036 龍のひと咬み
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はるか、上空。
大陸全土を見はるかす位置で、浮かぶ雲のすきまに、くろぐろとしたものが覗いている。陸地からゆうに三万フィートはへだてた高度である。この高度を飛べる鳥や飛行船などあろうはずもないが、もしあったとすれば……彼らは、ふいに目のまえにあらわれた壁に仰天することだろう。視界のすべてを覆いつくすような壁が、じつは巨大な生物の一部であると知って、ふたたび驚愕に震えるだろう。
龍、であった。
いや、ただしく言いあらわすならば、龍の死骸である。
龍は全身に鱗をそなえ、その表面に目に映らぬほどのおびただしい数の繊毛を生やしている。それが筆杖の代わりに、空中浮揚の真述を書きつらねつづける。龍の死後も、真緑はうしなわれない。死骸は、数百年の時間をかけてゆっくりと朽ち果て、塵となるその日まで、超高高度を浮遊しつづけるのだ。
ゆえに、龍の死骸を目にする生物は、ほとんどいない。
生きている龍に巡り会うのがむずかしいのと同じように、死んだ龍を見つけることも至難の業なのだ。
ともあれ――
この龍の死骸の巨大さは、常軌を逸していた。
龍は、生きているあいだじゅう成長しつづける、稀有な生物だ。一年間に三フィートと言われる俗説を信じるならば、この龍の齢は、生きていたあいだだけでおよそ一〇〇〇歳を超えていただろう。蛇のように細長い体躯であるはずだが、あまりの長さに、全体像を視界におさめることはむずかしい。
死ていどでは、空の覇者の座を明けわたすには至らないのである。
そこに。
もう一頭の、龍が現われる。
死骸にくらべれば、とほうもなく小振りだ。しかしこの漆黒の龍は、生きている。意志を持ち、くちばしを尖らせ、濡れた黒曜石のごとき瞳に、死骸を捉えている。
くちばしが、開いた。
無数の牙が整然と並んだ口で、死骸の片腹、円盤のようにふくれあがった腹部へと、食らいついた。
*
線路の向こうから、音が聞こえる。
駅員は、同僚と顔を見合わせた。相手の浮かべた表情が緊張であるのを見てとると、肩から提げていた小銃を構えた。手のひらにじわりと浮かび上がってきた汗を、制服のズボンになすりつけ、また銃を握りなおす。
きょうは、この主要駅にメトロが到着する予定など、入っていない。
暗いトンネルの向こう側から、音が聞こえるはずがないのだ。しかし、空耳ではないらしい。駅員はもう一度、耳を澄ました。
足音に、聞こえた。
長靴の底が線路に敷かれた砂利を踏む、ざり、ざり、という音が、規則正しくひびいてきている。複数人――一〇〇人近い人間が、歩いてきているようだ。
まちがいない。
異常事態だ。
同僚のひとりに頷くと、彼がきびすを返して走りはじめた。
これで、本部への連絡は問題ない。あとは、近づいてくる足音の主たちに対し、誰何を投げかけ、その安全性をたしかめればいい。だいじょうぶだ、と駅員はみずからに言い聞かせる。訓練は積んでいる。いざとなれば、銃もある。
駅員にとって、戦闘ははじめてではない。
あの『内戦』で、洞人部隊に所属していたのだ。フレデリック・マーチとともに、天人の真述師たちを相手取って、りっぱに戦い抜いてみせたのだ。たとえトンネルの向こうにいるのがKKKの連中であっても、怖じることはない。
足音が、トンネルの出口まで近づいてくる。
駅員は周囲の同僚たちの数を数える。おおよそ、四〇人。これだけいれば、相手が急に攻撃をしかけてきても、じゅうぶんに制圧しうる。
息を吸った。
「止まれ」
声を張り上げると、足音が制止した。
「代表者のみ、ゆっくりと歩いてこい。不審な動きを見せたり、走ってきたりすれば、即座に発砲する。脅しではないぞ」
いくつかの足音が、またひびきはじめた。
駅員は銃口をトンネルの暗がりへと向ける。四十の銃口が、トンネルへと向けられている。駅員は生唾を飲み込み、警戒をゆるめず、待った。
現われたのは、三人だ。
上背のある天人とおぼしき男と、美女が二人。
中央に立つ男は、茶褐色のロングコートを身につけ、帽子をふかぶかと被っている。視線はうかがえない。美女の片割れは、燃えるような赤い髪を、もう片割れは、凍てつくような銀色の髪を、それぞれ風に流している。天人としてもありえない髪色をしているのに、ぞっとするほどのうつくしい容貌ゆえか、ふしぜんさはみじんも感じない。
