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聖 絶 大 戦【第4章開幕】  作者: 木村太郎
Vol.1 The Exodus of Grace/恩寵

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016 なだめるためのことば

 久しぶりの、人間らしい食べものだった。

 気が変わったと取り返されることをおそれるように、おまえは勢いよくパンを噛みちぎり、チーズを呑み込んでいった。喉に詰まったものを、コーヒーで流し込むと、ようやくひと心地がついた。


 目を上げる。

 中年女は、口もとのバンダナを下ろし、唇をひきむすんでおまえを見ていた。きびしくさえ見える表情が、おまえの視線に気が付くとふっと和らぐ。唇のはしに浮かんだものが、ほほえみにも見えた。


「足りなさそうだわね」


 おまえは、中年女を見つめた。

 なにかことばを返さなければ、と思うけれど、それよりも、この人はなにを考えているのだろうと探ることをやめられない。なぜ、じぶんに食べものを渡したのだろう。じぶんに筆杖ペンを向けないのだろう。


「いまはそれだけで我慢して。昼にはあたたかいシチューでもつくるから」

 中年女は笑う。

 細められた目からは、瞳の色をうかがい見ることができない。


「どこの農場から逃げてきたの? あなたの名前は?」

「……」


 口ごもった。

 旦那さまの名を告げれば、じぶんの正体が知れてしまう。じぶんの名前を告げるのなんて、もってのほかだ。このひとに、そこまで明かしていいものか分からない。悩んでいるうちに、中年女は手を振った。


「いいわ、言わなくて。

 よく考えたら、聞いてどうなるって話でもないわね。

 とにかく、あたしたちもこれ以上の面倒に巻き込まれるつもりはないわ。

 夜になるまでは、この納屋をつかっても構わない。主人は陽が落ちてしばらくしたころに帰ってくるから、それまでに出ていってくれれば、それでいい。

 ……主人は私と違って、泥んぼ(ディガー)を嫌っているから、説得したって無駄」

「……」

「どうせ、夜に走っているんでしょう? 逃亡奴隷はみんなそうするって聞いてるわ。

 うちではたらいている奴隷たちは、ご近所さんにも顔が知られているから、暗くなるまでは出ないほうがいいと思うのよ。顔が分からなくなるまではこの納屋で眠って、それから出ていくのがいいわ」

「……どうして?」

「ん?」


 おまえは、久しぶりにことばを形づくる唇を、また開いた。


「どうして、わたしを、助けてくださるんですか」

「どうしてって」

 中年女は、困ったような顔をする。そんなことを訊かれるとは思ってもみなかった、という顔だ。悩みながら鼻を乱暴にこすった。

「とくに意味はないわ。あんたはべつに性悪には見えないし、女の子だからね。

 というより、手助けをするつもりはないのよ。ただ夜になるまで納屋をつかうことに目をつむるっていうのと、昼食を分けてあげるってだけ。逃亡奴隷なんかに手を貸したなんて知れたら、うちの主人までもあの『地下鉄道アンダーグラウンド・レイルロード』の連中と同じ穴の狢だって思われちまう。そんなことは願い下げだからね。

 いいかい。もしあんたが運悪く捕まっても、あたしが手を貸したなんて、よけいなことを吹聴するでないよ」

「あ……」

「分かった?」

「分か……りました……」

「よし」


 中年女がたしかめるようにほほえんで、それから踵を返す。


「また、すこし寝てなさい。昼食はまた持ってくるから」

「あの!」

 おまえは中年女を呼び止める。


「ん? まだなにかあるのかい?」

「ありがとう、ございます……」


「あらまあ」

 中年女が目を丸くした。

「ちゃんとお礼を言う。うちの子にも、見習わせたいもんだわね」


「それと、」

「はいな」

「わたし、グレイスって言います」


 中年女は、すこしおどろいたようだった。

 しかしすぐに目を細めて、


「はいよ」


 と答えた。


 中年女が出ていくと、おまえはまた藁のなかへと突っ伏した。

 心地がよかった。久しぶりに、不安を感じるなく眠りをむさぼれるというのもそうだが、ひとのあたたかさに触れることが、これほど心を癒やしてくれるものだという事実を、忘れかけていた。

 世界すべてに見捨てられたように感じていたけれど、それは、間違いだったかもしれない。

 まだ、人間を信じてみてもいいのかもしれない。

 そんな風に思いながら、眠りに戻った。


 *


 ノックの音が鳴るまえに、目覚めていた。


 おまえはすでに、なにか違和感を抱いていた。肌が粟立あわだつのを感じていたし、耳の先がぴりぴりと震えるような感覚もあった。胸のうちに、ざわざわとさえずりが起こりはじめていた。


「昼食を持ってきたわ」

 ノックの音につづいて、さきほどの中年女の声がした。

「入るわよ」


 猫なで声だった。

 幼児をあやし、丸めこみ、勝手な方向にみちびこうとしているときに、大人が使う声。そういうときの大人は、なんなく子供を手玉に取り、思いを遂げてしまうのだと、おまえは知っていた。


 扉が開く音が鳴るときには、すでに、藁の山をどけはじめていた。


「待て、泥んぼ(ディガー)――」

 叫んだのは、男の声だ。

 ここ何週間かですっかり馴染みとなった、緑色の光が背中から射してきている。すんでのところで、おまえは穴をくぐり抜けていた。


「裏よ! さっさとして!」

 中年女の金切り声がひびく。想像したとおりのきんきんした声だった。

「あの野蛮人を、はやく殺して!」


 おまえは走る。

 まだ本調子ではなかったが、ひと晩眠れたから、辛うじて走るだけの体力は取りもどしていた。怒号と攻撃を背にして、ただ、走り抜く。何本かの藁が、からだにまとわりついている。引きちぎるように藁をつかむと、地面へと叩きつけた。


