106 白い牙9/ひとりじめ
三人の旅がふた月を超えたころ。
森林の奥で、静かな川が足を止めた。すっかり流暢になった手話で、おまえに言う。
『結界だ』
『けっかい?』
『先住民が、村からよそものを遠ざけるのにつかう呪術の一種さ。ここから先に、共同体がある』
『ひとのけはいは、ないぞ』
『ああ。ぼくも感じない。……入ってみよう』
静かな川が、夢輪とよばれる曲げ木の輪をとりだすと、周囲の樹々にかざし、いくつかの呪文をとなえた。
周辺の風景から、いくつかの色がこそげ落ちたように感じた。
静かな川につづき、夢みる熊とおまえとが、奥へと歩んでゆく。
廃村、である。
打ち捨てられて、すでに百年は経っているだろう。樹上に建てられた小屋はほとんどがくずれ、なかば蔓草にのみこまれている。破損の仕方は、戦闘によるものではないように思えた。どちらかといえば、人口の減少と合わせてすこしずつちいさくなっていた村が、ついに住むものをうしない、自然に還ってゆくままに任されている――といった印象だ。
立ち尽くしている静かな川を、そっと見やった。
さみしげな目で、廃村をながめている。
――おまえは、むらをおわれたのだったな。
そう、思い出した。
夜の語らいのなかで、静かな川自身がそう語っていたのだ。
彼の祝福――『霧の息吹』のさいしょの発作がおとずれたのを見た村人は、三日三晩の祝祭ののち、この細い男を居留地の外へと送り出した。
わずか、三日だ。
家族と別れを惜しむ間も、なかった。祝祭の主役として、三日三晩ずうっと宴の中心に置かれていたからね、と語った静かな川の横顔に、ひどくさみしそうな笑みが浮かんでいた。
いまの顔は、そのときの印象とよく似ている。
『みんな、死んじゃったの?』
不安そうに訊いた夢みる熊の頭を、静かな川はくしゃくしゃと撫でる。
『まさか。先住民のなかには、精霊を知覚できるものがいるからね。精霊がより清浄な地に移動しはじめて数を減らすと、その村はすこしずつ、精霊のあとを追うように動くのさ。ここはそうした村の、跡地だ』
『静かな川も、そういうふうに村を動いたの?』
『いいや。いまはぼくたち先住民は、居留地をうごくことを許されていないんだ』
『どうして?』
『どうしてだろうね』
夢みる熊は、首をかしげた。
その頭を、静かな川の手のひらがもう一度なでた。
ひどく朽ち果てて原型をとどめていないとはいえ、ここにひとが暮らしていたこともまた事実だ。近場にはちいさな河川が流れているのも見つかったし、畠は耕しなおせばじゅうぶんに作付けができそうだと静かな川が請け負った。樹上の家は、さほど傷んでいない板材を寄せあつめれば、一軒ぐらいであれば直せそうに見えた。
さすがはかつて先住民にえらばれた土地で、森の奥深く、ひとが立ち入りにくい場所でもある。くわえて、静かな川が夢輪をつかって結界をはりなおすと、ひとの気配をわずかでも感じることは、まるでなくなった。
定住。
そう決めてしまうと、すべきことは無数にあった。
畠から石くれをどけ、雑草を刈り、柄をつけなおした鍬で土を根気づよく耕す。
静かな川が選んだ樹を伐りたおし、板をつくって乾かす。
朝になれば水を汲み、夜になればつかった水を畠に流す。
静かな川がけものを狩ってくれば皮を剥いで干し、肉を切って岩塩を詰めた樽へと収める。
糞尿は畠の横に掘った穴にあつめ、ごみやけものの臓物をくわえて、日に一度棒でかきまぜては熟れさせる。
