表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖 絶 大 戦【第4章開幕】  作者: 木村太郎
Vol.1 The Exodus of Grace/恩寵

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/110

019 眠れない夜

 眠れなかった。


 夜のなかへ、おまえは歩き出していた。

 森をふらふらと歩き、ちいさな湖へとたどり着いていた。月や星を映しながらたゆたう湖面を、ただ、見つめていた。


 メアリーも、リーマスも、明日に備えて眠っている。いちばん体力を残しておかなければならないじぶんが、こんなところで体力を無駄づかいしていていいはずがない。

 分かっている。

 分かっているが、眠れないのだ。


 張り詰めているのではない。怯えているのでもない。逃亡生活が始まってはじめて、日中に移動をするというのに、そのことに対してはなんの感慨もない。じぶんの前途を、想像してみることさえ、おまえはしていない。


 ただ、ひとつの事実だけを、耐えがたく感じている。

 メアリーと、ここで別れなければならない、という事実を。


 とうぜんのことなのだ。

 おまえは逃亡奴隷で、メアリーは自由洞人フリードワーフなのだから。おまえたちは、ここで別れなければならない。おまえは北への、自由への道程を突き進まねばならないし、メアリーはここに祖父と残って、じぶんの人生を送らなければならない。

 とうぜんのことなのだと、理性では分かっていた。

 感情は、納得していない。


 出会って一週間しか、経っていない。

 しかし、この一週間で、おまえはつくり変えられてしまったのだ。いっしょに過ごす時間の、一瞬一瞬が、おまえを生まれ変わらせてしまったのだ。もはや、おまえには想像ができない。メアリーと離れて暮らす日々を、想像さえできない。

 あの瞳を、見られなくなる。

 あの声を、聞けなくなる。

 あの手に、触れられなくなる。

 そう考えただけで、おまえは引き絞られて、死んでしまいそうになる。


 こんな感情に取り憑かれるのは、生まれてはじめてのことだった。


 残ってしまおうか、とおまえは思う。

 いっそ、このままこの家に置いてほしいと、リーマスにお願いしてみたらどうだろうか。家事や畑仕事を担い、キルティングのつくろいを手伝って、メアリーの隣に座って生きていくことはできないだろうか。


 だめだ、とおまえは思う。

 自由身分証明書を持っていないのだから。なにかの拍子に、提示を求められた瞬間に、おまえの生活はすべて奪われる。じぶんが逃亡奴隷であったと露見すれば、それをかくまったせきを問われるのは、リーマスであり、メアリーだ。ふたりの人生までをも、台無しにしていいわけがない。


 では、とおまえは思う。

 諦めるのか。諦められるのか。人生でただひとつ、これほどまでに欲したものを、なげうつことができるのか。


 せめて。

 せめて、このきもちを、メアリーに知ってもらえたら。


 おまえはそう願う。

 メアリーといっしょに生きていくことはできない。でも、わたしの人生にとって、この一週間こそがすべてだったのだと、告げることができたら。この一週間を買うためなら、残りの人生すべてを捧げても惜しくはないのだと、分かってもらえたなら。

 いつか、空を見上げたときに、わたしのことを一瞬でも、思い返してもらえたなら。


 ああ、とおまえは思う。


 メアリーにとって、迷惑でしかなかったとしたら?

 わたしの感情を、清らかな友情というにはどろどろとしすぎている想いを、気味悪がられてしまったとしたら?

 嫌悪のまなざしを、向けられてしまったら?


 耐えられない。


 異常だということは、分かっている。

 こんな感情を寄せることじたい、間違っている。神さまはお許しにならない。自然に反している。そんなことは、とっくのとうに分かっている。

 

 でも。

 でも、メアリーには、そう思われたくない。


 きもちわるいやつ、ぶきみなやつと、思われたくない。わたしのことを思いかえしてくれるなら、清潔な思い出だけを、憶えていてもらいたい。この一週間を、なんてことないけど、心楽しかった時間だと、思い返してもらいたい。それでいい。それだけでいい。


 ほんとうに?

 ほんとうに、それだけでいいのか?


