109 白い牙12/野性の呼び声
足どりは、どうしてもふらついた。
しかし、いっしゅんごとにおまえは身軽さを感ずるようになっていた。ふたりの子供たちについては、もうかんがえるのをやめていた。走る一歩ごとにおまえはすべての理性と悟性とをふりすてて、たんなるけものに変じてゆくのを、味わっていた。ことここにおよんでは、もはや人間である必要などない。人間性は要らない。けものでいい。
走りながら、さぐった。
風の流れを感じ、においをたどり、虫や小動物のうごきを目で追い――森のなかのどこに追手がひそんでいるのかを、覚醒しきった感覚で掴みだした。
無意識のうちに、おまえは笑っている。
臨戦態勢となった肉食獣の、牙をむき出すあの笑いを、笑っていた。
――かる。
――ひとりのこらず、かりだす。
この夜のなかで、おまえこそが、頂点捕食者である。
集落に達した。
そのときには、おまえの鋭敏な感覚が、敵の数と位置とをほぼ正確に割り出し終えていた。“獲物”の数はぜんぶで二十六人。全員が石鹸のにおいをほのかにただよわせていたから、身ぎれいなKKKの真述師連中でまちがいない。
南に七名、北西に五名、東に三名、集落のなかに八名。
おまえが立つ北側には、わずか三名。
配置をかんがみても、北側におまえたちが潜んでいたことは、ほぼ突き止められてはいないと見ていい。
──もんだい、ない。
警戒すべきは集落内だ。
二名ほど、気配が明確に異なるものが混ざっている。この集団をまとめる人間かもしれない。苦戦するとしたら、この二名だろう。
──なら、まずはこりつさせる。
東西南北に配置された見張りとおぼしき連中を、まずは狩る。それから集落にのこされた連中を、じっくりと追いつめる。
さいしょは南に回る。北側の兵がさいしょに消えれば、隠れていたのが北側だと喧伝してまわるようなものだ。攻撃は南から、おこなわねばならない。
闇に浮かぶ白い牙のかがやきが、空中に残像を残し、消えた。
疾走。
的確に落葉や草の密集を避けている。最小限におさえられた足音は、“獲物”たちに情報をあたえない。
だから、彼らにとっておまえは、
とつぜん、目のまえにあらわれる。
*
白い法衣をまとい、覆面と一体化したような特徴的な三角帽をかぶった三名は、油断なく周囲をうかがっていた。
すでに、敵地だ。
逃亡者であるくだんの“白い牙”には、おおくの奴隷追跡人とKKKが討たれている。おそろしく、強い。それゆえに、KKKのなかでも精鋭中の精鋭である彼らに、お呼びがかかったのだ。指揮をとる“海蛇”級の男は、例の主要駅強襲にもくわわったほどのつわものだ。
集落のなかをくまなくさぐり、仕掛けられていた罠のたぐいを慎重に解除し、浸透するようにじわじわと包囲網をせばめている。ここまでの手で、見落としはない。“海蛇”の男に油断などはなかった。
だが、集落のなかには不審な箇所がおおい。
隠れ家たりえる場所が、すでに七つを数えている。三名では足りない。
南に配置していた七名のうち、捜索に人員を割いたほうがよい。男はそう判断し、見張りの兵を呼ぼうと、彼らを配置していた場所へと向かった。
いない。
だれひとり。
「おかしい、たしかにここですよね──?」
「しっ」
疑問の声をあげかけた二名を、そっと手のひらで制した。
やけに静まりかえっていた。不自然なまでに。虫や鳥獣さえもが息をひそめているようだ。男は視線をめぐらせる。警戒は、臨戦態勢へと切り替わっている。すでに攻撃を受けている、と判断すべき。そう、男はかんがえている。
茂みの陰。なにかがうごいた。
たおれた真述師の、腕。
「くそっ」
連れの二名が、困惑顔をこちらへ向けてくる。
「七名、やられた。全員に伝えろ──“白い牙”に、襲われている」
あわてて見張り連中のもとへ走り出した二名からすぐさま目をはなし、男はかまえた筆杖を樹々のあいだへとかざしながら視線をめぐらせる。
耳を、すませた。
白い牙は、耳が利かない。
おのれが立てる音には、無頓着になるはずだ。
そうしたかんがえから、耳をそばだてた。
断末魔の悲鳴。
ふたりぶんだ。
さきほど送り出した二名が、討たれた。
早い、いくらなんでも。
こちらはまるで気配をかぎつけられていないというのに、向こうからはすべての動きを見とおせているかのようだ。
恐怖が、わずかに浮かぶ。
音は、しない。
気配は、ない。
沈黙が、森のなかを満たしている。
