011 犬
しかし、そこまでだった。
おまえは失敗した。
その先を。本懐を遂げることを。
はじめに股ぐらを狙ったのが、よくなかった。
狂乱の声をあげて股間を握りしめた旦那さまの、次は喉元を裂こうとしたのだ。しかし、勃ったものには血液が集まっていることを、おまえは知らなかった。噴き出した血のあまりの勢いに、おまえの狙いは逸れ、また、手斧の柄さえも、血のぬめりでしっかりと握っていることができなかった。
だから、おまえは失敗した。
振るった刃は頸動脈を切り裂くにはいたらず、いのちを奪うことは叶わなかった。
つぎの瞬間には、主人の悲鳴を聞いた執事が現れていた。
おまえが足音に振り向くと、まさに寝室の入り口に、天人の使用人たちが、筆杖を手にして駆けつけたところだった。あまりの状況に、狼狽し、すぐには真述を展開するには至らないようだった。
おまえには、数秒の猶予が与えられた。
あるいは──。
駆けつけたのが、使用人連中だけであったなら、おまえは旦那さまへ次の攻撃を仕掛けていたかもしれない。こんどは狙いをあやまたず、旦那さまの命の灯火を奪い、おまえは高揚のなかで取り押さえられていたことだろう。そうなっても、じぶんの選択を悔いることなど、おまえはなかっただろう。
しかし。
おまえは、目を合わせてしまったのだ。
お嬢さま、だった。
これまでに数度、遠くから見ただけの、令嬢だ。おまえよりも、一つか二つ、歳上だろう。それが、いまは十フィートほど先にいる。うろたえた顔を青ざめさせ、いまにも気をうしないそうになっている。瞳のなかに、恐怖と、困惑と、懇願の色が、見てとれた。
判断には、一秒も要しなかった。
おまえは、脇にあった飾り窓へと身をおどらせ、全身でガラスを叩き割りながら、二階下の地面へと転がった。からだに際立った怪我がないことを確信すると、躊躇なく、走りはじめた。背中を襲う真述の炎には、目もくれなかった。
なぜ。
おまえは自問する。
なぜ、わたしは逃げたのか。なぜ、わたしはその場にとどまり、旦那さまへととどめを刺そうとしなかったのか。殺されるまでは、あと数秒あった。数秒あれば、じゅうぶんだった。じゅうぶんに、殺せた。なぜだ。なぜ、殺さなかった。
なぜ、
生きようとした。
自間をかかえたままに、柵をとびこえた。
答えは出なかった。
ただ、走った。
*
奴隷追跡人は、猟犬を用いる。
逃亡奴隷を引き裂くために訓練された、専用の凶器。
追跡人はそのために、ときおり犬を連れて農場にあらわれては、うつむく奴隷たちの間を練り歩き、洞人のにおいを覚え込ませるのだ。濡れた鼻先が、手を止めることを許されない洞人の肌に触れる。剥き出しにされた歯の感触さえもが、頬につたわってくる。
「いいか、よおく覚えておくんだぞ。
いつかこの肉を、おまえが喰うことになるかもしれんからな」
主人の冗談を理解しているのかいないのか、犬たちのよだれがだらりと垂れる。
そんな場面を、おまえはいくども体験してきた。
だから──。
この場面は、何度も悪夢で見たとおりのものだ。
*
つんのめるようにおまえは走る。
はるか後方で揺らめく松明の炎、
狩りの昂奮に歓喜の声をあげる追跡人らの声、
そして、森の草葉を踏みしめながら着実に距離を詰めてくる、けものの足音。
恐慌が、おまえに追いつこうとしていた。
湧き上がる悲鳴を、おまえは必死の思いで呑みくだしながら、ただ走った。
──犬どもはな、まずおまえの足を狙う。腱を噛みくだき、これ以上走れなくするのさ……。
距離の感覚がつかめない。