「待て、グレイス!」

 おまえの名を、天人ヒューマン男の声が高らかに叫ぶ。

「逃げたって無駄だぞ! おまえの正体は知れてる! いつかかならず、おまえは捕まって縊られるんだよ! 天人ヒューマンさまを傷つけた、身の程知らずの奴人ドレイヴめが!」


 ああ。

 ああ。

 ちくしょう。

 ちくしょう。


 おまえは罵った。

 じぶんを、罵っていた。なぜ信じてしまったのか。なぜ、心を許してしまったのか。ちょっとやさしいことばを掛けられただけで、どうして油断してしまうのか。じぶんはなにも学んでこなかったのか。

 天人ヒューマンなのだ。

 洞人ドワーフではない。

 信じていいわけが、なかった。

 そもそも、種族が違うのだ。生きものとして、違う存在なのだ。彼らは洞人ドワーフに親切にしたりしない。家畜に、慈悲をかけてどうなる。やさしいことばをかけるのは、屠畜場に連れ出すためだ。それ以外のなにゆえでもない。

 なにをかんちがいしている。

 なにをはき違えている。


「ひぐっ……」


 涙が、止まらなかった。


 走るうちに、萎えていた脚には、ちからがこもった。拳を握りしめていた。歯を食いしばっていた。おまえはじぶんが取り憑かれていることに、気づきさえしなかった。


 燃えたっていたのは、悲しさではない。

 恐怖でもない。

 得体の知れない、怒りだった。やがて、怒りはことばのかたちをとることさえやめた。原初の、純粋な、動物的な怒りとして、おまえのからだに行き渡っていった。

 ほのおが、おまえのなかに湧き上がっていた。


 許せない。

 許せない許せない許せない。

 許さない。


 怒りのままに、おまえは駆けていた。


 グレイス。

 グレイスよ。

 おまえは、まだ知らない。人間には、二つ目の領域があることを、知らない。限界を超えたところに、純粋な感情だけが衝き動かすことのできる、第二の領域が存在するのだ。疲労も損傷も置き去りにして、ただ、死ぬまで動きつづけることのできる領域が、存在するのだ。


 代償は、命だ。


 おまえは残された命を燃やして、走っていた。


 北へ走る、という意識さえもなかった。

 じぶんが走っていく先に北がある、ということは分かっていた。本能が、みちびいている。


 走るほどに、おまえは、よけいなものが剥がれ落ちてゆくのを感じていた。

 恐怖も不安も希望も虚飾も、後悔も自己嫌悪も希死きしも、空腹も苦痛も煩悶も、すべてがうしなわれてゆく。とぎすまされてゆく。

 怒りが、頭のなかを灼熱の色へと塗りつぶしてゆく。

 一点のみを目指しながら、同時に周囲のあらゆるものを認識してもいる。肌を切る風も、複雑に絡み合う森のにおいも、葉のささやきや鳥のさえずりも、そのひとつひとつを手に取るように理解している。

 あらゆることばがうしなわれ、あらゆるもの思いが遠ざかってゆく。


 けだものへと、成れ果ててゆく。


 だが、限界がなくなったわけではない。

 おまえは全速力で駈け、駈け、やがて、ふいに足を止めた。なにか忘れものにでも気がついたかのように、なにげなく、足を止め、地面に突っ伏した。口のなかに、土の味が広がった。


 さいごの力をふりしぼるようにして、寝返りを打った。

 もうこれ以上は動けないということが、分かっていた。いのちを燃やしながら走り、そのさいごの一滴が尽きたのだと、ただ、分かっていた。


 ただ、空を見た。

 樹々のすきまから、星空が天を満たしているのを、おまえは見た。


 ここで死ぬのだ、と思った。

 目をつむったら、もう開けることがないということも、分かっていた。であるなら、さいごのときを迎えるその瞬間までは、この星を見ていようと思った。

 憧れていよう、と思った。

 視界のすべてを、くろぐろとした夜空と、散りばめられた星たちが占めていた。


 ふい、と首が動いた。


 違う光を、感じ取ったのだ。

 星々のように、うつくしくも、つめたくもない光。営みがふくまれている光。体温によってあたためられた光。

  

 灯火だった。


 民家の灯火だと気がつくまでに、すこし時間がかかった。

 質素な暮らしであるのは貧乏天人プアホワイトたちの家となんら変わりがなかったが、玄関先に、特徴的なキルティングが掛けられているのを、おまえは見てとった。複雑な模様の織り込み方は、祖先の大陸から伝わってきたものだ。おまえが住む奴隷宿舎クォーターにも、飾られていたものだ。

 洞人ドワーフにしか、織ることができないものだ。


 生きられる、と思った。

 するとふしぎなことに、おまえのからだに力がよみがえった。おまえは芋虫のようにのろのろとした動きで、民家へと、這いずっていった。

 ひとに見つかってはいけない、という意識さえもなかった。

 ただ、生きられる、と思ったのだ。


 粗末な木の扉をまえにして、おまえは、ただ待った。

 扉を叩いておとないを入れるようなちからも、発想も、もはや浮かばなかった。ただ、犬のように待ちつづけた。


 扉が、開いた。


 赦しを与えるように、光がその隙間からこぼれてきた。


 現れたのは、この世のものとは思えないほどうつくしい、洞人ドワーフの少女だった。

 見たこともないほどに純粋な黒い肌と、大陸の特徴をくっきりと残した顔立ちが、すこし疲れたような表情でまとめられている。


 ──天使がいるとしたら、こんな顔だろうな。


 おまえはゆっくり目を閉じ、少女が驚くのもお構いなしに、気をうしなった。

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