044 血も涙もない
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グレイスが首を真上に向け、あっけに取られたようすで立ち止まっている。おどろき見惚れている場合ではないと分かってはいたが、少女を咎める気にはなれなかった。へスターだって、この中に足を踏み入れるのははじめてなのだ。呆然としているのは同じだった。
『カジキ』の口腔内に、ヘスたちはたどり着いていた。
おそらく、ひとでいうなら喉のところに立っているはずだ。
となれば、いま見上げているのは口蓋で間違いない。巨大な洋燈が提げられているが、あまりに広いため、ほとんどが闇に閉ざされてしまっている。舌は、丘のように数百フィートの彼方まで広がり、その先で闇に呑まれていた。端に薄ぼんやりと黄色く光っているのが牙なのだろう、とヘスは思う。歯列というよりは、いくつもの尖塔が規則的に並んでいるさまに近い。口吻のすきまから風が吹き込んでいるのだろう、くぐもったごうごうという音が、足元を震わせつづけている。
頭では理解していた。
この駅が、巨大な龍の体内にかたちづくられているのだと。しかし、その途方もなさをまるで理解していなかったじぶんを、突きつけられた。これだけ巨大な生物がかつて生きて動いていたことも驚愕であったし──これだけの構造物をつくりあげた地下鉄道の営為にも、目を見張るほかなかった。
しかし、これ以上おどろいている暇はなかった。
いま、セイラが時間を稼いでくれている。この隙に脱出の手筈をととのえておかねばならない。仮に全員の集結が間に合わなかったとしても、この『驚嘆すべき少女』だけは、なんとしても逃げ延びさせなければならない。マザーの命令だけは、なんとしても果たさなければならないのだ。
「行きましょう、グレイス」
少女に声を掛け、走り出す。
さいごの脱出方法を、へスターはかつてマザーに教えられていた。すべてのメトロが出立したいま、線路に敷設された転移真述を使った脱出経路は、うしなわれている。残されてしまったものが目指すべきは、この口腔なのだ。
「……あれだ。悪りいが、俺のからだをあの牙へ寄りかからせてくれ」
顔を起こしたマーチが、へスターに肩を支えられたまま牙のひとつを指さす。彼に言われるままに、貸していた肩を離すと、マーチはよろよろと牙の壁面に取りつき、何箇所かを手さぐりした。その指先が、壁面を数度押し込む。
轟音が鳴り響いた。
牙の一部に亀裂が走ると、その表面が剥がれて落ちた。落ちてくる破片は空中で細かく四散し、へスターたちの髪へと降りかかった。
表面が砕けた牙は、なかがくり抜かれていた。ちょうど大樹の洞のような空間に、見覚えのない機械が置かれていた。
いくつかの窓がついた金属の球体が、三本足に支えられて立っている。特徴的なのは、球体の最上部に付けられた五枚の回転翼だ。軸を中心として放射状に伸びた羽は、球体の直径に数倍する長さを備えている。見た目は本で見た潜水艦に似て頑丈そうだ。
「エジソン社製の、自動回転翼飛行機械だよ」
未だつらそうな声で、マーチが説明する。
「といっても、試作品の失敗機を貰い受けてきただけだがな。うちの社長がつねづね言ってる、九十九%の失敗のうちのひとつだよ。この回転翼じゃ、空に飛び立つだけの揚力を得られねえらしい。高いところからゆっくり落ちるだけの、不時着専用機だ。まあ、俺たちが脱出するにはじゅうぶんだ。さあ、まず俺を操舵席に乗せてくれ」
「待ちなさいフレデリック、あなたその怪我で運転なんてするつもり?」
「あたりまえだろ。他にだれがこんな珍奇な機械を操れんだよ。いいからさっさと乗せてくれ。言い争ってる暇も体力も残ってねえんだ」
ちからのない声に、へスターはさらに言い返そうとして──けっきょく、止めた。この場では、だれもが命がけなのだ。すこしでも生き残る人数が増える判断をすべきであるのは、間違いない。牙の壁面に寄りかかっていたマーチの肩を持ち上げようとした、そのときだった。
「──ヘス! マーチ!」
グレイスの叫びに振り返ると、勢いよく飛びかかってくるところだった。マーチともども押し倒されて牙の外に倒れ込んだそのしゅんかん、真述の火球が飛行機械へと突き刺さった。けたたましい音とともに飛行機械が爆発四散し、幾つもの金属片がへスターたちの頭上を通り過ぎていった。
厚く塗り込められた煙幕が、だんだんと晴れてゆく。
「ごほっ……えほ……っ」
咽せながらも、かたわらでグレイスが立ち上がるのが分かった。
