017 駅
生きていた。
目を覚ましたとき、さいしょに頭にうかんだのは、そのことばだった。
おまえは寝台に寝かされていた。
暖炉の火が、おまえが見上げる天井にちらちらとゆらぐ影をつくっている。首をめぐらすと、別間になっていない台所に、洞人男性の背中が見えた。かなり年老いているらしく、髪色は灰で、うごきは緩慢だ。暖炉に向かってうずくまり、火に掛けた鍋をかきまぜている。
「目が覚めた?」
反対がわへと首を向けると、そこに娘がいた。
気をうしなうまえ、出会った娘だ。
どうやら顔をのぞき込まれていたらしい。声を掛けられるまで気が付かなかったことに、おまえの頬が熱くなる。よほど、気がゆるんでいるらしい。
「よかった」
娘が笑う。
「ほんとうに、死んでしまったかと思ったのよ」
花が咲いたようだった。
くろぐろとした肌に、まばゆいほどの白い歯が映えている。気絶するまえに抱いた印象は、けっしてまちがってはいなかった。……こんなにうつくしい女の子を、見たことがない。おまえはなんとなく気恥ずかしくなり、そっと目をそむけた。
じぶんのからだを見下ろす。
ぼろぼろになった衣服は脱がされ、垢じみた肌はきれいにぬぐわれている。
傷には包帯が巻いてあり、そのうえから、清潔な木綿の服が着せられていた。意匠は質素で、布地こそごわついてはいたが、ていねいに針が入れられている。この子の仕事だろうか、とおまえは思う。
「おお、目覚めたか」
老人も気づいてこちらへとやってくる。
「スープをつくったが、食べられそうかね?」
暖炉から運ばれてきた鍋のなかには、根菜とあばら肉のベーコンが浮かんだスープが、たっぷり四人分はつくられている。
ぎゅう、とおまえの胃袋が収縮した。
疲労で覆いかくされていた空腹が、ようやく鎌首をもたげてきたらしい。おまえは目を丸くする娘を見て、また頬が熱くなるのを感じた。
「ほっほ」
老人が目尻を下げた。
「その調子なら、だいじょうぶそうだな。いま、よそうからな」
寝台の脇に椅子を寄せてきたふたりと、スープをすすった。
おどろくほどお腹を減らしていたというのに、さいしょは胃が受け付けず、おどろいた。しばらく食べていないとそんなものだ、とほほえむ老人と、心配げに背中をさすってくる娘に、おまえは手をのばし、必死の思いでスープを飲みくだした。
二杯目をよそってもらうころには、まっとうな食欲がもどっていた。
「さて、」
食後のコーヒーでおまえが手のひらをあたためていると、老人が切り出した。
「おまえは、逃亡奴隷だろう? ……いやいや、そう緊張せんでもいい。通報したりするつもりはない。わしらは、自由洞人だが、べつに連合国に恩を受けているわけでもなんでもないからな。おまえがどういう経緯で農場を脱走してきたのか、くわしく問いただすつもりもないよ。安心しなさい」
おまえの肩に入ったちからが、すこし抜けた。
すくなくとも、このひとは洞人だ。おなじ種族なのだ。天人たちとは、違う。信じすぎるのは禁物だが、あまりに頑なにふるまうべきでもない。そう、思った。
「ただ、ひとつだけ、訊いておきたいことがある。
これからどうするか、という点だな」
「……ご迷惑をお掛けしたくはありません」
おまえはぽつりと言う。
「傷の手当をしていただいたこと、寝台で寝かせていただいたこと、食事をふるまっていただいたことは、ほんとうにありがとうございます。わたしは死にかけていました。感謝のことばもありません。
……ですが、お察しのとおり、わたしは逃亡奴隷です。
ここにとどまれば、あなたがたによけいなご迷惑をお掛けしてしまうかもしれません。わたしを招き入れたことで、危険がおよぶかもしれないのです。恩人の身を、危険にさらしたくはありません」
「そんな」
娘が言いかけたのをさえぎって、おまえはつづける。
「さいわい、いまは夜です。
日が出るまえに、わたしはここを離れます。……名前も名乗らず、きちんとしたお礼もせず出ていくことをお許しください。わたしについて、あなたがたは知らないほうがいいと思うのです。知らなければ、わたしの抱え込んだ問題に巻き込まれることもないと思うから」
「ふむ」
「勝手を言って、ほんとうにごめんなさい」
淡々と語るおまえを、どこか面白そうに、老人は眺めていた。娘がまじめな顔をして耳をかたむけているのとは、対照的である。
「それで、ゆくあてはあるのかね?」
「北へ行きます」
「それは、皆そうだろうよ。北を目指すのは、おなじだ。肝心なのは、北のどこを目指すかという点だよ。おまえに、頼れる人はおるのか? 身を寄せる当ては? 北部へ逃れたとして、どうやって生計を立ててゆく?」
「それは……」
「合衆国は、理想郷ではないのだよ」
打ち据えられたきぶんだった。
視線を合わせていられなくなり、目を落とす。
「合衆国に行ったところで、洞人の受ける扱いは変わらない。たしかに豊かな国ではあるんだろうが、だからといって、たったひとりの洞人娘が身ひとつで現れて食うに困らないほど、仕事があふれているわけじゃない。
……早晩、おまえはからだを売るようになるだろう」
「お祖父さま」
きびしくたしなめるような声を、娘が掛ける。
「ほんとうのことだ。この子は知っておく必要がある」
娘に言いかえすと、老人はつづける。
