010 kiss me
おまえは、いまやもうふらつかない足で、屋敷へと向かった。
すでに日が高い。
あと一時間もしないうちに、昼食の時間になるほどだ。
しかし、ほとんどの日において、旦那さまがたの朝は遅い。母もつとめを終えて奴隷宿舎に帰ってくる日は、ほとんど、いまぐらいの時間だった。いまから思えば、旦那さまの寝室で過ごす時間だったのだろうが。
はたして、旦那さまは寝室にいた。
「ほう、もう来たのか。グレイス」
旦那さまは、白いシーツのあいだから毛の生えた胸を覗かせながら、笑う。
「よほど、きのうの晩が忘れられなかったと見えるな」
寝台の脇から、そそくさと下着すがたの洞人女が立ち去っていく。すこし薹が立った、年増の奴隷だ。きのうは、おまえひとりでは飽き足らなかったのだろう。
いまさら、どうというふうにも思わなかった。
「母が、死にました」
「ほう」
旦那さまは、「収穫作業が一段落しました」とか「牝牛が子を産みました」ぐらいの報せを受けたかのような顔で、そう言った。
「それは、残念だ。
まことに、惜しい」
語感をたしかめるように、言う。
「葬儀の差配をしてやらねばなるまいな。マリアは屋敷のなかでは白眼視をされておったようだが、奴隷宿舎のなかには、弔ってやりたいものもあるだろうしな。
気を落とすでないぞ、グレイス。
母をうしなう痛みは私もようく分かっておる。なに、おまえのこれからについては心配いらぬよ。私がしっかりと責任を持って、めんどうをみてやろう。親代わりにな」
さいごのことばを付け足すとき、口もとが皮肉な笑いに歪んだのを、おまえは見届けている。
「さ。こちらへ来なさい。
哀しみのなかに放りこまれているときには、人肌のぬくもりがいちばんの薬だ。私が傷ついたこころを癒やしてやろうとも」
おまえは、なにも言わない。
なにも言わずに、寝台のそばへとにじり寄る。旦那さまが馴れ馴れしく肩に回してきた手を、振り払うこともしない。おまえのからだは寝台へと上げられ、旦那さまの膝へと座るよう促された。
「ふふ、素直がいちばんだ。
やはり、血は争えぬな。マリアもさいしょはかたくなで困ったものだが、二度目には従順になった。女とは、こうでなくては」
旦那さまのなまあたたかい息が、鼻先に当たってくる。
嫌悪感を、おまえは眉尻にさえ出さない。太い指が髪の毛を撫でさすっても、動かない。尻の下に、だんだんと硬さを増すおぞましい感触が伝わってきても、動かない。
おまえは、旦那さまの顔を見上げる。
媚びがふくまれた上目づかいなど、おまえは、これまでの人生で使ったことはなかった。けれども、それが欲情を煽るのだろうということは、なんとなく分かった。旦那さまの瞳がぎらつき、唇が近づいてくる。
その鼻先に、紙片を突きつけた。
「……なんだね、これは」
旦那さまが紙片を受け取る。
おまえは膝の上から腰を上げると、すこしだけ離れた。旦那さまの表情の変化を、見るために。
「手紙です」
おまえは言う。
「ニューヨークの父から母に宛てた、手紙です。書きかけですけど」
「ふうむ」
旦那さまは訝しげに首をひねる。
「だが、この字は……」
「そう、──母の字、です」
おまえは、知っていた。
母の字は、つねにかたわらで見つづけていたからだ。父にどんなことばを返すか、おまえからの「愛してる」をどのようなことばで伝えるか、ふたりで相談しながら、手紙の返事を書いたのだから。あの時間は、希望と愛に溢れていた。おまえにとって、宝物のようなひとときだったのだ。
だから。
母の字は、ひと目で分かる。
「ほう、そういうことか」
気づいて、旦那さまは笑う。
「マリアめ、そんなことをしていたのか。これは驚きだ。知らなかった。あれほどおおくの時間をともに過ごしても、やはり知らない一面というものはあるものだな。……まさか、夫の存在をいつわるとは!」
その通りだ。
母の字で書かれた、父からの手紙。それが意味するところとは、文通そのものの捏造だった。
母は、手紙のやりとりなど、はじめからしていなかったのだ。
文案をじぶんで考え、字の書ける奴隷に代筆をたのみ、父からの手紙を捏造した。屋敷宛てに届いた郵便として、それを持ち帰り、おまえに見せて、喜ぶふりをしていたのだ。
「じぶん宛ての手紙を、じぶんで書いていたのか。なんとまあ、いじましいというか、みじめたらしいというか……。
ほほう、これはすごい。
グレイスよ、おまえの父は自由洞人なんだと! じぶんで働いて得た金で、じぶんの自由身分を買い取ったのだと! これほどおかしな冗談は、いままで聞いたことがないな!