 黙れちくしょう、とおまえはじぶんに吐き捨てる。


 嫌に決まってる。

 ほんとうのわたしを、真実の思いを、受け入れてもらいたいに決まってる。私もそうだよって、実はそんなふうに思ってたのって、あなたと生きられるなら他になにも要らないって、ぜんぶ捨ててでも付いていくよって、言われたいに決まってる。


 愛してほしいに、決まってるだろうが。


「ちくしょう……」

 おまえはひとりごちる。湖面に映ったじぶんの歪んだ顔を、睨みつけながら。

「なんて、醜い……」


「それほどでも、ないと思うけど……?」


 返事があるとは思っていなかった。

 おまえは驚いて振り向く。メアリーがいた。フランネルの寝巻きの上に、ケープを羽織っている。寝台から這い出してきたばかりといったようすだ。

 

「グレイスは、可愛いと思うわ」

 断りもなく、メアリーはとなりに腰を下ろした。まっすぐにおまえの目を見つめて、真剣な面持ちでつづける。

「たしかに、ちょっと痩せすぎているかもしれないけど、でも、綺麗だわ。もっと豚肉を食べれば、肉付きもよくなるし、ほっぺたも丸くなるはず。

 私は、ちょっと丸すぎるけどね」

「そんなことない!」


 大きな声を出してしまったことに、おまえはじぶんでも驚く。


「……メアリーは、綺麗。すっごく」


 恥ずかしさに付け足したことばが、もっと恥ずかしいと気づいた。おまえは打つ手もなく、ただ黙り込む。

 メアリーはそんなおまえを見て、ちいさくほほえむ。


「ありがとう、グレイス。……眠れないの?」

「うん」

「じつは、私も」


 照れたように、メアリーは笑った。


「私ね。じつを言うと、はじめてなの。こうして、お祖父さまといっしょに地下鉄道ザ・レイルロードの仕事で、乗客のひとと会うのは。だから、ずっと緊張してたの」

「そうなの? ……見えなかった」

「へへ、それならよかった。うんと準備したんだもの。頭のなかで、たくさん想像して、練習をくりかえして。でも、はじめて迎える乗客が、あなたみたいな女の子だなんて。びっくりしたわ。私よりも小さいだなんて」

「……小さくは、ないよ」


 すこしだけむっとして、おまえは反論した。


「あはは、ごめんなさい。

 ……でも私、逃亡奴隷って、みんな男のひとだと勝手に思ってたの。農場や鉱山から逃げてくるんだから、きっと、屈強な筋肉を持った男のひとが、はだか同然の恰好でやってくるんだって思ってた。決めつけてたのね」

「……そういうひとがよかった?」

「まさか。そういうひとだったら、私、怖がらずにお世話できたか怪しいものだわ。はじめてが、あなたでよかった」


 あなたでよかった。

 そのことばに、深い意味がないのだとは、分かっている。分かってはいても、胸に広がる喜びを抑えることは、できなかった。救いようもないほど、じぶんは単純な生きものになってしまっているらしい。おまえは苦笑いをした。


「私ね。

 あの日、物音に気がついて扉を開けるまえ……すごく、どきどきしたの。

 いよいよ来たって。どんなひとなんだろうって。

 逃亡奴隷のこと、どこか、英雄みたいに思ってたのね。たったひとりで、着の身着のまま、自由を目指して逃げてくるだなんて、かっこいい、って思ってたの。

 でも、扉を開けたとき。

 私、ほんとうにじぶんが恥ずかしかったの」

「恥ずかしい?」

「だって、あなたは痩せて、ぼろぼろで、ひどく飢えて、ひどく疲れて、そのまま死んでしまいそうで。

 ……逃げてくるって、こういうことなんだって、はじめて気づいたの」


 メアリーが、湖面を見つめる。


「すべてを捨ててくるっていうのがどういうことなのか。ひとに追われながら、ぎりぎりで命をつないでくるっていうのが、どういうことなのか。私には分かってなかったのよ。

 生まれながらに自由身分で、お祖父さまといっしょに暮らすことができて。

 じぶんがいかに恵まれていて、甘やかされていたのかを、あなたのすがたに突きつけられたの」


 湖面に映るメアリーの顔を、おまえも眺めた。


「私、なにを浮かれてたんだろうって。ほんとうに、じぶんが恥ずかしくて。

 それから、すぐに怖くなった。

 あなたはこのまま、死んでしまうんじゃないかって。わたしの目のまえで、命をうしなってしまうんじゃないかって。おかしな話よね。ひとの命を助けるつもりでいたくせに、ひとの死を看取る可能性なんて、想像さえしてなかったの。じぶんの手当てや看病の手際のせいで、ひとを死なせてしまうかもしれないだなんて。

 汗を拭いて、傷に薬を塗って、清潔な服に着替えさせて……。けっきょく、わたしはそれぐらいのことしか、できなかったの。

 怖くて怖くて、眠れなかった。

 なんにもできないくせに、ずっと、あなたの隣で起きてたの」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