040 訣別
赤髪と銀髪が授文をつづり終えたのはほぼ同時だった。
緑色の流麗な筆記体が空中でかがやきを増す。片方の一文があかあかと燃える炎の帯となり、もう片方が研がれた剣の切先を思わせる氷の鞭となった。
たなびく炎と氷とが、みずからの意志を持っているかのように空を切り、わたしたちへと殺到する。
対するマザーの筆杖は、動かない。
ただひと突き、先端の石突が廊下を叩いて、かつん、という乾いた音を立てた──しゅんかん、地の底から湧き上がるように、真っ黒な幼児の影が現れた。光を吸い込む漆黒が、ひとのかたちに空間を塗りつぶしているようだった。
黒子だ。
一体ではない。いくつもの幼児が、短い手足をばたつかせるように生み出され、やがて折りかさなるように積み上がると、巨大な壁を現出させた。
真述の炎と氷とが、その壁へとぶつかる。
影はすこしだけ表面を波打たせ、炎と氷とを飲み込んで、また沈黙した。底無し沼に小石を投げ込んだようだった。
「なっ──」
「これは……」
赤髪と銀髪とが、絶句する。
それはそうだろう。彼女らの常識のなかに、洞人が筆杖を振るう光景などはかつてありえなかっただろうから。ましてや、じぶんたちの誇る真述が、そんなまがいものなぞに阻まれようとは、想像だにしなかったはずだ。
わたし自身も、マザーの部屋でじっさいに見せられるまでは、信じられなかった。
「洞人呪術だ」
ひとり、まるで動じたようすのないサトペンが、喝破する。
「あの人形どもは、無限に湧くわけではない。壊しつづければ、いずれは収蔵が尽きる」
そう。
それこそが、『真述』と『呪術』の決定的な差異だ。
呪術とは、かつて暗黒大陸で一部の洞人だけが用いていた秘儀だ。天人が生まれながらに備える体内の真緑をつかう真述とは異なり、真緑を帯びた薬草や動物の死骸などを組み合わせることで、真述に似た効果を発揮させる術である。長年の口伝によって、さまざまな効果を持つ呪術が伝わってはいるものの──基本的には、つくられた人形を操ったり、人間を強化または弱体化させるような薬を生み出すのが、呪術の限界と言える。
その場で法則をねじ曲げる真述ほどの汎用性もなければ、融通も利かない。事前に準備していた人形や薬を使い果たしてしまえば、呪術師の持つ筆杖はたんなる置物へと成り果てる。
サトペンの言は、まったく正しい。
だが──。
「種が割れてるのは、ざんねんなことだ。
もうすこし、お嬢さんがたには驚いてもらいたかったんだけどね」
ふたたび、石突が地面を叩く。
黒子の影が、こんどは数百の単位で湧き上がった。おびただしい幼児の似すがたが、母親を乞うように腕を伸ばしてうごめいている。赤髪と銀髪が、ひっ、と息を呑むのが分かった。
……逆言すれば。真緑の消費をともなわないゆえに、操る人形の数にかぎりはない。準備にさえ時間を費やせば、兵力はいくらでも増強しうるのだ。
攻勢には向かないが、こうして一所を防衛するには、うってつけの技能だった。
「さあて、お嬢さんがた。がまん比べといこう」
マザーのすがたを覆い隠すように、合体した黒子たちが、立ちはだかっていく。わたしたちの視界は、黒子の背中でかんぜんに埋まっていた。
「おまえたちの真緑が尽きるのが早いか、わたしの人形たちが尽きるのが早いか──。
覚悟しなよ。元奴隷は、がまん強いからね」
戦闘がはじまった。
影のすきまから、爆発音や叫び声、緑色の光が漏れてくる。マザーは数秒ごとに筆杖を突き、さらなる黒子を地面から湧き上がらせては、戦線へと加わらせていく。前方の黒子が減るよりも、はるかに増殖速度のほうが早い。
わたしは思い出す。
暇さえあれば、マザーは編み物をつづけていた。
いま思えば、あれは黒子の素であったのだ。髪の毛を編み込み、重油を染み込ませ、営々とこしらえつづけた、無数の防衛兵力──この主要駅がはじまってから、いままで積み上げてきた数を、そうそう倒しきることなど、できないだろう。
勝てるかも、しれない。
わたしの胸に希望が浮かんだ。あのKKKの、最強の連中を相手取って、みごとに打ち倒せるかもしれない。そうすれば、もはや怖じることはないのだ。恐怖に怯える日々が終わりを告げるのだ──。
夢想は、マザーの視線によって打ち切られた。
「なにをしてる」
「え?」
「行くのさ。いま、へスター・プリンとセイラ・メアリ・ウィリアムズが来る。その後について、おまえは行くんだ。この主要駅から、逃げるのさ。
おまえはもう、見るべきものを見た。
あの男を、トマス・サトペンを、見た。
ここで見なければならないものは、もうなにも残っていない。老いぼれがみじめに死んでゆくさまを、おまえは見る必要はないからね」
「でも」
「勝てる、とでも思ったかい?
勝てるわけがないだろう? 時間の問題さね。黒子は疲れ切ったあの女真述師たちを押さえることはできても、あの『否定の王』を傷つけるなど、とうてい能わない。洞人呪術などでは、だめなのだよ。あれを斃すには、ほかの武器が要る。それも、まだまだ先の話さね」
マザーが言い切るより早く、「マザー!」と叫ぶ声が後方からひびいていた。
通路の曲がり角から、ヘスとセイラとがすがたをあらわしていた。マザーはわたしに目を据えたまま、声を張り上げた。
「『シスター』へスター・プリン!」
「はい、マザー!」
「グレイスを連れておゆき。『カジキ』の頭部を目指すんだ。喉元の壁面に隠し扉がある。そこに迎えが来ているから、わたしを待たずにそのままゆきなさい」
「ですが、マザー……!」
「統帥命令だ」
ごくり、とヘスが唾を呑むのが分かった。
わたしの知るかぎり、マザーが統帥命令をくだしたのは、地下鉄道の歴史上においてこれが二度目だ──一度目は、わたしの救出に武装車掌の派遣を命じたときだと、マーチに聞かされていた。
ヘスが駆け寄ってくる。
セイラがマーチのからだを抱え起こした。わたしの手を引こうとするヘスに、首を振った。マザーの目を見返す。
「マザー、わたしは」
「お別れだよ、グレイス。
いや──『マザー』驚嘆すべき・グレイスよ」
ほほえんだ。
まさしく、慈母のごとき笑みだった。
胸を打たれ、わたしは沈黙する。
マザーのほほえみは、すぐにきびしい戦いの色へととってかわった。薄くなった黒子の戦列が、筆杖のひと突きによって増強される。分厚い影の壁は、まだまだ破れない。
わたしのことは、もはや見ていない。
「行こう、グレイス」
セイラの声で、我に返った。
マーチの肩を、セイラとともに抱え上げた。通路の角を曲がるとき、ただひとりで戦線を保ちつづけるマザーの背中に、頭を下げた。
師との、それが訣別だった。