汗が垂れ、目に染みた。
混乱が、湧き上がりはじめている。気配をさぐることに集中せねばならないのに、じっとりとした汗が、男の混乱を一秒ごとに強めている。
さして、むずかしくもない任務だと思っていた。
逃亡奴隷なぞの討伐に、じぶんほどの真述師が駆り出されるなど、過剰反応もいいところだと思っていた。
あの驚嘆すべき少女以来、逃亡奴隷にたいする警戒は度を過ぎている、上層部は臆病風に吹かれているのだ、などと吹聴してさえいた。
しかし、いまとなってみれば……
警戒は、むしろ足りなかったのではないかと言わざるをえなかった。
風が、やんだ。
男は筒をとりだした。手の汗ですべらせるまいと、さいごの手段として持ち合わせていたその筒を、しっかりとにぎりしめた。
「あ」
ふりむく。
そこに、かがやく二本の刃があった。
白い牙だ、と男が思うよりもはやく、突き倒されていた。
絶命するそのしゅんかん、筒から炎が天高く噴きあがるのを見たのが、男の最期の意識だった。
*
伏兵は、二十六名どころではなかった。
数えるいとまはなかった。
しかし、おそらく二百人は超えている。中隊規模に相当する兵力が、ただひとり、おまえだけを狙いすましてきている。この人数になると、森のなかに逃げかくれすることも叶わない。つねに、おまえの居場所は捕捉されつづけている。
──なら、それでよい。
そのぶん、息子たちから敵の目をひきはなしておける。暴れれば暴れるほど、あの子たちを安全にたもっておけるのだ。
おまえは真述の炎を避け、ひとりの喉をナイフで割くと、その屍体を盾としてつづく攻撃をふせいだ。さいごにはその足首をつかみ、片腕だけでぶうんと振りまわした。三人が首の骨を折って斃れる。
──むすこたち、だと。
いつから、そんなことをしぜんとかんがえるようになったのか。いつから、じぶんの命よりもあたりまえに優先すべきものとして、あつかっていたのか。
木の陰から撃ちこまれる炎を、からだを低くして避けた。
そのまま地を這うほどの高さで駆け、つぎつぎと撃たれる炎をじぐざぐに走りながら躱した。木の陰にひそんだ真述師どもをうかがえる地点に達すると、礫をはなつ。三つの石で、三人が倒れ伏した。
──いまは、ははなどでなくていい。
そう思いさだめるのも、むずかしいことではなかった。
けものであればよい。襲いくる敵を、ただ打ち払うとだけかんがえておればよい。ともすればふたりの安否に向かいかける意識を、おまえはひきはがすように目のまえの敵へと向けた。
敵は痺れを切らしたらしい。二十名を超える兵が同時に襲いかかってきていた。狩りの場で、この数を相手どったことはむろんない。しかしおまえには、どうたたかえばよいのかが手に取るように理解できた。密集して立つ敵と敵のあいだに、じぶんが駆け抜けるための道筋が、はっきりと見てとれていた。
ただ、それをなぞるだけでよかった。
道を辿り、疾風のように駆け抜けつつ、中途に立ちはだかる敵をつぎつぎと斃していった。
空気がふるえ、真述師たちが萎縮するのがわかった。
この戦場はわたしのものだ。わたしがあるじだ。そう宣言するがごとく、吼えていた。いつまでだって駆けられる。いつまでたって戦える。そう思った。
ただひとつ、見落としていたのは、
じぶんが、つい先ほど大量の血をうしなったばかりであるという事実だ。
道筋をたどり、十人をひと呼吸のうちに斃しきる直前のことだ。九人目の喉を割いたところで、がくん、と足を踏み外した。それでも、その隙を衝いてこようとした十人目の攻撃は避けたし、とっさに振るった拳でその鼻面をぐしゃっと叩きつぶして絶命させている。が、そこで息が切れた。
出血が、またはじまっている。
視界が明滅した。
敵兵たちは怯えたようにおまえを遠まきにしていたが──いま襲ってこられたら、避けれらない。その事実だけは、おまえの意識にはっきりと浮かんでいた。
──ここまで、か。
悔しさはない。
やりきった、という思いだけがある。
戦えるところまで、戦った。
目的も、果たした。
夢みる熊なら、これだけの時間があればじゅうぶんに逃げおおせただろう。時間かせぎは、じゅうぶんに達した。
空を、見上げる。
視覚は平常にもどったはずなのに、くもって見えた。
──きり、だ。
──おまえ、ようやくきたか。むかえに、きたのか。
かえってきた答えは、否、だった。
なぜか、わかった。
──ちがう? なにが、ちがう?