中央の男が、帽子の縁を持ち上げた。
見覚えのある顔だった。
いくども忘れようと努めても、忘れることのできない、顔だった。
全身にふるえが走った。知らず知らずのうちに、歯が鳴った。
嘘だ、と駅員は思う。
嘘だ嘘だ嘘だ、こんなことはありえない。もうあの『内戦』は終わったはずだ。もうあの悪夢は終わったはずだ。ほうほうのていで、ようやく、いのちを拾い上げたはずだ。神さまに一生分の祈りをささげて、ようやく、生き延びたはずだった。
あの戦場を離れたとき、悪魔とは縁切りできたはずだったのだ。
なのに、
なのにどうして――。
同僚のひとりが、悲鳴を上げた。
銃声がひびきはじめる。つりこまれるように、駅員も発砲していた。銃声は幾重にもかさなり、大轟音となって停車場を圧した。煙がたちのぼり、もくもくと立ちこめる。
やがて、四十すべての銃が撃ち尽くされ、銃声が途絶えた。
しずかだった。
やがて、煙が晴れていく。単発銃につぎの弾丸を込めるのもわすれて、固唾を飲んだ。
長身の影が、立っていた。
へいぜんと、あたりまえのごとく、なにごともなかったかのように、立っていた。手のひらをこちらへかざしていた――その数フィート先で、四十発の弾丸が、空中に浮かんでいるのが見えた。まるで目に見えない糸にでもぶら下げられているように、弾丸は静止させられているのだ。
あの男の、ちからによって。
あれだ。
あれこそが、あの内戦で、あの戦場で伝説となった、狂気と恐怖の魔術。
神に祝福された真述とは異なる、正真正銘の外法、世界の破綻を顕現させる、悪魔と契約したものだけが使える、魔の術法。
すなわち、魔術。
すなわち、絶。
どん、という音。
振り向くと、同僚の腹が円形に穴をうがたれていた。いっしゅんおくれて、血しぶきと悲鳴があがる。大砲の弾の直撃を受けたような、絶望的な威力。
頭のなかを恐慌が満たしていく。
そうだ。それが、あの男のやりくちだった。じぶんは絶対不干渉の空間のなかにいて、弾丸の嵐を避け、むぞうさに歩をすすめながら、大砲じみた大口径の二丁拳銃で、つぎつぎと敵を撃ち殺してゆく。なんの感慨もなく、なんの感興もなく、山刀で道を切りひらきながら森林を歩むがごとく。
「うあああああああああっ!」
「いぎっ!」
「ああああが、が、がああが」
砲声がひびくごとに、断末魔の声が、四方で上がる。
駅員はふるえる手で、それでも弾丸を小銃へ込めようと努めた。つぎに撃ち殺されるのが、じぶんではないことを祈りながら。
こちらへ向けて走ってくる、複数の足音が聞こえた。
敵方の兵が、殺到してきているのだ。同僚たちがつぎつぎと殺され、悲鳴を上げ、戦線が見るもむざんに崩壊してゆくのを感じる。同僚たちは、とっくに逃げはじめている。その背中を、あの二丁拳銃か、真述の攻撃におそわれながら、必死の思いで逃げだそうと努めている。
美女のひとりが筆杖を振り、紅蓮の炎がとなりの駅員を焼き尽くす。
美女のひとりが筆杖を振り、凍てつく氷がとなりの駅員を粉々にする。
そのなかで、駅員は、とほうもなく見苦しい手際で、弾丸を込め終えた。
目のまえに、気配があった。
銃口を向け、ちゅうちょなく発砲した。
弾丸が放たれ、目のまえにいた男の顔へと吸いこまれていく。その速度が、遅くなってゆく。体感ではなかった。じっさいに、弾丸の速度は低下させられていき――やはり、空中に静止する。
男が、その弾丸をつまみ上げる。
しげしげと、弾丸を見つめているようだった。駅員は、頭上で行われるそのしぐさから目を離すことができなかった。蛇に魅入られた小鼠のように。
やがて――
駅員のからだが持ち上げられ、その痙攣する足元に、赤い水溜まりが広がっていった。
「行くぞ」
男が、錆びた声で総勢へと告げる。
美女のふたりが笑う。
白衣に覆面の真述師たちは、いちように、指先を伸ばした左手を、前方へと突き出した。右手は、胸の前で二本の指を突き出したままに握られている。
そして、満身の大声で、さけびはじめる。
「クー・クラックス・クラン!
クー・クラックス・クラン!
クー・クラックス・クラン!
クー・クラックス・クラン!
クー・クラックス・クラン!
クー・クラックス・クラン!」
停車場いっぱいに、声はひびきつづけた。




