023 罪
ごりごりと、背中に当たる石の感触に、目を覚ました。
おまえは、川岸へと流れついていた。
からだはかんぜんに冷え切っている。全身にくまなく痛みがあり、身じろぎひとつするだけで、それらが骨を突き刺してくる。陽が高かった。周囲に樹々はなく、風がつめたい。
四つん這いになった。
よろめくようにして、おまえは樹のあいだへと這いずっていく。
ひどい怪我は、ないようだった。
いくつかの骨にひびは入っているかもしれないが、それだけだ。すぐに死ぬことはない。
それでも、傷を負っていない箇所はなかったし、打撲による内出血とすり切れた傷とで、皮膚はまだらになっている。首尾よく治ったとしても、だれもが目を背けるような痕が残るだろう。もうだれのまえにも、裸をさらすことはできなくなるだろう。
どうでもよかった。
もう、どうでも。
おまえは、さいごの瞬間を思い描いた。
あのときの内臓が浮き上がるような感覚を、メアリーのほほえみを、その胸に突き刺さる刃のきらめきを、思いかえしていた。
なぜ。
なぜあのとき、あそこにいたのはじぶんではなかったのか。
メアリーを救えて死ねたなら、こんなきぶんになることはなかっただろう。
神さまを呪っても、じぶんを呪うことなどなかったはずだ。
死にたいとすら、思えなかった。
すべての欲求が絶えているようだった。
おまえは横たわった。
倒れた枯木を枕にして、樹々のすきまから、空を眺めた。逃亡生活がはじまってから、数百回もそうしたように。やがて、肌のうえを、数匹の蟻が這いのぼってくる感覚があった。おまえはそちらに目を向けた。蟻たちはきょろきょろと黒い肌のうえを這い回りながら、いまじぶんの下にあるのが地面なのか、それともおおきなごちそうなのか、確かめるのに余念がなかった。
手を出して、払いのけていいものか、迷った。
蟻の餌になるのが、似合いの結末かもしれないと、思った。
しかし、だめだった。
うすく開いた口のなかに蟻がはいったしゅんかん、おまえは、舌のうえに残るそれを、噛みつぶしていた。酸っぱい味が、口のなかに広がる。
からだが、生きようとしていた。
おまえのこころなど置き去りにして、ただ、生きようとしていた。
立ち上がった。
きゅうな動きに泡を食ったように、残る蟻たちが地面を逃げまどっている。
おまえはけものの無表情で、それを眺めた。
もはや、こころを機能させることはやめていた。
おまえは手をだらりと垂らしたまま、前傾姿勢で、歩みをはじめていた。空を見上げることはなかった。日が暮れるのを、待つこともしなかった。北を目指すことすら、忘れていた。
目的もなく、歩いた。
樹をよけ、草を踏み、枝をかいくぐって、歩いた。おまえは気づいていなかったが、その足が、しぜんと踏み固められたけもの道をとおっている。理性がはたらいていれば、そういうけもの道は避けただろう。獲物を追う狩人たちも、そういった道をいくからだ。しかし、おまえには関わり合いのないことだった。いのちを保とうとする本能だけが、おまえを突き動かしていた。
樹々を抜けた。
草原を歩いていく。やがて道が生じて、柵が張りめぐらされ、整地された畑へと踏み入っていた。あれほど避けていた人里に、むぞうさに、立ち入っていた。
人家を見た。
ちいさな家だ。
おまえは吸い寄せられるようにそちらへ向かった。
「そんなところにいたのか! おとなしくこっちへ来い!」
大喝がひびいた。
おまえは無表情のままに振り向いた。おまえを呼んだのではなかった。家からすこし離れた場所で、樽のあいだに身を潜めていた洞人の少年が、天人の農夫に引きずりだされているのだった。まだ、七歳にも満たないであろう、ちっぽけな子供だ。農夫はシャツの腕をまくり、毛むくじゃらの上腕をあらわにして、少年の首根っこを掴み上げていた。
「嫌ですだ、旦那さま!」
少年が泣き叫んでいた。
「殺すのはやめてください! おらは――」
「だめだ! 早く来い!」
怒鳴りかえす農夫の手に、おおきな斧が握られているのを、見た。
おまえのなかに、閃光がよぎった。
トビーの苦悶のままに事切れた表情が、旦那さまの酷薄な笑みが、奴隷追跡人の怒鳴り声が、中年女の金切り声が、頭のなかで弾けていた。
――殺せ!
――はやく殺して!
――汚らしい泥んぼが!