──つれてきた? いったい、なにを。
回答は、ほとばしる鮮血だった。
霧のなか、すがたが見えにくくなった敵が、つぎつぎと血を噴きあげて斃れてゆく。悲鳴が、霧をかきまぜてゆく。
なにかが、いる。
霧のなかに、なにかが。
黒い影が、ふたつ。
見上げるような巨躯と、すばやく駆けまわる、ちいさな影。
やがて、動きが止まる。
霧が、晴れる。
黒衣をまとった少女が、ふたり。
それが、“つれてこられたもの”の正体だった。さきほどの巨漢は、どうしたわけかもういない。人なつっこそうなほほえみをうかべた少女と、するどい小刀を思わせる剣呑な空気をまとった少女の、二人組だけだった。
剣呑なほうの少女が、一歩すすみ出る。
おまえが、白い牙か。
聞こえた。
声が──である。
むろん、おまえの耳は利かないままだ。
声は、おまえの頭蓋のなかに直接響いてきたのだ。
音声と、それが形容することばの意味の接続にも、まったく違和感をおぼえなかった。じっさいに耳で声を聞いたのだとしたら、いくら兄が教えようと努めてくれていたとはいっても、これほどすんなりと理解できなかっただろう。
──なんだ、これは。
声だ。わたしの持つ、ちからだよ。
わたしは、おまえに対してうなずいてみせる。
白い牙で、まちがいないな?
──ああ。だが、おまえはなんだ。
グレイスだ。まだ、何者でもない。
なにも、成していないんだ。
これからやりたいことは、あるが。
──やりたいこと?
まずは、あの二人を保護させてほしい。
……誤解しないでくれ、わたしはKKKじゃないよ。
KKKはおそらく、わたしたちの共通の敵だ。
だいじょうぶ、逃亡者を保護するのは手慣れてる。
地下鉄道という名を、聞いたことは?
──ない。
かんたんに説明すると、洞人の互助組織だ。
とはいうものの、いまは復興中だけど。
──ふたりを、どうする。
どうもしない。ただ、彼らも洞人だ。
おまえもな。だから、この声が聞こえる。
洞人であるからには、われわれには手をさしのべる責務があるんだよ。
──ふたりは、わたさない。
それなら、それでももちろん結構だよ。
自由意志を、さまたげるつもりはない。
ただ、この共同体を防衛するための戦力は足りていないだろう?
われわれの兵を、すこし残していく。
ここを特定したKKKの連中はすべて始末したし、
本部へ報告に走った使者もすべて途中で討ち果たしたから、
しばらくは安心していいが──まだいつ手が延びてくるかは、わからない。
兵が住むための家は、かなり余っていそうだ。
さしつかえなければ、畑も広げさせてほしい。
そうなれば補給をかんがえずともよくなるからね。
かまわないか?
──なんなのだ、おまえは。なにが目的だ。
目的は同胞の援助だが……
今回にかぎっては、おまえだ。白い牙。
──わたしを、どうしたい。
おまえが、ぎり、と歯を食いしばるのを、わたしは見る。
──わたしをかいならすつもりなら、あきらめろ。
──わたしはもう、いぬじゃない。
──わたしは、おおかみだ。
──だれもひつようとしないし、だれにもしっぽをふらない。
ああ、それでいい。
それだからこそ、おまえに会いにきたんだ。
狼、と言ったな。
狼は、ほんらい群れをなす生きものだ。
独りでは、生きてゆけない。
だが、群れにはかならずアルファがいる。
おまえには、アルファとなってほしいのだ。白い牙。
おまえが、敵愾心を解いていくのを、感じた。
洞人はな、白い牙。ほとんどが、奴隷だ。
わたしは彼らを解きはなちたいのだが……
彼らの鎖は、心のなかにある。
心が、飼い慣らされているのだ。
ほんらいの野生を、かんぜんにうしなっている。
もしも、おまえが協力してくれるなら……
彼らに、“野性の呼び声”を、聞かせられるかもしれない。
わたしは、手をさしだす。
この共同体の防衛を、地下鉄道が支援する。
代わりに、心を鎖で縛ってしまった犬たちを、解きはなってほしい。
狼に、もどしてやってほしい。
おまえは──
わたしの、手をとった。
──まずは、めしだ。
めし?
──くわねば、はなしはできん。はらが、へった。
そのことばを裏づけるように、ぐう、と白い牙の腹が鳴った。
わたしの隣で、セイラが笑うのがわかった。




