022 ふたつの魂
「――え?」
狂おしいほどに長い時間を経て、ようやく、メアリーはそう返した。
許しを得たように、告白をつづけた。
「わたしは、主人を殺そうとした。
母を殺されたの。わたしは犯されたの。
世界でもっとも残酷な背教行為を、わたしに強いたの。
だから、殺してやろうとした。
手斧を使って、股ぐらを切り飛ばして、みっともなく、豚みたいに鳴かせてやった。そのあと、喉を切り裂こうとした。血があんまりに多くて、手がぬめってしまったから、その先はできなかったけれど」
「そ、んな……」
「……知られたく、なかった」
その先のことばは、どうしても言い訳じみた。
「あなたには、あなたにだけは、知られたくなかったの。
わたしの手が血塗られてるってことを。わたしが穢れてるってことを。
……言えなかった。あなたが、」
──天使みたいに、見えたから。
ほんとうは、とおまえは思う。
触れることなど、許されなかったのだ。穢れた手で、地獄に堕ちるべきさだめを持った唇で、天使に触れていいはずがなかったのだ。
なにを、履き違えていたのだろう。
なにを、勘違いしてしまったのだろう。
「KKKは、だからわたしを追ってきた。
わたしのことを、天人を傷つけた凶悪な逃亡奴隷を、捕まえにきたんだ。
ほんとうに、ごめんなさい。
あなたたちの人生を、台無しにしてしまった。災いを、呼び込んでしまった」
メアリーは、震えていた。
両の腕でみずからを抱きすくめるように、ふいに凍えてしまったように、黙って、震えつづけていた。
手を、伸ばせなかった。
許されない、と思った。おだやかな生活をまるごと壊しておきながら、同じ手で、彼女の肩を引き寄せることなど、許されない。
「……どうして?」
もう何度めか知れない問いを、メアリーがつぶやいた。
「どうしてなの? どうして、言ってくれなかったの? 事前に教えてくれなかったの? KKKが追ってきてるって分かってたんなら、なにか対策が打てたはずなのに、どうして──」
「確信があったわけじゃない!」
おまえは、声を張り上げていた。
「わたしだって、認めたくなかった! 考えたくなかった!
……じぶんの名前が、ほんとうに、KKKの名簿に載ってるだなんて……一生……もう二度と……ひぐ……っ……自由を……夢見ちゃいけないだなんて……。
まともに生きることを、諦めなきゃ……っ……ならないなんて……」
そんなはずがないと、思い込もうとしていた。
ここまで来たのに、せっかく生き延びてきたのに、その果てが、絶望の袋小路だなんて、信じたくなかった。
だから、ごまかしたのだ。
じぶんを、ごまかした。
嘘をついたのだ。
そうでもしないと、走れなかったから。にせものであっても、まぼろしだと分かっていても、まえに光が見えているのだと、希望がまだあるのだと、みずからに言い聞かせていなければ。
あれ以上、一歩も進めなかったのだ。
「でも──違ったね」
じぶんに、手つかずの自由なんて、残されていなかった。
じぶんに、希望に満ちた未来なんて、残されていなかったのだ。
あの日──手斧をスカートの裾に隠して、旦那さまの寝室を訪ねたあの日に、人生は、閉ざされていたのだ。
「どうして……」
今度は、おまえが問う番だった。
天を仰ぎ、神さまに向かって、おまえは問うた。
わたしのいのちに、祝福なんてなかったじゃないか。
生まれ落ちたときから、ずっと、呪われていたじゃないか。
暴力と搾取の証として孕まれ、だれにも望まれることもなく生を享け、あたりまえの幸せを奪われ、最低限の尊厳さえも、踏みにじられた。信じてきたものがすべて嘘だったと知らされ、嘲笑われ、血を浴びた。犬をけしかけられ、火を放たれ、人に裏切られた。走って、走って、走って、走って……その挙句が、この結末だなんて──
「こんなことなら、わたし──
生まれなければ、よかったのに──」
慟哭が、ほとばしりかけた、そのときだった。
「──あ、」
きつく、きつく。
おまえは、抱きしめられていた。
なにも、ことばはなかった。しがみつくみたいな強さであったのに、抱かれているのだと、おまえには分かった。おまえは目を閉じて、伝わってくる熱を、鼓動を、ただ感じた。おまえはあたためられていた。いのちに、あたためられていた。
そっと、メアリーの顔をうかがった。
蒼白のままだった。
天使なんかじゃ、なかった。
聖母なんかじゃ、なかった。
おなじように傷ついた少女の魂が、おまえの魂を、まるごと抱きとめているのだった。
ひとりでは、立っていられなかった。ふたりが寄り添っているから、かろうじて、立っていられた。
幸福など、感じなかった。
ただ、こうしていないと生きていられないと、感じた。
「メアリー」
いっしょに、逃げよう。
そうして、生きていこう。ふたりで。ふたりだけで。
そう、言いかけたときだった。
「見つけたぞ、グレイスッ!」
樹々のあいだから、奇声とともに、男が飛びかかってきていた。白衣の裾がひるがえり、覆面のなかから充血しきった目玉が見えた。しゅんかん、おまえのからだは衝撃とともに浮遊感に包まれていた。
空中にいた。
おまえは見た。
じぶんを突きとばしたメアリーを、その胸へと吸い込まれていく刃の切っ先を。
メアリーは、ほほえんだ──ように、見えた。
おまえの全身に、遅れて打撲が叩きこまれていく。幾重にも擦過傷をつくり、平衡感覚をぐしゃぐしゃにへし折っていきながら、おまえのからだは転がっていった。
崖の下へと。
メアリー。
メアリー。
どうして──。
さいごに水中に落ちるどぼんという音とともに、すべての音が消えた。おまえの視界も、真っ暗になっていた。




