019 眠れない夜
眠れなかった。
夜のなかへ、おまえは歩き出していた。
森をふらふらと歩き、ちいさな湖へとたどり着いていた。月や星を映しながらたゆたう湖面を、ただ、見つめていた。
メアリーも、リーマスも、明日に備えて眠っている。いちばん体力を残しておかなければならないじぶんが、こんなところで体力を無駄づかいしていていいはずがない。
分かっている。
分かっているが、眠れないのだ。
張り詰めているのではない。怯えているのでもない。逃亡生活が始まってはじめて、日中に移動をするというのに、そのことに対してはなんの感慨もない。じぶんの前途を、想像してみることさえ、おまえはしていない。
ただ、ひとつの事実だけを、耐えがたく感じている。
メアリーと、ここで別れなければならない、という事実を。
とうぜんのことなのだ。
おまえは逃亡奴隷で、メアリーは自由洞人なのだから。おまえたちは、ここで別れなければならない。おまえは北への、自由への道程を突き進まねばならないし、メアリーはここに祖父と残って、じぶんの人生を送らなければならない。
とうぜんのことなのだと、理性では分かっていた。
感情は、納得していない。
出会って一週間しか、経っていない。
しかし、この一週間で、おまえはつくり変えられてしまったのだ。いっしょに過ごす時間の、一瞬一瞬が、おまえを生まれ変わらせてしまったのだ。もはや、おまえには想像ができない。メアリーと離れて暮らす日々を、想像さえできない。
あの瞳を、見られなくなる。
あの声を、聞けなくなる。
あの手に、触れられなくなる。
そう考えただけで、おまえは引き絞られて、死んでしまいそうになる。
こんな感情に取り憑かれるのは、生まれてはじめてのことだった。
残ってしまおうか、とおまえは思う。
いっそ、このままこの家に置いてほしいと、リーマスにお願いしてみたらどうだろうか。家事や畑仕事を担い、キルティングの繕いを手伝って、メアリーの隣に座って生きていくことはできないだろうか。
だめだ、とおまえは思う。
自由身分証明書を持っていないのだから。なにかの拍子に、提示を求められた瞬間に、おまえの生活はすべて奪われる。じぶんが逃亡奴隷であったと露見すれば、それを匿った責を問われるのは、リーマスであり、メアリーだ。ふたりの人生までをも、台無しにしていいわけがない。
では、とおまえは思う。
諦めるのか。諦められるのか。人生でただひとつ、これほどまでに欲したものを、なげうつことができるのか。
せめて。
せめて、このきもちを、メアリーに知ってもらえたら。
おまえはそう願う。
メアリーといっしょに生きていくことはできない。でも、わたしの人生にとって、この一週間こそがすべてだったのだと、告げることができたら。この一週間を買うためなら、残りの人生すべてを捧げても惜しくはないのだと、分かってもらえたなら。
いつか、空を見上げたときに、わたしのことを一瞬でも、思い返してもらえたなら。
ああ、とおまえは思う。
メアリーにとって、迷惑でしかなかったとしたら?
わたしの感情を、清らかな友情というにはどろどろとしすぎている想いを、気味悪がられてしまったとしたら?
嫌悪のまなざしを、向けられてしまったら?
耐えられない。
異常だということは、分かっている。
こんな感情を寄せることじたい、間違っている。神さまはお許しにならない。自然に反している。そんなことは、とっくのとうに分かっている。
でも。
でも、メアリーには、そう思われたくない。
きもちわるいやつ、ぶきみなやつと、思われたくない。わたしのことを思いかえしてくれるなら、清潔な思い出だけを、憶えていてもらいたい。この一週間を、なんてことないけど、心楽しかった時間だと、思い返してもらいたい。それでいい。それだけでいい。
ほんとうに?
ほんとうに、それだけでいいのか?
