014 逃亡奴隷は芋を盗む
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とにかく、食べものを腹に入れなければならない。
空腹は主張をやめていたが、もはやサインを出す体力もないだけなのだと、おまえには分かっていた。なにかを食べなければならない。腹が減るからではなく、死なないために。
じぶんがいかに甘えた環境にいたのかを、思い知った。
奴隷の身の上を、悲観するべきではなかった。
すくなくとも、あの頃は日に二食のとうもろこし粥にありつけていたのだ。満腹を味わうことなどなかったとしても、飢え死にしそうになることもなかった。それだけでも、じゅうぶんだったのだ。
おまえは、森のなかから這い出た。
人里はなるべく避けていたけれども、もはや選択肢はない。天人に見つかる危険を冒すことは分かっていた。しかし、それよりもこの空腹を凌がねば、という思いがまさった。
夜の農場へと、おまえは近づく。
ちいさな農場だ。おまえがはたらいていたような大農場とは、くらべものにならない。この規模なら、つかえる奴隷も数人だろう、とおまえは踏んだ。となれば、夜を徹して見張りを立てることは難しい。
野菜を、盗める。
盗みの罪に怯えるこころなど、もはやおまえは持ち合わせていない。とにかく生きねばならない。死ねば地獄が待ち受けている。生きるしか、おまえには道はない。
農場の片隅に、小屋がある。
灯りが漏れている。明け方まではまだ時間があった。夜なべをしているであろう天人らが、家を出てくるまでは、すこし猶予がある。
いまなら──。
おまえは、そっと畑へと近づいた。
こういった家族経営の農場では、おもに綿花を育てている。トウモロコシ、麦、ジャガイモといった作物は、あくまで、家族や奴隷たちが食いつなぐための副次的なものにすぎない。
毎朝すこしずつもぎ取っては使うことができるよう、こういった畑は家に近い。
それだけに、野菜泥棒は露見しやすいのだ。
草葉を踏む音をなるべく立てないよう、おまえは慎重に時間をかけてにじり寄った。トウモロコシやキャベツのように、もぎ取れる野菜があればいちばんいい。そう思ったが、目のまえに広がっていたのは、ジャガイモの畑だった。
春を迎えたばかりだ。
収穫時期はまだ二ヶ月も先だ。夜の冷え込みもきびしく、ジャガイモはおそらくまだちいさい。だが、贅沢は言っていられない。
成長が早い葉に目をつけると、手のひらで掘りはじめた。
霜で固まった土に、素手でいどむのは辛かった。やがて思い出し、腰に挟んでいた手斧を引っ張り出す。刃末を立てるようにして、シャベル代わりに掘り進んだ。
音には構っていられない。
掘りはじめたら、どうやっても音は止められない。とにかく急ぐことだ。誰かが、夜闇のなかの物音を聞きつけて、調べに出てくるまえに、掘り終えてしまわなければ。
土のなかに、ジャガイモの肌がちらりと光って見えた。
さらに掘りすすめると、いくつかの小ぶりな芋と、芋づるを見つけることができた。急ぎながらも、つるを傷つけないよう慎重に掘りすすむ。つるが千切れてしまえば、芋の一つひとつを掘り起こさなければならなくなり、けっきょくは時間がかかってしまうからだ。
闇のなかで、芋づるは見うしないやすい。
いつしかおまえは夢中になっていた。
「だれ?」
声をかけられるまで、気がつかなかった。
完全な失態。おまえが顔をあげると、小屋の脇で少年がランプを顔の脇まで寄せて、こちらを見ていた。一五〇フィートも離れていない。いっしゅん手を止め、すぐにおまえはまた一心不乱に掘りはじめた。
「……父ちゃん、イモ泥棒だ!」
少年のさけび声がおまえに届く。おまえは芋づるを引き抜き、その先にいくつ付いているかを確かめる余裕もないまま、踵を返した。
「盗っ人の泥んぼだよ!」
背中で少年の声が響いている。すぐに他の足音が混じり、緑色の光がおまえの後方から射した。
すんでのところで、頭を引っ込められた。
おまえの頭上を、真述の炎が通りすぎていく。炎は二発、三発とつづき、目のまえの草葉に当たっては、燃えひろがるでもなく瞬時に鎮火する。生きものを殺すためだけに生み出された、緑色の炎だ。
つんのめるように走る。
森のなかに戻れれば、ひとまず撃たれるおそれは減る。樹々のつらなりがおまえを守ってくれるだろう。
あと数歩で樹々の元に駆け込める。
そのときだった。
「い……っ──!」
太ももに灼熱が走る。
当たった。認識が痛みよりも早く脳髄を叩いた。当たった。当てられた。傷の具合は? まだ走れるのか? 走っていてだいじょうぶなのか? まだ一歩はいけるか? 倒れ込まずにいられるか?
つぎつぎと泡のように浮かんでくる疑問の、答え合わせをするように走った。
樹々へと、たどり着く。
速度を緩めることなく走りつづけた。背中のほうで野太い声が聞こえた。
「待ちやがれ! 汚らしい泥んぼの糞餓鬼めが!」
背中を、殴られたような心地だった。
しかし、足音が追ってくることはなかった。
張り出した木の根を飛び越え、倒れた枯木を乗り越えた。太い幹を瞬時に見てとると、その陰へと隠れる。
森の外からの視線はもう届かない。
そのことを確かめてから、太ももの傷に目をやった。
焦げていた。
肌が黒ずみ、炭化したようになっている。とっさに煤を払うと、激痛が走った。こめかみをずきずきと打ち鳴らしている鼓動が、傷の痛みからくるものだと気づいた。どうすることもできないまま、ただ、苦痛の頂点が過ぎ去るのを待った。
痛い。痛い。痛い。
ちくしょう。ちくしょう。
罵りの声を、口のなかで何度もくりかえす。
罰当たりなことばを口に出すことに、おまえは慣れていない。けれども、このときは、そうやって世界を呪うことが正しいように思えた。
痛みが、ようやくましになる。
消えてなくなりはしない。膝を曲げ伸ばししてみる。さほど痛みの大きさは変わらない。なんとか走りつづけられそうだ。
ようやく、思い出す。
おまえは先ほどまで固く握りしめていた芋づるを、眺める。
ほとんどのイモが、逃げる途中に落っこちてしまったか、土のなかに置き去りにされてしまっていたようだ。残されていたのは、ひと口でほおばってしまえるような、小粒のイモがふたつきり。
こんなもののために──。
怒りのままに投げ捨ててしまいたくなる衝動を、すんでのところで押し殺した。
おまえは、芋づるから切り離した二つを、ろくに土を払うこともせずに、口へと放り込んだ。
土の味が舌にこびりつく。
お構いなしに噛み締めると、しゃくしゃくとした食感のなかに、イモの確かな甘みを感じた。
涙が出た。
うまかった。




