032 セイラ
どこから声をかけられたのか、分からなかった。
本の束をかかえたまま、辺りを見まわす。たしかに少女の声だった。その主は見つからない。こんなに人工的な地下施設のなかで幽霊などが出るとも思えない。
各施設につながる、大広間にわたしはいた。
この主要駅の中心にあるのが、大広間だ。中央にある円形の巨大な空間から幾本もの廊下が延び、図書室、食堂、教室、共同寝室などの各施設につながっている。どこにいくにしても、大広間を経由するのがいちばん分かりやすい。だから夜分であっても、ひとの往来が絶えない。
さいしょに降り立った停留場と同様、大広間も高い半球形の天井をそなえた、だだっ広い空間である。あくまで往来の拠点でしかないから、この場所で足を止めるひとなどほとんどいない。
わたしも例に漏れず、図書室へ本を返し、またあたらしい本を借りだしてこようとする途中だった。
「おーい、こっちこっち」
頭上だ。
わたしがうえを向くと、天井から吊り下げられた巨大な照明の影に、人影があった。複雑に編まれたワイヤーに手をかけて、樹上の栗鼠のようにぶら下がっている。人影は器用にワイヤーをわたり、中二階へとすすむと、階段の手すりに腰を乗せてすべってきた。
軽業師のように、目のまえに着地する。
洞人の少女だった。
「や。さいきんきみ、よく見るね」
きみょうな子だった。
水色のキャラコ地でつくったスカートに、エプロンをきちんと身につけた小さい淑女といった恰好なのに、足にはなにも履いていない。わたしと同じぐらいの年齢に見えるのに、ちいさい子のように剥き出しの足で、もう片方の足首をぽりぽりと掻いている。しぐさだけとると、まるで野山で遊びまわる男の子のようだ。
肌の色は薄く、くせの薄い髪の毛を三つ編みにして編んでいる。その毛先を、慣れないもののようにしじゅういじり回しているせいで、ほとんどほどけかけていた。
「それなに? 本?」
「ええ、まあ」
「うわあ、すげえなあ! こんな字ばっかりの本を読むのかい? おどろいた――こんだけの読書家を見たのは、トム以来だなあ」
本をぱらぱらとめくりながら眉をしかめてみせていた少女が、わたしをしげしげと眺める。
口調のほうも、かなり伝法だ。しかしいやなかんじはしない。くるくると変わる表情は、見ていて楽しかった。
「メアリーってんだ。よろしくね」
本を返したあと、ついでのように握手の手のひらをさしだしてくる。
「メアリー……」
「いけね、間違えた」
わたしの顔にさっと影がよぎったのを見たのか、少女が言い直す。
「ほんとうはセイラ。メアリーはミドルネームなので、セイラのほうで呼んでくれりゃうれしいかな。セイラ・メアリー・ウィリアムズ。……うん、セイラで」
語感をたしかめるようにくりかえすと、セイラと名乗った少女はうなずく。
「わたしはグレイス。よろしく、セイラ」
助かった、とわたしは思う。
メアリーという名前を、平静のまま呼ぶことはできなさそうだったから。
「グレイス――グレイスか。
いい名だね。ぼくは好きだ。……ところでグレイス、きみ、何週目?」
何週目か、という質問は、この主要駅ではあいさつの常套句だった。
おおくの場合、この主要駅にひとりの『乗客』が滞在するのは、四週間ていどだった。食事や睡眠を与えられ、基本的な文字教育を受け、マザーと行く先の相談をしてから、合衆国やカナダへと旅立っていく。おおよそ四週間で、これが一周するのだ。
だから、何週目かを訊けば、いま相手がどういう段階なのかが分かる。
一週目なら、きっと、食べて寝て、体力をとりもどすだけで精いっぱいだ。
二週目なら、きっと、文字を覚えるのに四苦八苦している。
三週目なら、きっと、そろそろマザーとの面談を控えている。
四週目なら、きっと、旅支度をはじめている。
ひとによって多少の前後はあれど、主要駅にいる『乗客』は、このいずれかの段階にあると思ってかまわない。
しかし、わたしの場合は――
「わたしは、七週目」
「へえ」
セイラが目をまるくした。
わたしが地下鉄道にはじめて降り立ったあの日から、七週間が経っていた。
その間、ほとんどの時間を図書室に籠もって過ごしていた。さいしょの二週間はみっちりと教室に通っていたけれど、そこから先は図書室で独学をしていたのだ。うんと多くの時間を辞書とつきっきりで過ごしたおかげで、いまは、一日に三冊もの本を流し読みできるようになっていた。
「きみ、のんびりしてるだけ? それとも、地下鉄道ではたらくつもり?」
「まだ、決めてない」
正直に答えた。
本を読みながら、考える。書き留める。それに忙しくて、じぶんがこれからどうするのかを考える暇はなかった。さいわい、誰にも急かされはしなかった。四週間ていどで出ていくのが平均的だとしても、強制されはしない。それが地下鉄道のやりかたなのだと、この数週間で学んでいた。
「いつまでも、ただでパンをもらうわけにはいかないんだろうけど……わたし、考えてることがあって。どうしても、まだじぶんのなかで答えが出ないから。いまは、地下鉄道に甘えさせてもらってるの」
「まじめなんだねえ」
「まじめってわけじゃないよ。ただ、頑固だから」
「いやあ、まじめだと思うなあ。ぼくなんか、二年はここにいるけど、先のことなんてなーんにも考えてないもんな」
「二年?」
さすがに、おどろいた。
追い出されはしないといっても、二年だ。居すわるのにも限度があるような気がする。
「いちおうね、仕事は任されてるんだよ。だからぼくの場合は、事実上、地下鉄道の『駅員』みたいなもんなんだよね」
セイラがうすい胸を張る。
「新入りの子供たちの、めんどうを見るんだ。困ってることはないか、さみしい思いはしてないか、それをあそこからチェックする」
「あそこ?」
「あそこ」
セイラが指さしたのは、大広間の天井照明だ。
「……いつも、ぶら下がってるの?」
「まあ、たいていはね。木のぼりは得意だから」
「高いところから見ろって、言われてるの?」
「いや? ふつうに見ろって言われてるよ? 共同寝室とか、教室とかでね。とくに教室は子供が多いからね」
「あなたの顔、教室で見たことないけど」
「やー、勉強きらいなんだよねー」
悪びれもせず、答える。
「あはっ」
わたしは思わず笑ってしまった。
セイラに手を焼かされているヘスやフレデリックの渋面を、想像してしまったのだ。この自由な女の子には、さぞ振りまわされていることだろう。そう考えると、なぜか痛快だった。
ずいぶん久しぶりに笑った気がした。
こうしてわたしに、主要駅ではじめての友達ができた。