いいかねグレイス、よく覚えておきなさい。
あの“内戦”が休戦に至った直後、まもなく決議された法案で、奴隷身分のものが自由身分になることは、連合国法でかんぜんに禁止されておるのだよ! そもそも財産を私有する権利さえもが、おまえたち奴隷には認められておらん。金を貯めてじぶんの自由を買い取るなど、現実にあり得んのだ! ……そんな幻想を、おまえたち奴隷のなかでは信じこんでおるのか? やはり奴人! しょせんは蛮人の域を出んなあ!」
からからと、ほんとうに面白そうに、旦那さまは嗤った。
グレイスよ。
おまえにとって、そんな屈辱はもはやどうでもいい。気になっているのは、ただひとつ。じぶんの洞察が、正しかったのかどうか。じぶんの推測が、真実であるのか否かだ。
「さてさて、これほど面白い手紙。ぜひとも夜会で友人たちにも披露したいところだな。こっそりと手紙のやりとりなどをしていたとすれば、マリアを鞭打たねばならないところだが……あいにく、じっさいには手紙など一通も出しておらんのだからなあ! まったく、なんという冗談だ!」
「旦那さま、」
おずおずとものを尋ねる、無知な奴隷の声に聞こえるように、おまえは声を挟む。
「……それで、その。
母の夫というひとは、ほんとうはいったいどうしているのですか?」
「いやはや。これが重ねて笑えることにだな、マリアを買い取るまえに、もう死んでしまっておるのだ」
旦那さまは、くつくつと笑う。
「十五年まえになるのかな。当時十になるかならぬかであったマリアと、あの餓鬼はすでに婚約しておったのだそうだ。私がマリアだけを買おうとすると、けんめいにじぶんを売り込んできおったよ。しかし痩せっぽちの餓鬼を買うほど、私も買い物下手ではないのでな。
私に買う意志がないと分かると、奴隷のぶんざいで怒り狂ってな。私に手をかけようとしてきたから、うっかり筆杖を振るってしまったのだ。奴隷商人が話のわかる紳士でなかったら、あの餓鬼の代金まで払わされるところだった。いやあ、あの時は焦ったものだよ」
「十五年まえ、とおっしゃいましたか」
「ん?」
「母は、十であったと、おっしゃいましたか」
おまえのしずかな声に、旦那さまはようやく目を向ける。
抱いた疑惑が、だんだんと輪郭を得はじめていた。幾重にも貼り付けられた哀しい嘘の衣が、一枚ずつ、剥がされていっていた。
「十五年まえに、父は死んでいました。
わたしは、十二になります。
……計算が、合わなくなります」
「……ほう」
旦那さまは、興味ぶかそうに、おまえを見つめかえしてくる。
ようやく、過去ではなく、おまえに対して関心をそそられはじめたように。
「旦那さまは、」
おまえは、震えはじめた声でつづける。なるべく、よけいな感情が先走らないように、気をつけながら。
「……母にお手をつけられたのは、十三年まえだとおっしゃいました。
母はそのとき、処女であったとも、おっしゃいました」
「そのとおりだ」
平然と、旦那さまはうなずく。
おまえは、続くことばに迷った。旦那さまは、やはりすべてを知っていたのだ。そう分かって、もはやなにを追及してよいのかすら、見えなくなった。旦那さまの目に、揺らぎはなかった。いっさい、なかった。
「……あなたは、」
ようやく、絞り出した。声がかすれた。
「母を、愛したことはなかったのですか?」
「私が?」
驚いたような表情をわざとらしくつくってみせながら、旦那さまは言う。
「なにを? まさか! 愛していたとも!
私は愛していたさ。
貴族とはもともと、愛が広い人種なのだよ。おおくの異性を愛し、おおくの異性に幸せをもたらす。それが貴族の責務であると言えるのだ。平民や奴隷たちはただひとりの人間しか愛せないと思い込んでいるようだがね。私たちに流れる青い血は、大きな感情を、いくつもの激情を、肯定するものなのだ。
マリアを、私は愛していたとも」
旦那さまが、おまえににじり寄ってくる。
潤んだ瞳で、おまえを見つめながら、両手をおまえの肩へと掛ける。
「そして。おまえのことも、これから愛してゆくつもりだよ。マリアをうしなったことは、われわれふたりにとって、大きな哀しみだ。手を取り合って乗り越えてゆこう。だからグレイスよ、おまえも、私を愛しておくれ。私を慰めておくれ。私のこころを支えておくれ。
さあ――」
旦那さまのからだに掛かったシーツが、すべり落ちる。
あらわになったのは、きのう以上に硬く屹立する、みにくいもの。旦那さまはそれを見下ろし、おまえへと笑いかける。
「口づけておくれ、かわいい娘よ」
おまえの動きは、完璧だった。
スカートをまくり上げた。瞬間、シーツに落ちた手斧に旦那さまが目を剥くより早く、それを拾い上げると、天向けて屹立するけがらわしいものへ刃先を向け、斧頭を渾身のちからで叩いた。
鮮やかな切断面から、血が噴出した。




