043 黒龍と龍殺し
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黒龍は、『大鴉』と呼ばれている。
龍がひとに従うなど、神話のなかのできごとでしかないと思われている。しかし、『大鴉』にとって、リー家に仕えることは、ごくあたりまえのことだった。契約のはじまりがどういったものであったかは、記憶のかなたで靄のなかに閉ざされている。だがいずれにせよ、『大鴉』自身がこの血に仕えることをえらんだことは、まちがいない。数百年の歴史のなかで、リー家の当主──すなわち、『大鴉』の主人はいくたびも代わった。
先代の当主はとくに印象的だった。黒龍は戦場に駆り出され、騎馬のごとく乗りまわされたのだ。龍が騎乗を許すなど、ありうべきことではない。しかし、あのロバートという男が跨がってくるとき、ふしぎと不愉快さはなかった。龍がひとに好悪の感情をいだくことじたい、きわめてめずらしいが──ロバートを、『大鴉』は好いていたと言ってしまってよい。
いまの主人は、ロバートではない。
あの男にくらべるとずいぶん小柄な女だ。
だが、おなじにおいがする。リー家特有の高潔さから、尊大さを抜いたにおい。だからこの女──アナベルの騎乗を、『大鴉』は嫌がらなかった。
しかしこたびの飛翔だけは、不愉快きわまりない。
騎乗してきたのは、アナベルだけではなかったからだ。
おおよそ五〇人の人員を、運ばされた。鉄道のように扱われることも腹に据えかねたが、なによりも、あの男を乗せることが不快でならなかった。
闇をひとのかたちに圧縮したような、あの男。
アナベルをしたがえ、とうぜんのごとく『大鴉』をしたがえようとする、あの尊大で傲慢で不遜で横柄な、あの男。
なによりも不愉快であったのが──たかが人間の身で、龍を威圧してのけたことだ。
あの男を目のまえにしたとき、黒龍が幻視したのは、じぶんよりも数十倍は大きな龍そのものだったのだ。『大鴉』は、生まれてこのかた、あれほどひとごときに怯えさせられたためしはない。
従わざるを、えなかった。
あんなにおそろしいものを背中に乗せるなど、願い下げであったが──拒めなかった。
だから、『大鴉』は怒っている。
こうして龍の死骸に食らいつきながらも、怒りをたたえたままでいる。いかな死骸であるとはいえ、龍であるから、微生物ごときに分解されはせず、腐ったにおいはしない。とはいえ、こうして同族の死骸を咥えているのが、愉快であるはずがない。だのに、逆らえない。そのことがなによりも腹立たしい。
と。
視界の隅に、なにかかがやくものが映った。
雲を切り裂いて、鳥のようなものが飛んでくる。表面はなめらかに銀色の光沢をたたえ、ふしぜんなまでにつるりとしていた。鏡面のように、周囲の青空と雲をうつしている。
鳥ではない、と『大鴉』は見て取った。
なにしろ、羽ばたいていない。両翼に当たる部分は不動のままで、一片の羽毛さえも持たない。鳴き声の代わりに、なにかが唸る音と、きしむ音がしている。かといって、龍でもありえない。真述のにおいがしないのだ。
瞳だけをぎょろりと回してにらみつける。
こいつは不愉快だ。
きわめて、不愉快だ。
これほどの高高度、龍でなければ飛行しえない領域を侵しておきながら、へいぜんとしているのが憎たらしい。目を睨みつけてやりたいが、全身と同様につるりとした弾丸型の頭部には、目はおろか、鼻や口も存在していない。
ぐぅるるるる。
唸り声をあげた。
意図を解する生きものであれば、例外なく、恐怖におののく声だ。龍の怒りに触れたと知ったら、ちいさな生きものであればその場で心臓を止めてしまうほどだのに、その鳥もどきは、身じろぎひとつしない。
『大鴉』の怒りが、頂点に達した。
食らいついていた死骸を、離した。
あの闇が凝ったような男の顔が、ちら、と脳裏をよぎったが、これほど誇りを傷つけられた龍が、黙っているわけにはいくまいと思った。
幾何学的に牙が並ぶ口吻を、ぐわり、と開く。
鳥もどきのすべすべした肌へ向けて、満身のちからを持って噛みついた。
牙が、食い込まなかった。
驚愕し、あわてて口吻を離した。陽光を照り返してかがやく鏡面は、変わらずすべすべとしたままだ。あらゆるものを切り裂く牙と、あらゆるものを噛み砕く顎をもってして、ひと筋の傷をもつけられていない。黒龍が人間のようにことばを操ったなら、うそだ、と口走っていただろう。
ありえない。
龍の牙を防ぐなどと。
歳若き黒龍の脳に、その常識は存在していなかった。
ただ、遺伝子のなかに、たったひとつ龍が敵わぬ金属があるという事実が、刻まれている。名前を知らぬ、世界最硬の金属──大陸西部にて産出されるミスリルと、天空から飛来する岩石アダマンタイトとを配合することで生み出され、すべての龍の祖がその剣で討たれたと伝説に謳われた、神代の素材が、実在するのだと、黒龍の本能が告げている。
これは、龍殺しだ。
黒龍の頭蓋を、警告音が満たしていた。正体は知れない。しかし、この得体の知れない鳥もどきが龍殺しであるということだけは、確信できた。恐怖にとりつかれた『大鴉』に、さらなる恐慌が襲いかかる。
嘴の先端から、光の柱がほとばしったのだ。
柱はまっすぐに黒龍の鱗をつらぬき、六枚ある右翼の付け根を的確に灼いた。灼熱する感覚に、ぎゃうわうわう、と悲鳴がほとばしった。羽ばたきが乱れ、真述の文字列がぐしゃぐしゃに混ざり、黒いからだが大きく傾いた。かろうじて体勢をととのえ終えたときには、すでに『大鴉』は龍殺しのすがたを見うしなっていた。
あの銀色は、影もかたちもなかった。
黒龍は気づかなかった──じぶんが空中でぐらつく体勢を立てなおすのに汲々としていた隙に、龍殺しの背から、ひと筋の光が落ちたことに。その光が、すばやく『カジキ』に飛び移り、開口部から身を躍らせていったことに。
すなわち、トム・ソーヤーの参陣に。