身を起こしたグレイスは、獲物に飛びかかる間際の肉食獣のように身を低くすると、弾かれたように煙幕の向こう側へと飛び出していく。灰色の奥から、きいん、という高い金属音が響いた。
グレイスが、ふたたびこちらへと飛びすさってくる。
油断なく手斧を構えたまま、グレイスが待っている。背中で、へスターとマーチとを庇っているようだ。
こつ、こつ。
足音が、煙の向こうから響いてきた。
現れた人影は、KKKの真述師だ──しかし、特徴的な三角帽は被っていない。代わりに、表情をおおい隠すように、髑髏の面を付けていた。面の向こうで、瞳が鈍く青色にかがやいている。
「は、は、は。
すばらしい。すばらしい反射速度だ。あの炎を避け、即座に体勢をととのえて反撃を仕掛けてくるとは──それも、歳わかき少女が! さだめし、君が噂の『驚嘆すべき少女』だろう? なんともすばらしい。奴人とは思えんほどの歯応えだ。いや、さすがだよ。は、は、は!」
髑髏の面の男は、筆杖を指揮棒のように振るいながら、芝居がかった歩調で近づいてくる。
「いやあ、それに比べて! そちらの男女は、見たところ天人のようだが──なんとも、お粗末だ。脱出が可能だとでも思ったかい? われわれが、天下のKKKが、そんなことも見落としているとでも? 制圧した箇所に兵も残さず、みすみす脱出者を取り逃してしまうとでも? 甘いなあ。あまりにも甘い。奴人にたいして甘い連中は、詰めも甘いのだね! は、は、は!」
髑髏の男の笑い声を聞きながら、へスターはそっとマーチを盗み見た。
マーチは、歯を噛み締めながら首を横に振る。それで、へスターは脱出手段がもはや潰えたことを知った。
ここで、私たちは死ぬ。例外なく。
「おや、天人のお二方はもう諦めてしまったようだね。だいじょうぶだいじょうぶ! まだ希望は残されているよ──私たちKKKをすべて打倒して、黒龍を奪って逃げるという道がね。ただし、それにはあの『ほろぼされざるもの』を滅ぼすという、とんだ矛盾をのりこえる必要があるのだがね! は、は、は!」
「なら、そうしよう」
グレイスが答える。
手斧を構え、決然と髑髏の男を見据えながら。
「おや、おやおやおや。
さすがだね。まさに『驚嘆』だ! まだやるつもりなのだね? この私と、このわれわれと! 怖くないのかい? おそろしくはないのかい? だって、君たち奴人はこう思っているのだろう?
KKKの真述師には──」
言いかけたことばは、寸断された。
グレイスが飛びかかったのである。へスターの動体視力では捉えきれないほどの速さで床を蹴り、手斧を振りかぶり──髑髏の面を断ち割って、刃先を額に打ち込んだのだ。髑髏の男は手斧を額に刺したままのけぞり、後方へと倒れ込んだ。その胸板を蹴りつけるようにして、反動でグレイスがこちらへと飛んでくる。
「やった──」
「やってない!」
身を起こそうとしたへスターは、グレイスの手のひらによって制止された。グレイスは倒れ伏した髑髏の男を見据えたまま、ふたたび身を低くする。
それで、ようやく気がついた。
血が、一滴も噴き出していないのだ。
あれほどの致命傷を受けておれば、勢いよく血が噴き出してもおかしくはない。それなのに、倒れた髑髏の男から、その傷口から、血は一滴も流れていない。強烈な違和感が、へスターの頭のなかに警鐘を鳴らしはじめる。
「KKKの真述師には──
血も涙もない、とね」
髑髏の男の声がした。むくり、と真述師はからだを起こし、立ち上がりながら、顔面に突き刺さった手斧を手に取った。生きている。間違いなく、生きているのだ。
「御名答だ。
すくなくともこの私に関して言えば、たしかに、血も涙もない」
勢いをつけて、真述師が手斧を抜き去った。
やはり血や脳漿が噴き出すようなことはなく、代わりに、髑髏の面が二つに割れて落ちた。現れた真述師の素顔に、へスターは思わず口を覆った。
顔が、ないのである。
髑髏の面の内側にあったのは、またしても、されこうべだった。眼球も鼻梁も唇もない。しらじらと光った剥き出しの骸骨が、かたかたと擦れ合う音を立てながら、動いているのだ。
「不死というのも、これはこれで厄介でね。死なないのは大いに結構なのだが、あくまで魂が残りつづけるというだけで、不滅の肉体を与えられているわけじゃあない。血や肉は腐り、消え失せていく。さいごに残るのはご覧のとおり、骨だけさ。
名乗らせていただこう。
『不死者』『白のなかの白』『アウルクリーク橋の亡霊』『夜を歩くもの』──ペイトン・ファーカーだ」