農夫は、少年を引きずるようにして、暗い物置へと消えていった。
おまえは、後を追った。
切り株に突き刺さったままの手斧を、そっと、抜き取りながら。理性がかんぜんに戻ってきていた。おまえは冷え切った頭で、ただ、成すべきことを成さねば、と思った。
物置のなかは、想像よりも暗かった。
少年の泣き声が、しゃくり上げるようにひびいている。絶望の声を覆いかくすように、農夫が、こちらに背中を向けている。しのびよる逃亡奴隷には、気づく気配さえない。農夫は斧をにぎり直している。もはや、一刻の猶予もない。
ためらわなかった。
おまえは、手斧を振りかぶり、農夫の頭にいきおいよく叩きつけた。
暗い物置のなかで、熱い液体が噴き出した。
壁をよごし、おまえの顔に掛かった。農夫のからだがまだ動いているのを見て、二度、三度と、斧を叩きつけた。ぐしゃり、ぐしゃりと頭蓋骨がくだけ、噴出する血のなかに、どろりとした脳のかけらが混じった。
「あ、ああああ、あああ、ああああああああ!」
断続的な悲鳴をあげる少年の、手を取った。
手斧は捨てていこうとしても、手から剥がれなかった。
片手に手斧を、片手に少年を掴み、物置を出た。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから。だいじょうぶ。身を守るためだったから。しかたないの。これは罪ではないの。だいじょうぶ。だいじょうぶ、わたしが守るから」
うわごとのようにくりかえすおまえの手が、振りはらわれた。
「旦那さま」
少年が、泣きながら主人の死体へと駆け寄っていくのを、おまえは見た。
「旦那さま、旦那さまあ。ああ、ああああああ、ああ、あああああ」
振りはらわれた手を、返り血で赤く染まった手のひらを、おまえは見つめた。
分からなかった。
どうして振りはらわれたのか、分からない。どうしてあんな天人なんかにすがりついて泣くのか、分からない。どうしてわたしを拒絶するのか、分からない。
「……あなたも、天人なの?」
ならば、殺さなくては。
しぜんと浮かんだ選択肢とともに、おまえは手斧をにぎり直した。
「違うよお、違うよお、おらは洞人だよお。なんで、なんでだよお、なんで旦那さまを、あああ、あ、あああああ、ああ」
「なら、どうして? 殺されそうになったくせに、どうして――」
「豚だよお!」
少年が、物置の奥を、指さす。
足を縛られ、渡した竿のあいだに吊るされた仔豚が、そこにいた。
下には、血を受けるためのバケツが置かれ、農夫の持っていた斧が、その傍らに落ちている。それらが、じわじわと広がってゆく血だまりに、飲み込まれようとしていた。
ぶう、ぶう。
仔豚が鳴いた。なにも理解せずに、ただ吊るされていることをいやがるように。
「――あ」
おまえは、悟った。
仔豚を、つぶそうとしていただけだったのだ。
それを、この少年が嫌がっていたのだ。きっと、かわいがっていた仔豚だったのだろう。みずからの手でつぶさせようとしたか、どういうふうに肉にするのかを、見届けさせようとしたのだろう。農家では、あたりまえの教育を、少年に施そうとしていたのだ。ただそれだけだったのだ。この、農夫は。
「――あ、ぁ、あ……」
震える手で、手斧を見つめた。
おのれの、返り血にまみれたからだを、見下ろした。
誤解だった。
誤解で、おまえは殺した。
罪のないひとを、殺したのだ。
一歩。二歩。
おまえは後ずさる。
愛する主人を殺されて泣きわめく、無垢な少年を、見つめながら。その光景を、だんだんと遠ざけていきながら。
「ルディから、離れて!」
裏返った少女の声に、おまえは振り向いた。
この農家の娘とおぼしき赤毛の天人少女が、立っていた。
涙をにじませながら、まなじりを決して、こちらにピッチフォークの歯を向けている。農具の先が震えて、ぱらぱらと数本の干し草が落ちてきている。
「ルディから、離れて」
歯を鳴らしながら、少女はくりかえす。
「いますぐに、ゆっくりと、離れなさい」
「お嬢さま、だめだよお! 危ねえよお」
ルディがいっそう泣き声を大きくして、言う。
「黙ってて!」
赤毛の少女が、少年へと叫ぶ。
すぐに少女はおまえに向き直り、ピッチフォークの歯をさらにまえへと突き出した。
「私の弟は、殺させない!」
ああ、とおまえは思う。
わたしは、かんぜんに、かんぺきに、なにもかもを、間違っていたのだ。
きびすを返し、走り去った。
背中で「お父さま、お父さまあ」と泣く声と、「旦那さま、お嬢さまあ」と泣く声とが、重なった。いままで聞いた声のなかで、いちばん、忘れられない声になるだろうと、思った。
おまえは走った。
罪を負うたまま。