犬たちとの間隔は、まだ数マイルもあるのか、それとももう数十フィートしかないのか、分からなくなる。ふりむくことが、怖い。
──おまえが転べば、次は腕だ。犬はおまえの顔を狙うから、おまえは両腕でそれを避けようとする。そこに、何頭もの犬が喰らいついてくるんだ……。
呼吸が荒れくるっている。
音を立ててはならないと頭では分かっているのに、そんなことに構っている余裕がない。耳にたどりつく呼気の大きさと、枯葉を踏みしめる音の大きさが、おまえの恐慌をさらに加速させる。
──喉は狙うなと教えてる。逃亡奴隷は生かして帰さなきゃ値が落ちるからな。犬が狙うのは鼻だ。鼻の軟骨は、ことのほか美味いらしい。おまえの両腕が上がらなくなれば、犬たちは好物にありつける。食いちぎった鼻を争って飲み込んだら、次は耳だ……。
何頭が迫ってきているのか。五頭か、それとも十頭か。
どこまで走れば振りきれるのか。いつになったら諦めてくれるのか。追われはじめてから、どれほどの時間が経ったのか。この悪夢に、そもそも終わりなどありえるのか。
──どんなきぶんなんだろうな? じぶんの鼻や耳が、目のまえで犬に噛み砕かれ、飲み込まれるのを見るってのは? 想像もしたかねえな。俺ア、つくづく思うぜ。じぶんが汚ならしい泥んぼに生まれなくてよかったってよ……。
ぎ、とおまえは歯噛みする。
合わなかった歯の根が、震えを止めた。
高らかに笑う奴隷追跡人たちの顔が、黄色く汚れた乱杭歯が、思い出される。
くそったれ、とおまえは胸のうちで吐き捨てる。
くそったれ天人の、くそったれ野郎ども。あんなやつらの、手柄話なんかになってたまるか。安い酒場で語られる、安っぽい武勇伝なんかに、なりおおせてたまるか。
恐怖と恐慌がもたらしていた全身の震えが、止まる。
大地を踏みしめる足どりが、ちから強さを増す。
犬に、犬なんかに、
殺されてやるもんか。
決意した瞬間だった。
跳んだ先の地面が消失し、おまえのからだは一瞬の浮遊感につつまれた。けたたましい水音。全身が、水のなかに呑まれていた。
渓流だ。
どこかの川の支流が来ていたらしい。立てば腰ほどの深さでしかない。おまえは息をつこうと頭を出しかけ──瞬時に、思いとどまった。
犬だ。
犬がいる。
十フィートもへだてていない森のなかに、二頭がたどり着いていた。
立ち止まり、鼻先を天に向けていた。
おまえを、見うしなっている。
おまえは堪えた。
落下したときの驚きで、肺のなかの息はほとんど泡にしてしまっている。一粒の泡も漏らさぬよう、堪える。水中で耳を澄ます。犬が近づいてきている。舌を出した荒い呼吸音が、頭のすぐ上で響いている。
顔を上げるな。上げるな。上げるな。
息を吸え。吸え。吸え。吸え。吸え。
本能があげる悲鳴が、おまえの頭のなかで反響しつづけている。
狂おしいほどに時間が経つのが遅い。けものの吐息が遠ざかっている。声はとっくの昔に聞こえない。それでもおまえは堪える。空気を求めて灼熱しはじめた肺を、必死で抑える。
やがて、息を吸え、という命令に抗っていられなくなる。
おまえは、勢いよく顔を上げた。
狂乱したように息を吸う。激しくむせながら、思うぞんぶん、肺に息を送りこんでいく。
おまえは噛まれていない。
犬は、いない。
耳を澄ますと、かろうじて、遠ざかっていくけものの足音が聞き分けられた。ゆらゆらと動く松明の炎が、木々の向こうでわだかまっている。松明たちが、方向を変える。列を為して、動きはじめる。
おまえのいるのと、反対側へと。
「……助かった」
その自覚をことばにできたのは、荒い呼吸がすっかり鎮まって、身にしみる寒さにくしゃみが漏れてからのことだった。