「わしらのような自由洞人が、どうして南部に残っているのか、かんがえてみたことがあるかね? 北部に逃れてどうにかなるものなら、わしらもいつまでも、こんな場所にはおらんさ。……うまくいかんのだ。ただ、向こうにゆくだけではな」
かえすことばが、なかった。
「いまから、農場に帰るという選択肢もある」
「それは」
「できないと言うのだろう? 皆そうだ。大なり小なり、理由を抱えて、奴隷はくびきを逃れてくる。奴隷暮らしは楽ではないが、それでも、命だけはつなぐことができるからな。犬に追われ、奴隷狩人に追われ……その恐怖に挑もうとするからには、奴隷でいられぬ理由はあるのだ。ひとそれぞれにな。
だがな。
逃げおおせた後のことを、考えていないものが多すぎる。農場の柵を飛び越えてしまえば、あとはどうにかなるだろうとしか、考えていないものがな。そういう洞人にとって、その先の人生はきびしいものになる。断言してもよい。奴隷をしていた頃より、よほど苛酷な生活になるぞ。
それを耐え忍ぶ覚悟がないなら……これから、保安官事務所に付き添おう。自首をすれば、逃亡奴隷も殺されることはない。鞭打ちを耐えれば、元の人生がとりもどせるだろう。どうだな?」
おまえは、口を開いた。
「わたしは、戻れません」
訥々と、語る。
「理由は言えません。ですが、わたしには戻った先の人生などありません」
戻れば間違いなく殺されるのだ、とは、言えなかった。
そういうことばを使えば、主人を殺そうとしたという大罪の存在に、この老人も気がつくだろう。おまえがどういう人間なのか、知れてしまう。老人に軽蔑されるのは仕方ないとしても、隣に座って心配そうなまなざしを向けてくれている娘に、この天使みたいな人に、侮蔑を向けられるのは、堪えられない。死んでしまう。そう、強く思った。
「戻るという選択肢は、だから、わたしにはありません」
「ふむ」
「どういうつらさに耐えることになるのか、わたしには分かりません。想像もできません。でも、戻れません。戻れない以上、それから先の人生に耐えるしかないのです。
北へ、ゆくしかないのです」
老人の顔も、娘の顔も、見ることはできなかった。
潮時だ、とおまえは思う。
「……しゃべりすぎました。
いろいろ、教えていただいてありがとうございます。すこし、心の準備をしておくようにいたします。そろそろ、わたしは出発しようと思います」
「そんな」
娘が止めようとするのを、手で制した。
「いいんです。おかげさまで、だいぶ、休めました」
おまえは寝台を立ち上がろうとする。
「そう急くな。話はまだ終わっておらん」
老人の声は、やさしい。しかし、有無を言わせない口調だった。
「座りなさい。老人は話し相手に飢えておるもんだ。もうすこし、付き合いなさい」
おまえは、従った。
寝台に座りなおし、もう一度老人の顔を見る。
「おまえの事情は、なんとなく分かった。北で、どれほどつらい目にあっても、耐え抜くしかないということもな。となればだな、つぎはわしらの方から提案をする番だ」
「……提案?」
「おまえは、車掌に認められたのだよ」
車掌。
あまりに聞き慣れない、意外なことばに、おまえは首をかしげた。
「さあて。久しぶりの乗客だぞ、メアリー。地図を出しとくれ」
「はい、お祖父さま」
指名を受けた娘──メアリーが、立ち上がり、壁に架けられたマリアさまの絵の額を外すと、そのなかから幾重にも折りたたまれた紙片を取り出す。
おまえがはじめて見る、それは連合国全体の地図だった。
色褪せた地図を、老人がおまえの寝台のうえに広げる。
「次の駅は、この点が打ってある箇所だ。駅同士の間隔はおおよそ二〇マイルていど。さほど遠くはないが、街道をゆく道になるから、ワゴンに乗せるしかないだろうな。せっかくの乗客に対して申し訳ないが、貨物になってもらうことになる。窮屈だが、我慢してもらうぞ」
「え……あの……」
「さあて、つぎはどこにいくかだな。目的がないなら、一度主要駅に行かせるほうがいいだろうな。となると……ジェームス邸か、フォード家か……」
「フォード家はだめです、お祖父さま。さいきんあの一帯の釘に破損が見受けられると報せが届いています」
「KKKか。連中め」
「あのっ!」
意を決して声を上げると、議論に熱中していた老人とメアリーが、こちらへと振り向く。
「おお、すまんすまん。こんな話はまだ気が早かったな。
どのみち体力の快復を数日は待たねばならんのだし、きょうはそろそろ寝なさい」
「いえ、そうではなくて! どういう……ことなのでしょう……?」
老人とメアリーが、顔を見合わせる。
「やはり」
「ええ、そうですね」
うなずき合うと、メアリーがおまえに振り返る。
「うすうす気づいてはいたけれど……あなた、分かってなかったのね。
ここが、どこなのか」
「え……」
「玄関のキルティングを、見なかったの?」
キルティング。
そういえば、そんなものがあった気がする。玄関口に架けられた複雑な編み布を見て、ここを洞人の家だと判断したような、覚えがある。
「見ておりながら、気づかれなんだか。うまく隠しすぎたな、メアリーや」
「気づかれないなら、失敗だわ」
メアリーは、むっと頬を膨らませる。
「あの『U』は、会心の出来だったのに」
『U』。
いま、そう言ったのか?
では、ここは──
「改めて、ようこそ」
老人が芝居がかったようすでお辞儀をしてみせる。
「地下鉄道の、駅へ」