一日一日はおそろしく緩慢で遅々たる速度ですすみ、だというのに、季節が移り変わってゆくのはいっしゅんだった。おまえの狩猟向きの肉体は、はじめのうちとほうもない体力を要する農民の仕事に根をあげたが、すぐにからだができはじめた。さいしょのうちは一時間も鍬を振るうとその日一日つかいものにならなかったのに、いまでは夜明けから日暮れまで開墾をおこなっても体力を残せるようになった。夜なべをして縫い物や繕い物をしたり器を焼いたりする方法は、すべて静かな川に教わった。
おまえのからだはずいぶん日に灼けて洞人らしさを増したし、夢みる熊はすこし肥って肩まわりががっしりとしはじめた。
しかし、静かな川だけは、すこしずつ、だが確実に痩せはじめていた。豆類が収穫時期を迎えると、その成果によろこび、以降は肉を口にすることがなくなった。
『豚は飼えばいい。小屋のなかに藁を敷いてやれば、それが熟れて堆肥の足しにもなる。冬がくるまえに潰して、塩漬けにしておけばいいんだ。冬のあいだじゅう、脇肉のベーコンにありつけるよ』
そうほほえむ静かな川は、しかしじぶんではひと切れも食べないのだ。こけた頬が、見る目に痛々しかった。
狩りに出ることが減った。
夢みる熊がひとりで捕まえてきた野兎のおおきさを、何度も何度も褒めていた。
発作の回数が増えた。
はじめは数十分ていどで正気にもどっていたのが、いまでは数時間うわ言を言いつづけるようになった。
時期は、そうとおくはないようだった。
*
夜だった。
すでに夢みる熊は名のとおり夢の世界へと旅立っていて、おまえと静かな川とはしずかに揺れる蝋燭の明かりを見ながら、寝るまえの時間を過ごしていた。きょうは縫い物がなかったし、刃物もひととおりを研ぎ終えてしまっていたから、やることがなかったのだ。
こういう手持ち無沙汰の時間に、おまえはほんのすこし林檎酒をたしなむようになっていた。収穫から数日置いた林檎を押しつぶして絞った果汁を樽に入れ、砂糖をくわえて六時間置くと、もう発酵している。これを瓶に詰めて半年から一年ほど熟成させれば、なかなか風味ゆたかな林檎酒ができているのだ。アルコール度数のひくいこの酒なら、静かな川もまだ愉しむことができていたから、おまえたちふたりにとっては貴重な晩酌時間の供となっていた。しかし酒精に元来よわいおまえには、このていどのものであっても足元をふらつかせた。それを見て静かな川が笑うのもたのしくて、晩酌はやめられなかった。
この夜も、林檎酒の瓶をふたりでひとつ空けていた。
夢みる熊の話で、ひとしきり盛り上がったあとだった。この少年は、定住してからみるみる伸びはじめていた。静かな川の持つ農耕の知識もほとんどを身につけていたし、棒を持たせて打ち掛からせると、おまえの目にもおやと思うものが光る。飛礫の打ち方を教えると、毎晩のように仕事を終えてから自主練習にはげみ、いまでは十歩離れた地点から兎を仕留めることができるようになっていた。農耕のほうは知らないが、こと戦闘技術にかんしては、天稟といっていいものがあることはうたがいない。そう、おまえは見ていた。
『そういう話を、どうして本人に伝えないのさ』
『ちょうしにのる。すると、よわくなる。そういうものだ』
『すこしぐらい調子に乗らせてやりなよ。あの子は、きみに認められたがってるんだ』
『つよくなったら、みとめてやる』
『きみよりもかい?』
『ひととくらべるつよさにいみなどない。おのれひとりでたてるからこそ、つよいのだ』
『知らないけどさ』
『よわいおまえには、わからない』
『言ったな』
こうした軽口の応酬も終え、二本目の林檎酒もなかばほどを飲んだところで、ふいに沈黙がおとずれていた。もうすぐ、眠ろうとどちらかが言い出す。すると、あきらめて寝床にもぐりこむことになる。
だが、なんとなく、いい夜だった。
どこが、どう違うというわけでもない。説明はできない。しかし、なんとなく心地のよい夜だった。それを終えてしまうのが惜しくて、ふたりはなんとなくだらだらと飲みつづけてしまっていた。
