015 嵐の夜
足を引きずることは、さいわい、なかった。
二、三日も過ぎれば、痛みもほとんど無視してしまえるほどになった。絹服の端を裂いて、包帯代わりにきつく巻けば、傷があることじたいを忘れてしまえた。
農場での盗みも、やがて手慣れた。
どんなことにも、ひとは慣れてしまえるものだ。
おまえは昼日中に盗みに入るほうが、よほど安全であると知ったのだ。明けがたに男たちと幾人かの奴隷たちが綿花畑へと出かけるのを見送ってしまえば、自宅に残るのは、奥方と召使奴隷がふたりだけ、という家は多い。なんの家事をやっているかを慎重にうかがい見れば、野菜を盗む機会を見つけるのは、さほどむずかしくもない。
肝心なのは、欲ばらないことだ。
ひとつかふたつ、そっともぎ取るだけで済む野菜に狙いをさだめる。両手いっぱいに盗もうとは、決してしない。泥棒をはたらかれたと気づかれれば、この辺一帯の農場で警戒が強まってしまうかもしれない。追手が、厳しさを増す。
追われる恐怖を忘れかけてしまいそうになったら、太ももを見る。
この上ないほど明確な教訓を、見つめるのだ。
空腹をなんとかまぎらわせられるようになって、ようやく余裕が生まれた。
おまえは『U』を追わなくなった。あの『KKK』を見てしまってからは、地下鉄道に望みを託さないほうがいいと思うようになったのだ。地下鉄道だって、万全ではない。独力でやるのだ、とおまえは考えるようにしていた。そう構えておけば、どんなときにもうろたえずに済む。ただひとりでも、わたしは逃げのびる。逃げおおせてみせる。
当てにするのは、北極星だけ。
北へ。
ただ、北へ。
しかし、おまえの意志に、おまえのからだは付いてこなかった。
熱がある。
そう気づいたのは、腹いっぱいに水を飲み干した直後のことだった。
小川にまるごと浸けていた顔を上げて、手のひらで水滴をざっとぬぐおうとして、額になにげなく触れたとき、尋常ではない熱さが、おまえの動きを止めた。
いっしゅんのちに、背すじを寒気が立ちのぼった。
風邪だ。
おまえの顔面から、さっと血の気が引いた。
うそだろう。
そんな、だって、まさか。
現実を否定することばたちを、つぎつぎに理性が塗りつぶしてゆく。薄着。野宿。足りない睡眠。足りない栄養。何日もつづく緊張状態。そして、ろくろく手当てをしていない傷――すべての要因が、この風邪がほんものだと、裏づけている。
木の洞を見つけだすと、おまえはそのなかに潜りこみ、膝をかかえた。
まだ陽が落ちてさほど経ってはいなかったが、せめてもの大事だった。嵐が過ぎ去りますように、なにごともなく乗りきれますようにと、おまえは祈るしかなかった。祝福も幸運も、もはや望みませんから、どうか、どうか――。
はたして、嵐は来た。
猛烈な嵐だった。
じわじわと上がった熱は、明け方がくるまえに最高潮に達した。間欠泉のように高熱はくりかえしくりかえし襲ってきては、ひどい頭痛でおまえの頭蓋を掻きまぜ、思考をぐしゃぐしゃに踏み荒らしては立ち去ってゆく。咳が加わってくると、おまえの身にいよいよ小康状態はおとずれなくなった。肺を絞りあげ、喉を破るように、咳が突きあげてくる。止まらない一連の発作のあいだ、おまえは息を吸い込むことさえできず、ようやく止まったかと思えば、喉の奥から次の発作が顔を出しはじめているという始末だった。これら症状の大合唱の下で、通奏低音のように鳴りひびいているのが、寒気だ。ふだんは外気から骨に染みる寒さだけを凌いでおればいいのに、からだの奥底から、尽きることのない冷気がおまえの骨を噛みしめつづけている。小きざみに震える全身のうごきだけが、おまえに許されたただひとつの熱源だった。高熱がおまえの思考を奪い、咳がおまえの感情を奪い、寒気がおまえの希望を奪った。
泣くこともできなかった。
祈ることもできなかった。
あらゆる感情が、まとまらないのだ。神さまに赦しを乞うことさえをも奪われ、おまえは、ただ苦痛に耐えつづけた。じぶんが耐えているのか、呑まれているのか、それさえも分からなかった。
うねりのなかで、はじめて、奇蹟のようなしゅんかんがおとずれた。
すべての症状の小康状態が重なり、凪のような時間がふいに手わたされたのだ。
――死ぬ。
久しぶりの思考で、おまえはそうことばを紡いだ。
――このままでは、死ぬ。
なんとかしなければならない、とおまえはようやくたどり着いた。このまま、木の洞に籠っていては、保たない。ながらえることができない。つぎの日没までに、終わってしまう。
なにか。
なにか、あたたかいものが要る。あたたかい場所が要る。おまえは洞を這い出た。みにくい蠕虫のように、ずるり、ずるりと這った。
そこで、小康状態が終わった。
おまえの全身が、また高熱と咳と寒気とが支配権をあらそう場と成り果てた。
しかし、一度灯った意志が、ほとんど本能のように、おまえのからだを動かした。高熱による痙攣で、咳と咳の反動で、寒気による小きざみな震えで、一インチずつを盗みとるように、先へと進んでいった。
途方もない時間をかけて、おまえは這いつづけた。
もはや意識などはなかった。
気づいたときには、おまえのからだはあたたかさに包まれていた。すこしずつ、すこしずつ、体温が皮膚のまわりに残るようになって、おまえは微睡みへと呑みこまれていった。
*
光が、おまえのまぶたを焼いていた。
近ごろめっきり味あわなくなった感覚に、おまえは不自然なものを感じながら目を薄く開いた。顔を照らしているのは陽光だった。
開かれた扉のまえに、だれかが立っている影があった。
──寝坊? いや、きょうは免業日のはず……?
