034 帰宅するとまず靴下を脱ぐ
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馬車に乗り込んだしゅんかんに、真顔に戻った。
とりつくろった笑顔は、とくに疲れる。トムは口の端を揉みほぐしながら、こめかみの奥で脈打つ頭痛に耐えた。先方に借りた馬車だったが、御者に愛想を振りまく余裕はなかった。
「出してくれ」
短く告げて、背もたれに体重をあずけた。
狩りならば、こんな頭痛はなかったはずだ。
おなじ社交であるなら、狩りがいい。今日みたいに、ラウンジで過ごすゆうべというのは、あまりにじぶん向きではなかった。
とくに、今日はひどかった。主催者は『内戦』で財を築いた新興貴族で、社交界における立ち居振る舞いもなってはいない。南部男たるもの、あるていどの野趣と率直さをもつべきだとする前提を踏まえず、じぶんの英国かぶれをひけらかすのに大忙し、といったようすだった。
食後のコーヒーの代わりに紅茶が出されたし、なにも予告なく、おのればかりがスモークジャケットに着替えて現れるというありさまだ。ほかの招待客が着替えを持っていないという事実にさえ、気づいていなかったのだろう。カードの選択も悪い。
──ブリッジだと。そんな女々しいカードを誰が遊べるか。
参加していた農場主たちが露骨に鼻じらむのを、トムは横で感じていた。
南部社交界でのさいきんの流行は、テキサスホールデムで西部男を気取ることなのだと、まるで知らなかったらしい。嬉々としてカードを配る主催者のまえで、笑顔をとりつくろうのは、じつに骨が折れた。
「いやはや……」
ため息が漏れる。
いつのまに、じぶんは野暮な主催者を軽んじるまでになったのだろう。あの野生児、礼儀知らずの成り上がり者が、よくもまあ、馴染んだものだ。ポリーおばさんに見せたら、さぞかし喜ばれることだろうよ。
自嘲の笑みが漏れる。きぶんを変えようと、首元のタイを緩めた。
──あの子、どうしてるかな。
ふと、顔を思い浮かべていた。
トムがこういうときに思い出すのは、主要駅にいる幼なじみの顔と相場が決まっている。しかし、めずらしいことに、今日はことなっていた──思いえがいているのは、洞人少女の顔だ。
もう、四ヶ月ほど前に会ったきりだった。
正確にいうと、会ってさえいないのかもしれない。トムが駆けつけたときには、彼女はほとんど気を失っていたし、メトロでジムじいやに引き渡してからの消息は、ほとんど知らない。主要駅からは月に一度はかならず連絡を受けてはいたが──たった一人の逃亡奴隷の消息など、頼みもしないのに入ってくるわけがないのだ。
ふしぎと、彼女のことを思い返す機会が多かった。
とくに印象的な顔立ちだったというわけではないし、恋愛対象として見るような年齢でもない。それなのに、なにか、忘れがたいものを持っているように見えた。
──めずらしく、マザーじきじきの特命だったからな。
たった一人の救出に、トムを用いるというのは、近年では異例のことだ。
地下鉄道で十名に満たない『武装車掌』を用いるのは、危急の事態が発生したときに限られる。数十人の『乗客』が絶体絶命の危機に瀕しているだとか、『駅』がKKKに踏み込まれかけたときのような、最終状況だけなのだ。
それもとうぜんである。
『武装車掌』を出すというのは、攻撃を行うという意志の表明だ。地下鉄道は、基本方針として武力を行使しない。死人を出せば、KKKの追及はさらに強まるし、支援者連中も反感を示す。だから表向き、『武装車掌』などというものは存在していない。
しかし、さいごの手段として、武力は必要になる。それがマザーの思想だった。マザー自身も、現役で『車掌』をしていた頃には、身の丈以上もある銃をたずさえていたらしい。
だが、『武装車掌』の派遣というのはあくまでさいごの手段だ。