と。
『……もうすぐ、だと思う』
静かな川が、言い出した。
『もうすぐ?』
『もうすぐそこまで、霧の精霊が来てる。そんな気がするんだ』
酔いが、いっぺんに醒めた。
なんでまたこんなにいい夜にそんな話を持ち出さなくちゃならない、と憤りが吹き出しかけたが……静かな川の横顔を見て、気がついた。
――こんなよるじゃないと、はなせなかった。
なら、聞こう。
おまえはそう決めて、つづくことばを待った。
『霧の精霊は、場所をもとめる。そういう話は、まえにしたよね。どうやら、この村は“ぼくの場所”としてえらばれたらしい。
運がよかったよ。さいごを過ごすには、これ以上ないほどおだやかで、すてきな場所だ。きみたちも、いてくれるしね。
でも、きみたちふたりには、迷惑をかけてしまうだろうな。じきに、ぼくは歩けもしなくなると思うから』
『……たすからない、のか。どうあっても』
『運命は変わらないよ。ぼくがいなくなるっていう結末はね。でも、これは死じゃない。ぼくは変身するだけなんだ。霧に、なるだけなんだよ』
『いいや、それは“し”だ。おまえが、どういうふうにいいかえても、かわらない』
『……ひどいな。白い牙は』
『わたしは、ひどいんだ。わたしは、ゆめなどみないから。だから、てだてなどえらばない』
めずらしく、おまえの“口数”がおおくなっていた。
じぶんがむきになっていると気づいていたが、止めることはできなかった。
『なにか、ないのか? さだめをくつがえすわけでなくとも、すこしでもおわりをとおざけておくてだては、ないのか?』
『ないね。すくなくとも、ぼくは知らない』
『はやすぎる。いくらなんでも。あのこは、おまえをなくすことを、まだうけとめられない。にども、ちちおやにしなれることを、まだ、うけとめきれない』
『やさしいね、白い牙は』
うっすらと静かな川はほほえみ、おまえは胸が突かれたように息を詰めた。
『きみは、じぶんのことを愛情がうすい人間だと思いこみたがっているようだけど、それは無理があるよ。ぼくに言わせれば、きみほど愛情ぶかい人間はいやしない。あの子は、いい母親にめぐりあえたね』
『ははおやなどと』
『あの子にとっては、そうさ。だがきみという人間は違うね。たったひとりの母親なんてものに収まる器じゃない。きみの愛情は、きみの連れる群れすべてに向けられている』
『むれ、か』
『狼はね、いちばんつよい雄をリーダーとして、群れが成立しているように思うけど、ほんとうは違う。群れをささえているのは、一頭の雌なんだ。
きみはたぶん、そういう存在だ。とても素敵だと、ぼくは思う。そういうふうにひとの力になっていくきみを、誇りに思うよ。
……だから。
これから言うことはたんなる、ぼく個人のわがままだ』
静かな川が、おまえの目を見据える。
『きみを、独り占めにしてみたかった』
緑がかった瞳が、おまえをまっすぐにとらえている。
しばらく、見つめかえした。
語ろうとして、おまえは手を上げた。
やめた。
もちあげた手で、静かな川の頭をなで、手のひらでうながすようにして、じぶんの膝のうえへとみちびいた。静かな川は、されるがままに、おまえの膝へと頭を乗せた。これまでも発作が起きたときには、何度か膝のうえで寝かせてやったものだ。
意識を保っている彼にそうしたのは、はじめてだった。
静かな川は身をよじり、顎の下からおまえを見上げる。緑がかった瞳で、見上げる。そのくちびるが、そっと、ことばをかたちづくった。
「きみは。
笑うのが、ずいぶん得意になった」
たまらなかった。
おまえは、おそらく生まれてはじめて、戦い以外で衝動に身をゆだねた。




