003 鞭、そして週給二十ドル
母のすがたを見つけて、おまえは思わずちいさな声を出していた。
声にもならないような声。
それでも、母は伏せていた顔をぱっとあげて、おまえを見つける。ひかえめなほほ笑みを返してくれる。
おまえの顔が、ほころぶ。
陽の光のしたで見ると、母はとくべつにきれいだ。
おまえは思った。
つやつやした白のドレスはレースで縁取られ、まるで天人の貴婦人のようだ。おなじ白色の帽子をリボンで顎に留め、ていねいに編まれた豊かな黒髪が垂らしてある。母のきれいな褐色の肌に、その服装はよく映えていた。
それも、以前とは違う服だ。
おまえは、うれしいおどろきにつつまれた。
お母さんは、何着もの服を持っているのだ!
お屋敷づとめの使用人たち――奴隷のなかでも選りすぐりの特権階級――のなかでも、これはめずらしいことだったろう。
お仕着せの仕事着は、ふつう、一着か二着しか支給されない。旦那さまや奥さまのお近くで働くため、それらはきれいに洗濯されてはいたが、数だけでいえば、おまえのような鉱山奴隷となんら変わりはない。
けれども、お母さんは違う。
おまえは、誇らしさが胸を満たすのを感じる。
お母さんは、仕事がばつぐんにできるのだ。
だから、旦那さまや奥さまに気に入られている。あれだけの衣装もちになっているのも、そのあかしに他ならない。
おまえは叫びだしたかった。
見て。
見て。
あれが、わたしのお母さんなの。
天人と見まごうほどにうつくしく着飾り、まるで貴族さまみたいに凛としたすがたで立っているのは、わたしの、このわたしのお母さんなんだ。
わたしはなんの変哲もない、ただの洞人のむすめだけれど。
わたしのお母さんは、あんなにきれいなひとなんだよ。
「おいおまえ! なにを怠けている!」
奴隷監視人の叱責に、びくりとからだが震えた。
母のすがたに、おまえは見とれてしまっていた。
作業の手は、かんぜんに止まっている。瞬時に心臓がはねあがった。奴隷監視人がこちらに近づいてくる。
鞭の激痛を予期して、おまえは目をつむった。
しかし。
悲鳴をあげたのは、おまえではない。
「ああッ!」
となりにいたエディが、血飛沫をほとばしらせていた。
エディ。
おまえよりも歳下で、まだ八歳だ。痩せっぽちで、お腹がわずかに突き出た子どものからだが、苦痛に堪えかねて、地面へとたおれ伏す。
背中には、鞭の痕がくっきりと残っていた。
ミミズがのたうったように背中の皮がはがれ落ち、真っ赤な肉が露出している。エディはシャツなんて着ていなかったから、素肌に受けたその傷はよけいに深い。
「あああああーっ……!」
エディが泣き声をあげた。
その声に怒りを逆撫でされたとでもいうように、監視人がふたたび鞭を振り上げる。
「よくも! よくも! よりにもよって!」
みたび、よたび。
弾ける音が、おまえの耳朶を叩きつづける。
「旦那さまがお越しになっているときに! この私に! 恥を! かかせてくれたな!」
「あっ、あっ、あぐ……っ!」
ことばにならない声を、エディはくりかえしくりかえしあげた。
鞭が振るわれるたびに、血が霧のように舞い、背中からはがれた皮膚の断片があたりにちらばっていく。
おまえは、息を殺した。
おまえは、唇をかみしめた。
おまえは、顔を伏せた。
おまえの胸のなかで緊張がほどけていき、代わりにじんわりと苦い安堵がひろがっていく。
――わたしじゃなくて、よかった。
グレイス。
グレイスよ。
いま、
おまえは、なんと考えた?
おまえのなかに自問がひろがる。
じぶんじゃなくて、よかったと?
苦痛に泣きわめいているのが、エディでよかったと?
じぶんよりも歳下の、少年とも呼べない子どもが苦しんでいるのに、それでよかったと?
わたしが免れたから、わたしが助かったから、それでいいと?
きのう処刑されたのが、きょう鞭打たれたのが、わたしでなければ、それでいいと?
グレイス、とおまえはみずからへ呼びかける。
おまえはいつから、こうなったのだ?
「ふん、蛮人の子は蛮人だな」
監視人が吐き捨てた。
「ぴいぴい泣きわめいていれば、それで済むと思っている。じぶんがなぜ罰せられたのかも省みずに。……旦那様のありがたい教えを、なんとも思わなかったようだなッ!」
ふたたび、鞭が振りかぶられる。
さらなる苦痛を予見し、エディの眉が歪み、目がまるく開かれ、襲いくる衝撃を耐えようとまた固くつむられ──しかし、想像していた痛みがやってこないので、おそるおそる、薄目が開かれた。
おまえと、目が合った。
「あ──、グレイス……?」
「だいじょうぶ? エディ」
にっこりと、おまえは笑いかける。
痛みなどないかのように。
おまえのからだは、しぜんと動いていた。
エディと監視人のあいだに立ちふさがり、腕をさしあげ、毒蛇のように襲いかかる鞭を二の腕でうけとめたのだ。
鞭の先端はぐるりとおまえの腕を一周し、張り付いた。てのひらで中程をつかむと、もう、つづけて鞭を振るうことはできなくなる。
鞭は振り切ったあとがいちばん速い。
頭上に振るわれたときに腕を出せば、痛みは最小限におさえられる。奴隷たちは、経験則でそれを知っている。おまえも例外ではない。
とはいえ。
おまえの腕も、むろん無傷とはいかない。
皮は剥がれ、灼けつくような激痛が、腕ぜんたいを駆けまわっている。蛇に、たえず毒を流しこまれているような心地だった。
しかし、おまえは痛みを無視する。
痛みなどに、支配権をくれてやらない。恐怖などに、竦みあがるつもりはない。代わりに、怒りへと、薪をくべる。
「な──こむすめ、なんのつもりだ!」
「こむすめ、ではありません」
おまえは呼吸をととのえた。
「わたしは、グレイス。
グレイスという名があります」
お父さんが、つけてくれた名前だ。
おまえはゆずらない。
「反抗するつもりか!」
「逆らうつもりはありません、旦那さま」
監視人を無視して、旦那さまへと話しかけた。
「さしでがましい真似をお赦しください。ただ、このような真似を見すごすわけにはまいりませんでした。──二度目の鞭は、よけいでしたから」
「ほう。なぜだね?」
旦那さまは笑みを浮かべた。
怖じぬよう、おまえは胸を張る。
「仕事の手を止めていたことへの罰は、一度目の鞭で済みました。二度目の鞭はいわれなきものです。そればかりか、旦那さまの財産を損なう結果になりかねませんでした」
「ふむ」
「エディは幼い男の子です。
いまはろくな働きができませんが、十年後には立派な成人男子となります。きびしい畑仕事もなんなくこなす労働力となりますし、売れば千ドルもの値がつくでしょう」
「おい、その辺で──!」
「かれに、」
激昂しかけた監視人を、おまえは指さして黙らせた。
「いくら、お支払いですか。旦那さま」
「週給二十ドル、だったな?」
「え……はぁ……」
あいまいに、監視人は首肯する。
「週給二十ドル。それがかれの、収入のすべてです。千ドルを稼ぐのに、いったい何ヶ月かかることでしょう。それとも──」
おまえは監視人に向き直る。
「──あなたは、損失を穴埋めする当てもなしに、旦那さまの財産を損なおうとしていたのですか?」




