018 終着駅の名は
おだやかな数日を過ごした。
信じられないほど、ゆるやかに時間が流れた。逃亡生活においては、時間は異常な濃密さと、狂おしいほどの希薄さとの、いずれかでしか流れなかったのだ。この『駅』での生活は、どちらでもなかった。あたたかな毛布にくるまれているように、おまえは庇護されていた。これほど心を和らげた日々は、きっと、ものごころついてからはじめてのことだったろう。
仕事らしい仕事は与えられなかった。
とにかく眠り、食事の時間に起こされ、やさしく面倒を見られながら食べ終えると、また眠る。どうしても寝つけずもだえていると、メアリーが、まるで赤ん坊にするように、子守唄をうたい、胸を叩いてくれる。おまえは、あっけなく眠りに落ちてゆく。そうしてまた、食事の時間がくるのだ。
何日かが過ぎると、起きて、出あるくことを許された。とはいえ、かならずメアリーがかたわらに付き添って、人目のない散歩道を教えてくれるのだ。
メアリー。
わたしの天使。
おまえは、心のなかでメアリーをそう呼んでいた。
メアリーのうつくしさは、母のそれとは違った。母はそれこそ、母親めいた部分がなかったのだ。はかなげで、かよわく、従順で、抑制された色っぽさを持っていた。どこか、病的でもあった。
対して、メアリーのうつくしさには、内面のやさしさとすこやかさが充溢していた。メアリーの表情が翳ると、見るものの心も翳り、メアリーの顔にぱっと笑顔が射し込むと、見るものも思わず笑んでしまうような、共感を呼び込むものがあった。
おまえは、メアリーに手を支えられながら歩く散歩道を、なにも覚えはしなかった。
ずっと、顔を見ていた。
花を指さして名前を教えてくれる彼女の、樹の種類ごとの違いを語る彼女の、すきな季節やその理由について語る彼女の、顔を見ていた。声に聞き惚れていた。くるくると変わる表情と、声色と、仕草とを、ただ眺めていた。メアリーの指が花弁をそっと撫でるのを見るたび、おまえはじぶんの頬が撫でられたようなきぶんになって、背すじをぞくぞくと粟立たせた。
おまえの反応のわるさと、上気したままの頬を、メアリーは体調が快復しきっていない証拠と見た。散歩の途中にそうなっていることに気がつくと、メアリーは言うのだ。
「もう、今日はおしまいにしなくちゃ」
「そんな。……もうすこし」
「だめ。見てごらんなさい。こんなに熱が上がってきてるのよ」
おまえの額に、躊躇なく手のひらを当てる。
額と額とを、くっつける。
おまえは歓喜と恥ずかしさに、そのまま死んでしまいたくなる。
こうして、おまえはまともな思考能力を奪われ、メアリーに言われるがまま、寝台へとみちびかれるのだ。汗を拭かれ、ナイトキャップを被らされる。おまえは罪ぶかいおねだりを、おずおずと切り出す。メアリーはにっこりとほほえみ、その願いを叶える。
「いい子ね、グレイス」
子守唄が、うたわれる。
鼻すじを、なぞられる。
おまえのからだは、こうして、眠りへと手わたされる。
この日々が、とおまえは願う。
一日でも長く、つづきますように。
*
一週間が、経っていた。
おまえのからだはすっかり快復を遂げていた。こけた頬がもどり、血が足りなくて白みがかっていた肌が、きれいな褐色へと戻っていた。あいかわらず、体つきは貧相ではあったけれど、そちらはもともとだ。
出発の日が、近づいていた。
「いいかね、グレイス」
老人──名はリーマスと言った──は、馬小屋のかたわらに置いた荷馬車をまえに説明した。
「これが、わしらの列車だ。おまえは貨物として、地下鉄道であつかわれる。つまり──」
「身分証を持たない逃亡奴隷のことよ」
メアリーが後を引き取った。
「自由洞人は皆、身分証を持っているの。奴隷身分ではなく、自由身分であることの証。こういう書面ね」
メアリーが差し出した書類は、油を引いた紙でつくられていた。
