029 わたしはグレイス
フレデリックに連れられて、マザーの部屋を出た。
ぼうっとしていた。
頭のなかに、まだあの声が反響していた──ふしぎな感覚だった。目のまえにいる老女は口をいっさい動かしていなかったのに、声だけが、ひびく。わずかに聞いたマザーの声とおなじ声であるはずなのに、だんだんと、そう感じなくなっていく。じぶんの声に聞こえていくのだ。
「声を、聞いたんだろ?」
フレデリックが顔を覗きこんできていた。
わたしはうなずく。
「ふしぎな感じだよな。あんな芸当は、マザーにしかできやしない。口を動かさずに、どんなに離れた相手にも、ことばを伝えられるなんてな」
「だれにでも、伝えられるの?」
うんにゃ、とフレデリックが首を振った。
「どうも、違うらしい。
伝えられるのは、同族──洞人だけに限られるんだそうだ。天人やら先住民やらには、あの声は届かない。彼女と面識があろうとなかろうと、だ。『大陸』の精霊が声を届けてくれるんだとかなんだか言ってたな。どういうしくみなのかは俺には分からねえけど、便利なこたァ確かだ。俺ァ、あんまり好きになれねえけどな」
「あなたも、聞こえるの?」
「おう、聞こえるぞ」
声の感覚を思い出しているのか、くすぐったそうに耳を掻きながら、フレデリックが首肯する。それからわたしの視線に気がつき、
「ああ、そういうことか……。
かんちがいしてるようだから言っとくが、俺は天人じゃねえぞ」
「えっ?」
「こう見えても、洞人だ」
フレデリックの全身を、わたしは眺めた。
どこからどう見ても、天人にしか見えない。白い肌、長身、波うつ長髪──瞳や髪の色こそ黒だったが、それだけで彼を洞人だと見やぶることはできないだろう。
「まあ、お察しのとおり、俺は天人の血が強えからな。じぶんでも気づかなかったぐらいだ──例の『内戦』が起こるまでな。
俺ァ、北軍の従軍牧師でな。洞人の志願兵部隊に同行してたんだが、ある日の戦闘で負傷しちまって、南軍の捕虜になったんだ。そりゃあ丁重に扱われたよ──俺の血に、洞人の血が混じってるって分かるまではな」
フレデリックは苦々しく奥歯を噛み締めた。
「そりゃもう、びっくりしたぜ。
じぶんでも知らなかったからな。そもそも、合衆国内だったらさほど大した意味を持たない。どんな血が混じってようが、個人は個人だ──ってのが、建前だからな。
だが、連合国じゃ、違った。
洞人捕虜となったしゅんかん、俺の扱いは目に見えて酷くなったよ。わけが分からなかった。この連合国〈くに〉での定義が、『一滴でも洞人の血が入っていれば、洞人』だって聞かされても、納得はできねえよ。
……ひでえもんだったよ。
思い出したくもねえやな、その時期のことは。かんたんにまとめるなら、目玉をひとつ潰されただけで生還できたのが、奇跡ってとこだ」
「……その恨みで、地下鉄道に?」
「いや、恨みとかじゃねえな。
俺、こう見えて四人の娘がいんのよ。じぶんで言うのもなんだが、まあできた娘たちでな。でも、いまの世の中だと、奴隷の身になりかねねえ。俺から、洞人の血を受け継いでるわけだからな。
だから、そんな世のなかを変えちまいてえんだ。
娘たちが淑女になるまえに、な」
フレデリックの歩く背中を、眺めていた。
この地下鉄道という組織は、さまざまな思いが持ち寄られてつくられているらしい。このやくたいのない世界に抗うには、そういう思いが必要なのだ。
と、フレデリックが足を止める。
「さて、着いた」
廊下の先にあった扉が、がらりと開かれた。
かなり広い部屋だった。机と椅子とが等間隔に並べられており、それと対面するように、一段高い席がある。ちょうど、教会の説教壇のようなかたちだ。異なるのは、壇の背後に黒っぽい板が貼り付けられている点だ。扉を横だおしにしたような大きさの板には、黒い塗料が塗られているらしい。その上には、白い石でこすりつけて書かれたらしい文字や図形が、いくつも描かれている。
なにをする場所なのだろう、とわたしは首を傾げた。
「ここが、教室だ。
まあおおよそ午前中から夕方にかけて、ここでおまえは読み書きやかんたんな計算を習うことになる」
「教室……?」
「学校、つったほうが分かりやすいか?」
学校。
学校と、言ったのか。
わたしは思いかえす。
