下鉄道の、今後。
正直を言わせてもらえば――なにを話し合うことがあるのか、というところだ。
地下鉄道は、負けたのだ。
完膚なきまでに、叩きのめされたのだ。
事ここにおよんでは、もはや今後などありはしない。
この執事が匂わせているのも、そういうことだ――いったいどのようにして、幕を引くか。
目をつむる。
車椅子の背もたれが、ぎし、と音を立てた。
地下鉄道の、終わり。
それは洞人にとって、すべての奴隷たちにとって、希望の光がかんぜんに潰えることを意味する。
あまりにも、重い。
すべての奴隷たちが、さいごの希望さえもうしなうのだ。
じぶんたちの敗北は、終わりなき暗闇へつながっていたのだ。
「それを……おれが言うのか」
幕を引くのが、天人もどきのおれでほんとうにいいのか。
黙ってさえいれば、天人にしか見えない外見を持ち、望みさえすれば天人のふりをしてなに不自由のない生活を送れる立場にいるおれが、彼らの希望を断ち切ろうというのか。
「しかし、他にいますまい。……マザー・旧い馬車は、行方が知れぬのですから」
いまのいままで訊けないでいたことを、ポッターは言う。
マザーは無事なのか、マザーを救出することはできたのか――。地下鉄道のだれもが、まずなによりもさきに気にすることだと、この有能な執事は知っていたはずだ。
開口一番に、マザーの無事を伝えなかった。
そのこと自体が、なにより雄弁に、現状を物語っていたのだ。
マーチは、マザーを思いかえす。
あのひとが、いかに支えであってくれたのかを、噛み締める。
いつも、さいごのところには、あのひとがいた。
実務はたしかにじぶんたち幹部連中が回していたものの、地下鉄道の理念そのものとしてあのひとが座っていてくれたから、この組織は成り立っていたのだ。
もともと、あのひとがただ独りではじめた活動だった。
じぶんたちは、それに共鳴し集まっただけに過ぎない。
あのひとのように、ただひとりで奴隷たちに自由を与えるようなちからを、ほかの誰も持ち合わせてなどいない。
地下鉄道とは、旧い馬車のことだったし、
旧い馬車とは、地下鉄道のことだった。
あのひとを離れて、この組織が成り立つわけがないのだ。
この組織に幕引きがあるとするなら――それは、あのひとが決め、あのひとの口から語られねばならない。
そうでなければ、だれも、納得などしない。
だが――。
もう、マザーはいない。
「……じゃあ、仕方ねえよな」
長い長いあいだ、マーチは流れる雲をながめていた。
ポッターはそれ以上なにひとつ付け加えようともせず、説得するようなことばを、なにひとつ重ねることもなかった。ただ、この執事らしいやりかたで黙りこくり、マーチの心が固まるのを、待ちつづけた。
「ポッターさん」
「はい、マーチさま」
「みんなを、集めてくれるかい」
ポッターは目をすがめるようにした。
「幹部の皆さまで、よろしいですかな」
「うんにゃ。意識のない人間と、どうしても手が離せない人間以外は、全員だ。駅員も乗客も、みんな」
すこしのあいだ、ポッターは動きを止める。
しかし、マーチのまっすぐな目を見つめ、うなずいた。
「承知しました」




