013 絶望
*
走りながら、枯木が見つかるとかならず確認した。
またしても、母のことばがよみがえる──枯木の北側には、こけや蔓草が生えるのだ。つまり、こけが生えている方角を目指せば、星の見えない夜でも方角を見うしなわずに済む。
ふた股に分かれた道にさしかかり、どちらへ進むべきか悩んだときには──炭で“U”の描かれた樹のまえに、ひざまずく。樹の幹を抱きしめるようにして、腕を下へとすべらせてゆくと、地面から三フィートほどのところに、ちいさな釘が打ち込まれているのだ。
右側の道が正しければ、右側に。
左側の道が正しければ、左側に。
困ったときには、ひざまずいて祈りなさい。
母の教えが、思い出された。
母の教えと、歌だけが、支えだった。
やがて──
体力が、尽きた。
ろくに眠らず、ろくに食べもせず、夜を徹して走りついだのだ。
限界だった。
なにかにつまずいて、腐葉土の上に突っ伏してしまうと、そのまま動けなくなっていることにおまえは気がついた。
もともと、おまえのからだは、さほど頑強にできているわけではない。栄養を満足に得られていないせいか、ほんとうに十二歳かとうたがわれるほどに、手足も胴体も棒切れのように細い。女らしい丸みはみじんもない。
──いまの顔、どれぐらいひどいんだろうな。
おまえはなんとか寝返りを打ち、樹々に切り取られた星空を眺めた。
じぶんのすがたを水面に写してみることさえ、この逃亡生活がはじまってからは絶えていた。さいごにじぶんの顔をまじまじと眺めたのは、あの絹の衣装をはじめて手渡されたときだった。あのときから、ずいぶん遠くへへだてられてしまったものだ。
いまなら、旦那さまの食指もうごかないことだろう。
皮肉な笑みが、唇の端に浮かんだ。きっと、目は落ちくぼみ、頬はこけ、唇もかさかさに荒れきっている。擦り傷と乾いた泥がまんべんなくこびりついているせいで、黒いまま残っている肌など無きにひとしいだろう。
みるも、痛々しいすがたに、変わり果てていることだろう。
いつか見た、トビーの死体のように。
身が、震えた。
目をつむり、また開く。視線をめぐらせる。ふた股の分かれ道にさしかかっていることに、気がついた。おまえは途方もない時間を掛けて、ようやくに立ち上がる。
──釘の位置だけでも、たしかめておこう。
もう今晩は、これ以上走ることなどできないだろうけど、せめて、明日どちらに向かうべきなのかだけは、知っておこう。どちらに向かうか知っておかなければ、きっと、明日ちからの入れかたが分からなくなってしまう。一度折れてしまえば、もう、立ち上がれなくなってしまう。
おまえは、炭で描かれた飾り文字を探した。
衝撃を受けた。
飾り文字がなかったのではない。果たして、それはあった。“U”の文字。しかしその上に、重ねて描かれていた、三文字があったのだ。
悪夢の象徴として覚えていた、その文字の並び。
“KKK”。
ああ、とおまえは思う。
おまえの頭のなかに、トビーの悲鳴が、流血が、狂気じみたからだの痙攣が、よみがえる。全身に開いた無数の穴と、乾いた眼球に止まった蠅と、苦痛に歪みきったまま動かなくなった表情とが、おまえのなかで閃光する。
連合国最強の真述師集団にして、連合国最悪の差別主義者。
天人こそを唯一絶対の支配種として、それ以外の人種――洞人、先住民、穂人、獣人など、ありとあらゆる他人種を劣等種として従えるべきだと主張する過激派団体――それこそが、KKKである。
KKK。
その三文字だけを、おまえは怖れていたのだ。
KKKさえ追ってこなければ、まだ、可能性はあった。
州境を越えた時点で、追われる恐怖からは解放されるはずだったのだ。しかし、ことKKKに対しては、州境などはなにほどの意味もない。彼らは連合国政府の中枢に食い込んでいる。超法規的捜査と、私刑を自由にくだす権利とが、認められている。対象は、この連合国内にいる洞人すべて。奴隷身分に限る、などという条文さえもが、組み込まれていないのだ。
だから、州境をたやすく越えてくる。
執念と、高度な真述に裏づけられた追跡から、逃れることはできない。カナンの地に立ち、万万が一、自由身分を手に入れることが叶ったとしても、追跡が止むことはない。KKKの名簿に載ってしまえば、生涯、安眠につくことはできなくなるのだ。
おまえは、思う。
おそらく、じぶんの名はKKKの名簿に載せられていることだろう。主人を殺害しようとくわだてた奴隷に対し、むごたらしい死を課そうとするのは、とうぜんの心理だ。
いまのところは、奴隷追跡人にしか、遭っていない。だから、なんとか切り抜けてこられた。人の目、犬の嗅覚ぐらいは、なんとか、ごまかしおおせた。
しかし、今後はそうはいかない。
これから相手どるのは、ほんものの真述師たちなのだから。
連中が、追ってくる。
悪夢が、せまってくる。
もう、だめだ。
もう、だめなのだ。
頭のなかで、じぶんの声ががんがんと鐘の音のように反響しつづけていた。
もうだめだ、助からない、終わりなのだ、ここですべてが終わりなのだ、無駄な足掻きはやめろ、苦しみを長引かせるな、折れるまえにじぶんでけりをつけろ、さあその尖った枝を手に取れ、喉元にあてがえ、ひと息につらぬいてしまえ──。
おまえは。
おまえは、従わなかった。
心の声を、諦めることをうながす理性を、黙らせた。
落ちつけ。
おまえはじぶんへ言い聞かせる。
まだ、KKKが追ってきていると決まったわけではない。この文字が意味しているのは、この場所にKKKが現われたという事実だけだ。べつに、わたし自身を追っているという証ではないのだ。
連中は、地下鉄道を追ってきていたのだろう。
そして、『U』の示す意味に気がつき、上書きを行った。それだけのことだ。おそらくこの逃亡経路はうしなわれただろうし、この先にあるはずの地下鉄道も潰されていることだろう。
当てにしないことだ。
期待しないことだ。
おまえはもう一度、空を眺める。
北極星はある。
依然として、かがやいている。
北を目指すことはやめなくていい。諦めなくていい。助けを求めなければいいのだ。これまで通りに、じぶんの足で歩きつづければいい。それだけでいい。
もう一度、おまえは立ち上がる。
ゆっくりと、歩き出した。