おまえには判読しにくい流れる筆記体で、なにかが書かれている。指でなぞりながらなんとか、メアリーという文字を見つけ出すことだけはできた。
「身分証は常に持ち歩き、保安官や行政担当者の要請があればすぐに見せること。……それを条件に、自由洞人は自由身分を認められているの」
「裏を返せば、身分証を持たない洞人は、すぐさま逃亡奴隷の嫌疑をかけられて連れてゆかれる。どれほどきれいな恰好をしていようと、言い訳はできん」
「なるほど」
おまえがうなずく。
「身分証を持っていないから、逃亡奴隷はすがたを見せることができない。それで、貨物になるんですね」
「理解が早くて助かる。で、こいつだ」
リーマスが荷馬車を叩く。
木を組み合わせてつくられた簡素な一頭建の馬車だ。いちおう幌は設けられていて、御者ともうひとりが並んで座れるほどの箱型の座席が用意されている。
老人は座席に手をかけた。
長椅子のかたちをしていたそれの座面が、蓋のように開かれる。内部には、洞人なら大人であっても横たわれるだけの空間があった。
「乗せてゆくのが貨物となれば、ふつうの座席には座らせられん。そこで、こういうものを使うことになる。いわゆる、『隠し』だな。
しかしこれじゃあ、百戦錬磨の検問は通過できん。
あたりまえの荷馬車であっても、このぐらいの『隠し』は用意されている。貴重品を入れるのにもってこいだからな。そこで、こうだ」
リーマスは、座席のなかに上半身を突っ込むと、底板を外してみせる。
よくよく見ると、底板には凹凸面が設けられ、固定できるようになっているらしい。リーマスに促され、おまえが底面を覗き込む。
おどろいた。そのなかにも、さらに空間があったのだ。
「どういうこと……?」
首をかしげるおまえを、老人とメアリーがくすくす笑いながら見ている。
もう一度、おまえは横から荷馬車を眺める。やはり、二重底が用意できるほどの厚みがあるようには、見えない。
「かんたんな仕掛けなの」
メアリーが、リーマスから受け取った板を示してみせる。
「ほら、この板、片面が鏡になっているでしょう。これを隠しのなかに、斜めに入れるの。そうすると、上から覗き込んだ人は、座席の底面が見えているんだと思い込むけれど、じつは鏡に映った手前側の面を見せられていることになるの。
これで、板の裏側には誰にも見えない空間ができあがるってわけ」
「単純な仕組みだが、これがいちばん利く」
老人がにやりと笑う。
「ひとは、一度調べて『問題なし』と思ったところを、また調べたりはせんからな。少なくとも、毎日何台もの荷馬車を検めさせられている役人に、そこまで徹底した人間はいやせんよ。
この荷馬車は、こう見えて十八人もの逃亡奴隷を隠しおおせてきた。安心してかまわんぞ」
「全身がかちこちになるのだけは勘弁してね、グレイス」
メアリーが片眉を上げて苦笑する。
「なにせ、許された空間は『隠し』の半分になるのだもの。私がためしに横たわってみたときは、半時間もせずに音を上げてしまったわ」
「おまえは堪え性がなさすぎる」
リーマスの苦々しい口ぶりに、メアリーとおまえとは、顔を見合わせて吹き出した。
ひとしきり笑い終えると、メアリーは涙を拭って言う。
「そうだ。肝心なものを渡し忘れてたわ」
メアリーはエプロンのポケットから、一枚の硬貨を取り出す。
おまえの手を取ると、手のひらの中にその硬貨を握らせた。
ふしぎな硬貨だった。
真ん中に穴が空いていて、紐が通せるようになっている。値段を示す数字はどこにも刻印されておらず、表面はすべすべとしている。
「トークンだ」
老人が説明した。
「おまえが、地下鉄道の乗客名簿に名前が載ったことの証だよ。グレイス」
「出発は明日よ」
メアリーの顔つきが真剣になっていた。
「つぎの駅になるジェームス邸に連絡がついたの。これで、北への線路は敷かれたわ。私たちが責任を持って、届けます」
それからメアリーは、いたずらっぽく、笑ってみせた。
「──終着駅の名は、『自由』よ」