ただひとりの逃亡奴隷を救うために、用いられるものではない。地下鉄道には、冷然とした数の原理がはたらいている。ひとつの命とふたつの命が秤にかけられれば、かならず、後者が選ばれる。前者は、切り捨てられる。
であるにもかかわらず。
マザーは、あの少女──グレイスの救出を、トムに命じた。
異例中の異例である。誰よりも数の原理に厳しいマザーが、みずから、原則を曲げたのだから。かつて我が子さえをも切り捨てたあのマザーが、命じたのだから。
あの子には、何かがある。
まちがいなく。
地下鉄道のなかに、この異例が行われた事実を知っている人間が、どれだけいるかは分からない。事情を明かされる人間がいたとしても、あの眼帯の元従軍牧師ぐらいのものだろう──トムの勘は、真実は彼にさえも明かされていないと告げていたが。
──ま、邪推したって仕方ないか。
諦めに目をつむった。
自邸へと、たどり着いた。
着きました、伯爵閣下──御者から掛けられた声に、「ありがとう」と短く答えると、誰の手も借りずに馬車から降りた。
「お帰りなさいませ、旦那さま」
ずらりと居並ぶ洞人の召使いたちが、トムを出迎える。
いやだなあ、とトムは思う。
こんなふうに出迎えられるのは、どうしたって居心地が悪い。やらなければならないことは分かっている。今日の御者のように、ほかの屋敷ではたらく人間が来ているときには、とくに徹底しなくてはならない──あの農場では洞人を甘やかしている、怪しいぞ、などという噂を立てられないために。けれども、気持ちのいいものではないのだ、決して。
「ポッターは帰ってきた?」
内心の不快感が表出しないよう、そっけなく訊いた。
メイドのひとり、いちばん年嵩のハンナが、帽子を受け取りながら答える。
「いいえ、旦那さま。『列車』が遅れているようですわ」
「異変か?」
「電報は届いていません。おそらく、問題ないかと」
メイドのひとりが後ろ手に屋敷の扉を閉めた。
ようやく外部の視線から解放された。トムはメイドの手で脱がされるより早く、フロックコートを放り、短靴をむしり取るように脱ぐと、来客用のソファにどっかと腰を下ろした。
「ああー……だっる……」
「旦那さま。せめて書斎で」
「やだよ俺もう。一歩も動きたくない」
足だけで器用に靴下を脱ぎ捨てつつ、トムは盛大なため息を吐き出した。つま先でつまむように靴下を持ち上げると、トムの脱ぎ捨てた衣類を集めていたメイドへと差し出した。
「ごめんリズ。これも持ってって」
「また裸足ですか」
「落ち着かねーんだもん靴履いたままだと。みんなよくやってるよな、家んなかで。知ってる? 日本って国じゃ、家のなかじゃみんな裸足で過ごしてるらしいぜ。すげー合理的だと思うよ俺。そうだ、この屋敷でもそうしない? 基本、室内で靴履くの禁止」
「駄目です」
「えーなんでよ。楽じゃん」
「お客様をお招きするとき、どうするのですか。燕尾服を着てこられたお客様に、旦那さまは裸足を強制されるのですか」
ハンナの厳しい口調に、トムは黙り込んだ。ソファの背もたれに肘を置き、頬杖を突く。
これが、トムだった。
南部名家の一つ、ソーヤー家の当主という立場にありながら、野山を駆けずりまわっていた悪ガキから、ひとつも成長できていない。社交の場で態度をとりつくろうことだけはかろうじてできるようになったものの、自邸に帰ってくると、気が抜けてしまう。おかげで、メイドたちにも呆れられ、粗雑に扱われているのだ。
べつに、そのことは不満でもなんでもない。
なんなら、うやうやしくかしずかれている方が、よほど落ちつかない。ハンナに口うるさく言われているぐらいが、いちばんくつろげるのだ。
しばらく、屋敷入り口のソファで、立ち働くメイドたちを、ぼうっと眺めていた。
「……あれ、きみ」
見慣れない少女がメイドのなかに混ざっているのに気づいたのは、十分もしてからのことだった。




