033 わたしたちには、もう、時間がないから
はじめから、あの子だけが、なにか違っていた。
決定的に、異なっていた。
感情がすくない、というのではない。情緒が損なわれているようには思えない。しかし、その表出がきょくたんにすくない。子供たちは、おなじ年齢の子供たちとの関係性のなかでみずからを築き上げていく。傷ついた子供たちであっても、変わらない。子供同士で遊び、語らうなかで、じぶんの故障をすこしずつ癒やしていく。
しかし、あの子に友達はいない。
セイラ・メアリ・ウィリアムズだけが、唯一あの子と行動をともにしている。しかし、セイラは例外だ。問題は、それ以降の関係を築けるか否か、だ。
仲間たちから爪弾きにされているようには、見えない。
むしろ、おのずから孤立を選んでいるように、見える。
関係性を築けない子供も、なかにはいる。
情緒がうばわれてしまっている子供だ。奴隷時代に、あるいは逃亡生活のなかで、傷つき、損なわれてしまっている子供たちだ。こころを閉ざし、外界との関わりを拒絶してしまう、子供たち。
こういう子たちは、ただ、時間の癒やしを待つしかない。
おおくは、眠る。日に十時間以上を眠って過ごし、からだにまで現われている不調を、ただ癒やす。数週間もそうして過ごせば、だんだんと、情緒が安定しはじめる。ぽつり、ぽつりと、水滴がこぼれるようにことばが増えはじめる。こうすれば安心だ。
だが、あの子は違う。
こころを閉ざしては、いない。セイラとはふつうに会話を交わしているようだし、授業に出ていたときには、へスターに質問をよく投げかけてきていた。注意して見なければ、向学心と知識欲にあふれた、ごくあたりまえの洞人少女にしか見えない。
教室に毎日顔を出し、熱心に字を学んでいた。
だれよりも早く文字と基本的な単語の綴りをおぼえてしまうと、辞書を片手に聖書を読みはじめた。読めない単語に出くわすと、へスターのところにも訊きに来た。熱心な生徒、という印象しかなかった。しかし、それが変わった。図書室の存在に気づいたらしく、聖書を持ちあるくのをやめた。代わりに何冊もの本を抱え、口数もめっきり減った。
話す代わりに、書いているようだ。
へスターは見た――図書室の机に向かうあの子が、ふいに読むのをやめると、猛然と手帳のページに鉛筆を走らせているさまを。ゆうに数ページにわたる文章をひと息で書き上げ、そこではじめて呼吸を思い出したように、ふう、と長く長く息を吐いているさまを。
ことばだ、と思った。
ことばが、あふれているのだ。急速にふくれ上がった語彙を、従えようとしているのだ。悍馬のごとく好き勝手に跳ねまわろうとすることばたちを、乗りこなそうとしているのだ。
鉛筆をとる横顔は、真剣そのものだった。
十三歳の少女の顔には、見えなかった。戦場をまえにした兵士の目つきで、あの子はことばに向き合っていた。
不安になった。
悪のにおいはしない。まなざしに悪魔は宿っていない。ただ、どこかに暗さを抱えている。どこかに、否定の方向へ向かう情熱を、燃やしている。
フレデリック・マーチに、相談した――「気にするな」、と言われた。
マザー・チャリオットに、相談した――「あの子はいいのだよ」、と言われた。
もう、七十二週間が経っている。
はじめのころ予感していたように、あの子は主要駅を出ようとしない。地下鉄道としては、一向にかまわない。一般に流通している「四週間」というのは、期限でもなんでもないのだ。いたければいつまでもいてもいいし、じぶんの道がさだまるまで、じっくり腰を据えてみるのも選択肢のひとつだ。
だが、おおくの逃亡奴隷にとって――主要駅で暮らす日々というのは、一刻も早く通過したいものでしかない。
とうぜんだ。主要駅にいるあいだは、逃亡生活は終わっていないからだ。新天地におもむき、自由身分を手にする。証明書を手に、仕事と家を見つけて、腰を落ち着ける。そのときまで、逃亡生活は終わっていない。宙ぶらりんの状態に、とどまっていたい者などいない。
なのに、あの子は――。
ようやく、へスターは覚悟を決めた。
はたして、グレイスは図書室にいた。
このところは、アイルランド人が酒場に通うように、入り浸りだ。いつものように本を何冊も積み上げ、手帳を広げている。いまは読んでいるときのようだった。洞人の小柄な体躯には、不釣り合いなほどに大きな歴史書を、机の上に立てるように読んでいる。
署名には、英国史、とあった。
「いまは、歴史を学んでいるの?」
「そうだよ、ヘス」
本を置かずに、グレイスは答えた。
「この国の歴史を知るには、まず英国の歴史を学ばなきゃならないって気づいたんだ。
あの『旧い国』、『大魔導帝国』、『神に愛された女王の国』とやらが、どういう経緯でこの大陸に天人を送りこんできたのか。それを知らなきゃいけない。どうして、連中が先住民を殺し、その土地を奪い、故郷から洞人を連れてこなきゃならなかったのか、知らなければ」
へスターは口ごもった。
気軽な世間話のつもりだった。
しかし、気軽な世間話など、この少女に振ることはできないのだと、突きつけられるだけで終わった。
「ねえ、グレイス」
深呼吸して、語りかけた。
「ちょっと、話をしてもかまわない?」
「いいよ」
本を置いたグレイスの瞳が、まっすぐにへスターを見つめる。
挑むような目つきだ。
「あなたに、夢はない?
なんでもいいの。平穏な暮らしをしたいとか、北部の学校に通いたいとか、本を書いてみたいとか。……ほら、これからあなたの将来をかんがえていく必要があるじゃない? だから、なんでもいいから、希望を訊きたいの。あなたがなにを望んでいるか分かれば、私たちも助けになる方法が分かるし、だから……」
ことばは、歯切れ悪く消えていった。
へスターは、おどろいたことに、緊張していた――まるで、マザーに呼びだされたときのように。手のひらに汗がにじみ出るのを感じる。背すじが熱くなるのを感じる。ひとまわり以上も年下の少女相手に、まるで、ためされているようなきぶんだった。
グレイスは、黙っていた。
黙って、かんがえているようだった。
やがて、口を開いた。
「夢なら、ないよ。
わたしは、未来を夢見たりしたくない。
わたしは、現実が知りたい。
この国で、なにが起きたのか。なにが起きているのか。これから、なにが起きるのか。すべてが理解できるようにならなければならないし、すべてに対処ができるようにならなければならない。急いで、じぶんを鍛え上げなくちゃならないんだ。だって、」
――わたしたちには、もう、時間がないから。
ちいさく付け加えられたさいごのことばの意味を問うこともできないまま、へスターは、グレイスが立ち上がって去っていくのをただ見送った。
肩のちからが抜けた。
それで、じぶんの肩がこわばっていたのだと、気がついた。




