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聖 絶 大 戦【第4章開幕】  作者: 木村太郎
Vol.1 The Exodus of Grace/恩寵

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011 犬

 しかし、そこまでだった。

 おまえは失敗した。

 その先を。本懐を遂げることを。


 はじめに股ぐらを狙ったのが、よくなかった。


 狂乱の声をあげて股間を握りしめた旦那さまの、次は喉元を裂こうとしたのだ。しかし、勃ったものには血液が集まっていることを、おまえは知らなかった。噴き出した血のあまりの勢いに、おまえの狙いは逸れ、また、手斧の柄さえも、血のぬめりでしっかりと握っていることができなかった。


 だから、おまえは失敗した。


 振るった刃は頸動脈を切り裂くにはいたらず、いのちを奪うことは叶わなかった。

 つぎの瞬間には、主人の悲鳴を聞いた執事が現れていた。

 おまえが足音に振り向くと、まさに寝室の入り口に、天人ヒューマンの使用人たちが、筆杖ペンを手にして駆けつけたところだった。あまりの状況に、狼狽し、すぐには真述ロジックを展開するには至らないようだった。


 おまえには、数秒の猶予が与えられた。


 あるいは──。

 駆けつけたのが、使用人連中だけであったなら、おまえは旦那さまへ次の攻撃を仕掛けていたかもしれない。こんどは狙いをあやまたず、旦那さまの命の灯火を奪い、おまえは高揚のなかで取り押さえられていたことだろう。そうなっても、じぶんの選択を悔いることなど、おまえはなかっただろう。


 しかし。

 おまえは、目を合わせてしまったのだ。


 お嬢さま、だった。

 これまでに数度、遠くから見ただけの、令嬢だ。おまえよりも、一つか二つ、歳上だろう。それが、いまは十フィートほど先にいる。うろたえた顔を青ざめさせ、いまにも気をうしないそうになっている。瞳のなかに、恐怖と、困惑と、懇願の色が、見てとれた。


 判断には、一秒も要しなかった。


 おまえは、脇にあった飾り窓へと身をおどらせ、全身でガラスを叩き割りながら、二階下の地面へと転がった。からだに際立った怪我がないことを確信すると、躊躇なく、走りはじめた。背中を襲う真述ロジックの炎には、目もくれなかった。


 なぜ。


 おまえは自問する。


 なぜ、わたしは逃げたのか。なぜ、わたしはその場にとどまり、旦那さまへととどめを刺そうとしなかったのか。殺されるまでは、あと数秒あった。数秒あれば、じゅうぶんだった。じゅうぶんに、殺せた。なぜだ。なぜ、殺さなかった。

 なぜ、

 生きようとした。


 自間をかかえたままに、柵をとびこえた。

 答えは出なかった。


 ただ、走った。


 *


 奴隷追跡人スレイヴハンターは、猟犬を用いる。

 逃亡奴隷を引き裂くために訓練された、専用の凶器。


 追跡人ハンターはそのために、ときおり犬を連れて農場にあらわれては、うつむく奴隷たちの間を練り歩き、洞人ドワーフのにおいを覚え込ませるのだ。濡れた鼻先が、手を止めることを許されない洞人ドワーフの肌に触れる。剥き出しにされた歯の感触さえもが、頬につたわってくる。


「いいか、よおく覚えておくんだぞ。

 いつかこの肉を、おまえが喰うことになるかもしれんからな」


 主人の冗談を理解しているのかいないのか、犬たちのよだれがだらりと垂れる。


 そんな場面を、おまえはいくども体験してきた。


 だから──。

 この場面は、何度も悪夢で見たとおりのものだ。


 *


 つんのめるようにおまえは走る。

 