母といっしょに、夢を見たことを。『お父さん』が迎えにきたら、北部の学校に通い、読み書きや歴史を学ぶのだと。そこには同世代の友人たちがいて、日々のパンを心配することもなく、ただ学び、遊び、恋をし、未来に思いを馳せ──希望に満ちた暮らしを、するのだと。
わたしは、机に触れた。
椅子の背を、撫でた。置かれていた小さな黒板を手に取り、紐が付いた白墨をそっと握った。
学校がこういうものなのだと、知らなかった。
知らずに、憧れていた。
「お母さん」
つぶやいた。
わたしはいま、ここに立ったよ。そう、胸のうちで呼びかけた。
「さて、だ」
フレデリックの咳払いで、わたしは我にかえる。
隣にはヘスのすがたもあった。ふたりは並んで壇上に立つと、それぞれ白墨の一本を手に取り、文字を書いた。
FREDERIC MARCH──フレデリック・マーチ。
HESTER PRYNNE──へスター・プリン。
「さて、改めての自己紹介だ。
俺の名前は、フレデリック・マーチ。皆には『ファーザー』と呼ばれてる。この地下鉄道で、『車掌』を請け負ってる」
「私はへスター・プリン。いちおう『シスター』という暗号名だけど、『ヘス』って呼ばれることが多いわ。この主要駅で『駅長』を任せてもらってます。
あとは、この教室でみんなに字を教えるのも私の担当。よろしくね」
わたしは、ぺこりと頭を下げる。
「違うだろ」
フレデリックが教壇に置かれていた鞭を、いたずらっぽく鳴らしてみせた。
「名乗られたら、名乗り返す。それが礼儀だ。きみの名前は?」
「グレイス、です」
「どんな字を書く?」
わたしは硬直する。
じぶんの名前のつづりを、わたしは覚えていない。
アルファベットはひと通り教えてもらったから、かんたんな単語なら読み取ることはできるが──そのなかに、じぶんの名前は入っていない。
とうぜんだ。
奴隷は、字を学ぶことを許されていないのだから。
もしじぶんの名前を練習しているところなんて見られたら、鞭では済まない。
「書け、ません」
やっとのことで言うと、ヘスが「さいしょのレッスンね」と、黒い板に白墨をすべらせる。きれいな文字で、「GRACE」と書かれた。
「これが、あなたの名前。
手元の黒板に、書いてみなさい」
机のうえに置かれていた小さな黒板を、手に取った。先の尖った白墨を、わし掴みにする。黒板の表面に先を下ろしたとたん、白墨の先端は、ぽきり、と音を立てて折れてしまった。
「あっ……」
ヘスの顔を盗み見る。
怒っては、いないようだ。
「白墨は、指先でつまむように持つの。そうすると手元も見えて書きやすいし、適度なちからがこもるわ」
おずおずと、いう通りにする。
「そう、それでいい。やり直して」
わたしは、ゆっくりと書いた。
じぶんが白墨をすべらせていくと、そこに字が生まれる。奇跡のようだ。線を書くことが、これほど気持ちのいいことだなんて、思わなかった。おのれの手でことばを生み出すことが、これほど嬉しいことだなんて、知らなかった。黒板に顔をうずめるようにして、わたしは書いた。
「あ」
まちがえた。
白墨を持ち上げると、黒板には「GRC」と書いてしまっている。「A」を先に書かねばならないと、分かっていたのに。
「だいじょうぶ。白墨はこすれば、自由に消せるのよ」
「待ってろ、その辺にぼろきれがあったはず──」
待てなかった。
わたしは手の腹で黒板をこすり、たんねんにこれまでの痕跡を消した。もう一度、書ける。もう一度、挑戦できる。わたしはまた、黒板に顔をうずめた。
G。
R。
A。
C。
E。
グレイス。
グレイス。
「グレイス──!」
わたしは、黒板を目の高さに持ち上げた。
そこには、たどたどしく、お世辞にも見栄えいいとは言えない文字が、並んでいる。しかし、わたしの書いた文字だ。まぎれもなく、わたしの名前だ。
黒板を、ヘスとフレデリックへと向ける。
ふたりが、ほほえんで頷いた。
「わたしは──っ」
涙があふれ出た。これまでのすべての記憶がよみがえる。渦を巻いて頭のなかを掻き乱していく。頭を振って、涙を拭いた。
それから、宣言した。
「わたしは、グレイス。
わたしの名前は、グレイスです」
ここまでで第一章完結です。
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