黙れちくしょう、とおまえはじぶんに吐き捨てる。
嫌に決まってる。
ほんとうのわたしを、真実の思いを、受け入れてもらいたいに決まってる。私もそうだよって、実はそんなふうに思ってたのって、あなたと生きられるなら他になにも要らないって、ぜんぶ捨ててでも付いていくよって、言われたいに決まってる。
愛してほしいに、決まってるだろうが。
「ちくしょう……」
おまえはひとりごちる。湖面に映ったじぶんの歪んだ顔を、睨みつけながら。
「なんて、醜い……」
「それほどでも、ないと思うけど……?」
返事があるとは思っていなかった。
おまえは驚いて振り向く。メアリーがいた。フランネルの寝巻きの上に、ケープを羽織っている。寝台から這い出してきたばかりといったようすだ。
「グレイスは、可愛いと思うわ」
断りもなく、メアリーはとなりに腰を下ろした。まっすぐにおまえの目を見つめて、真剣な面持ちでつづける。
「たしかに、ちょっと痩せすぎているかもしれないけど、でも、綺麗だわ。もっと豚肉を食べれば、肉付きもよくなるし、ほっぺたも丸くなるはず。
私は、ちょっと丸すぎるけどね」
「そんなことない!」
大きな声を出してしまったことに、おまえはじぶんでも驚く。
「……メアリーは、綺麗。すっごく」
恥ずかしさに付け足したことばが、もっと恥ずかしいと気づいた。おまえは打つ手もなく、ただ黙り込む。
メアリーはそんなおまえを見て、ちいさくほほえむ。
「ありがとう、グレイス。……眠れないの?」
「うん」
「じつは、私も」
照れたように、メアリーは笑った。
「私ね。じつを言うと、はじめてなの。こうして、お祖父さまといっしょに地下鉄道の仕事で、乗客のひとと会うのは。だから、ずっと緊張してたの」
「そうなの? ……見えなかった」
「へへ、それならよかった。うんと準備したんだもの。頭のなかで、たくさん想像して、練習をくりかえして。でも、はじめて迎える乗客が、あなたみたいな女の子だなんて。びっくりしたわ。私よりも小さいだなんて」
「……小さくは、ないよ」
すこしだけむっとして、おまえは反論した。
「あはは、ごめんなさい。
……でも私、逃亡奴隷って、みんな男のひとだと勝手に思ってたの。農場や鉱山から逃げてくるんだから、きっと、屈強な筋肉を持った男のひとが、はだか同然の恰好でやってくるんだって思ってた。決めつけてたのね」
「……そういうひとがよかった?」
「まさか。そういうひとだったら、私、怖がらずにお世話できたか怪しいものだわ。はじめてが、あなたでよかった」
あなたでよかった。
そのことばに、深い意味がないのだとは、分かっている。分かってはいても、胸に広がる喜びを抑えることは、できなかった。救いようもないほど、じぶんは単純な生きものになってしまっているらしい。おまえは苦笑いをした。
「私ね。
あの日、物音に気がついて扉を開けるまえ……すごく、どきどきしたの。
いよいよ来たって。どんなひとなんだろうって。
逃亡奴隷のこと、どこか、英雄みたいに思ってたのね。たったひとりで、着の身着のまま、自由を目指して逃げてくるだなんて、かっこいい、って思ってたの。
でも、扉を開けたとき。
私、ほんとうにじぶんが恥ずかしかったの」
「恥ずかしい?」
「だって、あなたは痩せて、ぼろぼろで、ひどく飢えて、ひどく疲れて、そのまま死んでしまいそうで。
……逃げてくるって、こういうことなんだって、はじめて気づいたの」
メアリーが、湖面を見つめる。
「すべてを捨ててくるっていうのがどういうことなのか。ひとに追われながら、ぎりぎりで命をつないでくるっていうのが、どういうことなのか。私には分かってなかったのよ。
生まれながらに自由身分で、お祖父さまといっしょに暮らすことができて。
じぶんがいかに恵まれていて、甘やかされていたのかを、あなたのすがたに突きつけられたの」
湖面に映るメアリーの顔を、おまえも眺めた。
「私、なにを浮かれてたんだろうって。ほんとうに、じぶんが恥ずかしくて。
それから、すぐに怖くなった。
あなたはこのまま、死んでしまうんじゃないかって。わたしの目のまえで、命をうしなってしまうんじゃないかって。おかしな話よね。ひとの命を助けるつもりでいたくせに、ひとの死を看取る可能性なんて、想像さえしてなかったの。じぶんの手当てや看病の手際のせいで、ひとを死なせてしまうかもしれないだなんて。
汗を拭いて、傷に薬を塗って、清潔な服に着替えさせて……。けっきょく、わたしはそれぐらいのことしか、できなかったの。
怖くて怖くて、眠れなかった。
なんにもできないくせに、ずっと、あなたの隣で起きてたの」