 はるか後方で揺らめく松明の炎、

 狩りの昂奮に歓喜の声をあげる追跡人ハンターらの声、

 そして、森の草葉を踏みしめながら着実に距離を詰めてくる、けものの足音。


 恐慌が、おまえに追いつこうとしていた。

 湧き上がる悲鳴を、おまえは必死の思いで呑みくだしながら、ただ走った。


 ──犬どもはな、まずおまえの足を狙う。けんを噛みくだき、これ以上走れなくするのさ……。


 距離の感覚がつかめない。

 犬たちとの間隔は、まだ数マイルもあるのか、それとももう数十フィートしかないのか、分からなくなる。ふりむくことが、怖い。


 ──おまえが転べば、次は腕だ。犬はおまえの顔を狙うから、おまえは両腕でそれを避けようとする。そこに、何頭もの犬が喰らいついてくるんだ……。


 呼吸が荒れくるっている。

 音を立ててはならないと頭では分かっているのに、そんなことに構っている余裕がない。耳にたどりつく呼気の大きさと、枯葉を踏みしめる音の大きさが、おまえの恐慌をさらに加速させる。


 ──喉は狙うなと教えてる。逃亡奴隷は生かして帰さなきゃ値が落ちるからな。犬が狙うのは鼻だ。鼻の軟骨は、ことのほか美味いらしい。おまえの両腕が上がらなくなれば、犬たちは好物にありつける。食いちぎった鼻を争って飲み込んだら、次は耳だ……。


 何頭が迫ってきているのか。五頭か、それとも十頭か。

 どこまで走れば振りきれるのか。いつになったら諦めてくれるのか。追われはじめてから、どれほどの時間が経ったのか。この悪夢に、そもそも終わりなどありえるのか。


 ──どんなきぶんなんだろうな? じぶんの鼻や耳が、目のまえで犬に噛み砕かれ、飲み込まれるのを見るってのは? 想像もしたかねえな。俺ア、つくづく思うぜ。じぶんが汚ならしい泥んぼ(ディガー)に生まれなくてよかったってよ……。


 ぎ、とおまえは歯噛みする。

 合わなかった歯の根が、震えを止めた。


 高らかに笑う奴隷追跡人スレイヴハンターたちの顔が、黄色く汚れた乱杭歯らんぐいばが、思い出される。


 くそったれ、とおまえは胸のうちで吐き捨てる。

 くそったれ天人ヒューマンの、くそったれ野郎ども。あんなやつらの、手柄話なんかになってたまるか。安い酒場で語られる、安っぽい武勇伝なんかに、なりおおせてたまるか。


 恐怖と恐慌がもたらしていた全身の震えが、止まる。

 大地を踏みしめる足どりが、ちから強さを増す。


 犬に、犬なんかに、

 殺されてやるもんか。


 決意した瞬間だった。

 跳んだ先の地面が消失し、おまえのからだは一瞬の浮遊感につつまれた。けたたましい水音。全身が、水のなかに呑まれていた。


 渓流だ。

 どこかの川の支流が来ていたらしい。立てば腰ほどの深さでしかない。おまえは息をつこうと頭を出しかけ──瞬時に、思いとどまった。


 犬だ。

 犬がいる。


 十フィートもへだてていない森のなかに、二頭がたどり着いていた。

 立ち止まり、鼻先を天に向けていた。


 ()()()()()()()()()()()()


 おまえは堪えた。

 落下したときの驚きで、肺のなかの息はほとんど泡にしてしまっている。一粒の泡も漏らさぬよう、堪える。水中で耳を澄ます。犬が近づいてきている。舌を出した荒い呼吸音が、頭のすぐ上で響いている。


 顔を上げるな。上げるな。上げるな。

 息を吸え。吸え。吸え。吸え。吸え。


 本能があげる悲鳴が、おまえの頭のなかで反響しつづけている。

 狂おしいほどに時間が経つのが遅い。けものの吐息が遠ざかっている。声はとっくの昔に聞こえない。それでもおまえはこらえる。空気を求めて灼熱しはじめた肺を、必死で抑える。

 やがて、息を吸え、という命令に抗っていられなくなる。


 おまえは、勢いよく顔を上げた。

 狂乱したように息を吸う。激しくむせながら、思うぞんぶん、肺に息を送りこんでいく。


 おまえは噛まれていない。

 犬は、いない。


 耳を澄ますと、かろうじて、遠ざかっていくけものの足音が聞き分けられた。ゆらゆらと動く松明の炎が、木々の向こうでわだかまっている。松明たちが、方向を変える。列を為して、動きはじめる。

 おまえのいるのと、反対側へと。


「……助かった」


 その自覚をことばにできたのは、荒い呼吸がすっかり鎮まって、身にしみる寒さにくしゃみが漏れてからのことだった。


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