寝ぼけた考えを貫くように、声がした。
「動かないで」
影が動く。
振り向いて、あたりをうかがっているらしい。ようやくまともな思考力が戻ってきて、おまえはからだを起こす。
──ここは。
藁のなかに、おまえのからだは寝そべっていた。
納屋だ、とおまえは瞬時に判断する。高熱に浮かされ、あたたかい環境を求めるすえに、どこかの農場の納屋にたどり着いたのだろう。なにも判断できないまま、そのなかに潜り込み、こうして朝がくるまで寝こけていたというわけだ。
──なんて、失態。
とっさに起き上がろうとするが、ちからが入らない。扉のまえに立ちはだかった影が、こちらに「しっ」と指を立ててくる。
峠は越したらしいが、まだとうてい動きまわるような状態ではない。目のまえの影が誰だかは知らないが、助けを呼ばれたら、逃れられない。
──終わりかな。
どさり、と頭を藁に落とした。
寝そべった姿勢のまま、どうにでもなれ、という思いのまま、影の動きを見つめた。
「……誰も、見てないわ」
硬質な声で、影は言う。
女性の声だ。じぶんに言い聞かせるような声にも、こちらを説き伏せるような声にも、聞こえた。影が一歩を踏み出してくる。さすがに、おまえはびくりとからだを震わせた。
逆光になっていた表情が、明らかになる。
天人の中年女だ。
農家の奥方らしい、がっちりとした骨格と、ふっくらとした頬をしている。丈夫そうな綿のエプロンを着て口元にハンケチを巻いたすがたは、いかにもこれから朝食後の清掃をしようと意気込んでいるように見える。
「しずかにしていなさい」
覆いかくされた口もとに、中年女が、指を立てた。
「立ち上がってはだめ。ひとを呼ぶつもりはないわ。そのまま、すこし待っていて」
中年女は納屋の扉を閉め、その場を後にする。
この時点で、すでに予想外だった。
てっきり、金切り声で叫ばれるものだと思っていた。もしくは筆杖を突きつけられ、もっと大声で脅されるか。
わたしが、逃亡奴隷だと分からなかった?
いや、それはない。勝手に納屋に潜りこむ、ぼろぼろの服を着た洞人少女が、逃亡奴隷以外のなにものに見えるというのか。では、とおまえは考え直す。いまちょうど、筆杖を取りにいっている真っ最中か。
とっさに、納屋のなかを眺めまわす。
扉は、先ほどの中年女が開いたひとつきり。ほかに出入り口らしいところはない。いや、ひとつあった。おまえは背後の壁を眺めやる。板が割れた箇所があり、そこからすきま風が吹き込んできている。おそらく、じぶんは朦朧としたまま、この穴を見つけて納屋のなかに這い込んだのだろう。そうでなければ、鍵のかかった納屋などに、じぶんのような重病人が這い込めるはずもないのだ。
ちからを込めて、板をもう一枚外す。
そこに藁を重ねる。穴が見えにくいように。
いざとなったら、この穴から逃げればよい。
扉が開いたとき、中年女がこちらに向けて筆杖を構えていたなら、すぐさまこの穴に身をおどらせる。頭のなかで、入念に訓練をくりかえした。
と。
「開けるわね」
中年女の声がした。ひと呼吸おいて、扉が開く。
「落ち着いて」
こちらに向けられていたのは、手のひらだ。
「武器は持ってないわ。持ってきたのは、これだけ」
中年女が、ゆっくりとした動きで床になにかを置いた。
木製のトレーだ。
丸パンと、チーズの切れ端とが置かれている。ご丁寧に、コーヒーを注いだマグまでもが添えられている。
ごくり、とおまえの喉が鳴った。




