002 こーん、こーん、こーん
誰もが、見ないふりをしていた。
目を逸らしていても、けたたましい羽音は聞こえつづけている。幾十匹もの蝿が、格好の餌食を見つけて歓喜に踊っている。
トビー。
正確には、トビー、だったもの。
鉱山にいたる道の片隅に、それは晒されていた。
すでに異臭を放ちはじめているそれは、苦痛と絶望に目鼻を歪めたままに事切れていた。からだじゅうにいくつもの穴が空き、涙のように流れた血の跡が乾き、黒ずんでいる。はげしい苦悶に身をよじらせた形跡はあったが、もうふたたび、動くことはない。
さきほど眺めたとき、乾いて皺の寄った眼球に、蝿が止まっているのに気づいて、おまえは目をそむけた。
おまえは斧を振るっている。
こーん、と高い音が響いて、老いた樹の肌に刃が打ち込まれる。ちからいっぱいに引き抜いて、もういちど打ちこむ。こーん。これを、ただえんえんとくりかえす。
いよいよたおれるときになると、声をあげる。
ほおい、という声。声を合図に、周囲ではたらく洞人たちが、ゆっくりと倒れ込む樹を避ける。
こーん、こーん、こーん。
こーん、こーん、こーん。
ほおい。
いたるところで、これが聞こえている。
その律動に意識を向けて、労働そのものに没入していきながら、死臭と、蝿の羽音とを忘れようと、ただ努めている。なにもかんがえるな。なにも見るな。奴隷たちはおのれに言い聞かせる。なにもかんがえるな。なにも見るな。正気を保っていたいのなら、なにも。
トビーの逃亡が発覚してから、おおよそ三日が経ったころ。奴隷たちは、熱っぽいことばを交わし合ったものだった。
ふつうなら、一日も保たずに捕まってしまうものが、二日目になっても、三日目になっても、捕まらない。奴隷狩人の手も、猟犬の牙も、トビーを引きずり出すことはできていない。
ひょっとして、と奴隷たちはささやいた。
トビーは、逃げおおせたのではないか。
トビーは、地下鉄道にめぐり会えたのではないか。
いまごろ、約束されたカナンの地で自由身分を手に入れ、なにものにも所有されない生活へ漕ぎ出したのではないか。
希望とともに、その名が語られた。
しかしいともたやすく、希望は打ち砕かれる。
いつものように。
集められた全員のまえに、トビーが引き出されてきたとき、奴隷たちのあいだには嘆息が広がった。漏れたため息は、しかしすぐに飲み込まれる。
旦那様は、みずからの財産が目減りしてもいい、と決めたのだ。
トビーは見せしめとなった。
いのちが傷つけられ、焼き尽くされ、絶望と悲嘆の声が農場の隅まで響きわたった。
並べられたおまえたちは、あいだに控えた奴隷監視人たちが目を光らせているせいで、目を逸らすことも、耳を塞ぐこともできず、トビーの死を見守った。
グレイスよ。
おまえも見たのだ。
死にゆく仲間のすがたに、将来のじぶんを重ね合わせずにいることなど、おまえたちの誰にもできはしない。だからおまえも、磔にされたおまえを、見たのだ。逃亡を企てた末路を、夢を見た挙句の罰を、自由を願うことの罪深さを、味わったのだ。
舌の上にいまでも残る苦味は、そういうものだった。
だからおまえは、斧を振るっている。
腐りゆくトビーから目を背けながら。
夢見ることを遠ざけながら。
なにも見るな。
なにも考えるな。
こーん、こーん、こーん。
こーん、こーん、こーん。
ほおい。
馬蹄の音が響く。
あらわれたのは、流麗たる白馬だ。
うつくしい毛なみと、金のかかった装具を身につけ、堂々とした闊歩ですすみ出でてくる。馬なりに、おまえたちのごとき奴隷たちよりもよほど珍重がられていると、解しているのだろう。まなざしには自尊がふくまれている。
白馬にまたがるのは、旦那さまだ。
愛馬に負けず劣らず、肌が白い。飽食と贅沢によって磨かれた肌だ。なかにはみっちりと肉が詰まっていて、どこを触れてもはね返しそうだ。
しかし露出はきわめてすくない。五月のじっとりとした気温のなかであっても、幾重にも重ねられたやわらかな生地にからだを包み、錦糸銀糸にいろどられた装飾で見るものの目をくらませている。
これぞ、天人。
白い肌と天与の権利をもち、数多くの洞人たちを所有する、生まれついての支配者階級。
南部を支配する、いと貴き、青い血の持ち主。
その顔は、満足にかがやいている。
おのれの築きあげたものを眺める、経営者のまなざし。地平までを埋め尽くす奴隷たちの機械的労働によって、じぶんの財布がすこしずつ重たくなってゆく感覚を、心ゆくまで愉しんでいる面差しだ。
ただし、これはおまえの見てとったものではない。
おまえは、ちらりと目を向けただけで、すぐに顔を伏せている。視線を向けるような不遜を、奴隷監視人は許さない。旦那さまのすがたを見つめるような背徳行為には、かならず鞭が待ち受けている。
なにも見るな。
なにもかんがえるな。
こーん、こーん、こーん。
こーん、こーん、こーん。
ほおい。
「旦那さま!」
喜色をほとばしらせるような声で、奴隷監視人が叫ぶ。
「わざわざこんなところまで……先にお教えくだされば、お迎えをやりましたものを!」
媚びがたっぷりとふくまれた口調に、旦那さまは倦んだように鼻息を鳴らした。
「御身みずから、奴隷どもの働きをお確かめに?」
「いいや。私のこどもたちは、しっかりやってくれておるだろう? そのために、おまえを雇っておるのだ」
南部貴族らしい、たっぷりと間をとる、きどった抑揚。
「もちろんにございます、旦那さま」
へつらいに満ちた、奴隷監視人の声色。
あれほど権勢と鞭をひけらかす奴隷監視人といえど、身分は雇われ人にすぎない。自前の土地や奴隷を持つことなどとうていかなわない、貧乏天人。
おまえのような洞人と、さしたる差はないのだ、実のところ。
「それよりもな、私は教育に来たのだ」
「教育、とおっしゃいますと?」
「よく考えてみればな、きのうのあのすばらしい教訓的なできごとを、屋敷づとめの奴隷どもには見せてやっておらなんだ。これでは、からだを張ってくれたトビーも浮かばれない」
「なるほど。それできょうは、全員を連れておいでなのですな」
おまえは顔をあげた。
馬にまたがったままに監視人と語らう旦那さまのうしろに、ずらりと奴隷たちがならんでいる。
お屋敷づとめの、きれいに着飾った、使用人たち。
そのなかにはもちろん――
「お母さん」




