104 白い牙7/おおかみ
若旦那さまは、爪を噛んでいた。
白い牙を、見うしなっている。
いっしょに飛び出していった犬どもも行方が知れず、口笛にも応えない。同行者たちも、苛立ちはじめていた。
白い牙は口笛など聞こえないから、とおくから呼びかける手段などない。
こころなしか、白い目を向けられているような気さえする。
このあたりは、若旦那さまの保有地だ。
あの奴隷の餓鬼を都合したのは同行者のひとりで、費えの負担を平等にするため、持ちまわりでサークル員が獲物を用意するのがこのサークルの暗黙の了解である。
今回にかんしては初の参加ということもあり、若旦那さまが有利となる舞台をえらんでくれたわけだが――そのぶん、やってきたサークル員たちを先導する役割は担わされている。
だというのに、犬たちをまるごとはぐれさせてしまったのだ。
焦りは、一秒ごとに増してゆくばかりだった。
政治的な意味でも、このサークルに名を連ねるメリットはおおきい。目の下をおおう垂れ布のせいで正体は判然としなかったが……こういった秘密倶楽部で、ひと知れぬ愉楽をあじわっている人びとというのは、あらかたの享楽を舐めつくした、南部でも指折りの富豪たちと見て相違ない。ここでうまく振る舞えば、あらゆる出世への近道が開けるかもしれないのだ。
――だからこそ、この失態はまずい。
主催者として、こんな興ざめな状況を招いたとあっては、評価は下がってゆくいっぽうだ。噂の白い牙の飼い主ということで、せっかく積み上げてきた声望を、一秒ごとに使い減らしている。
くわえて始末に終えぬことには……若旦那さまは、道さえも見失いつつあった。この森で狩りをするのはもう何度目か分からぬほどではあったが、ふだんはくつわを取る召使の誘導にしたがっていただけだ。
召使もいない、夜闇のせいでふだんと風景がまるで違うとあっては、迷わないほうがふしぎだった。
こうして訳知り顔で馬をすすめてはいるが、背中には冷や汗がにじみつづけていた。
「おおかた、この先でしょう。
ひらけた空間がありまして、そこに追いつめているやもしれませんからね……」
もごもごと苦しまぎれをつぶやきながら、木々を抜ける。
崖、だった。
断崖といってよい高さで、数十フィート下にようやく地面が見えている。どれほどの名手であっても、ここを馬で駆け下りるわけにはいくまい。行き止まりだった。
「ひらけた空間、ね」
「たしかに、眺望は抜けておりますがな」
笑いをともなわない、つめたい皮肉が背中に投げつけられる。
ふりかえる勇気も出なかった。崖の下を、なにか調べるような風をよそおって眺めつづけていたが、ここを下りることが叶わない以上、馬首をかえして元来た道を戻るよりほかはない。
それを、どんな顔で言い出してよいのかさえ、若旦那さまには分からなかった。
と。
がさり、という音がした。
ふりむくと、白い牙がそこにいた。
わずかに返り血を浴びていて、片手に引きずるようにして子供を連れている。まさしく、獲物の奴隷少年だ。
――しめた。
「おお! ようやく来たか、白い牙! 打ち合わせのとおり、この場まで連れてきたのだな……いやしかし、おまえも気が利かないなあ。そのようにずたぼろになった“獲物”をひきずってこられては、興が削がれるじゃないか、ええ?」
安堵の声をおくびにも出さないよう、無理に顔をしかめてみせながら白い牙を叱り飛ばした。そうしながら、横目で同行者たちをうかがう。覆面のせいで目しか見えないために、この流れがどう受け取られているかは分からなかった。
若旦那さまは、彼らのほうをふりむいた。
「失礼しました、みなさま。どうやら“獲物”はつかまえたようですが、なにぶん犬にひとしい野蛮人なりの頭しかありませんから、こんな体たらくでしてね。……おや、みなさまの犬は戻っておりませんね。
おい白い牙、ほかの猟犬はどうした?」
『もう、もどらない』
「はあ? よせよせ、その手振りはわからないとまえから言ってあるじゃないか。それより、」
つづけようとしたことばが、断ち切られた。
風切り音とともに、なにかが飛んできたのだ。
ずぶ、という音とともに、まわりで同行者たちが馬から落ちてゆく。いっせいに地面へと倒れ伏していた。
泡を食って見まわす。
サークル員たちは、みな喉に投擲用の細いナイフを突き立てられていた。主人をうしなった馬たちが、困ったように歩きまわっている。
白い牙を見た。
投擲後の姿勢からゆっくりともどり、胴巻きから投擲用ナイフをもう一本、抜き取った。目が、合った。
「ひあっ!」
あわてて、馬を竿立ちにさせた。
意図したことではなかったが、投げられたナイフは馬体の胸部へと吸い込まれ、馬がかんだかいいななきとともに斃れていった。投げ出された若旦那さまのからだが地面を転がる。そのまま浮遊感とともに崖から落ちかけた。
淵に生えていた灌木の根に、いっしゅんからだがひっかかる。
その機に、筆杖をとりだした。
根が折れて、かんぜんに足場をうしなうまえに、かろうじて、真述の鎖を喚び出せた。
鎖は緑色にかがやきながら顕現し、白い牙の首輪と筆杖とをつなぐと、若旦那さまのからだを空中でつなぎとめた。
振り子のように、ぶらん、と揺れた。
「ひぃっ!」
真述の鎖は、切れない。
いくら負荷がかかっても、ちぎれてしまうことはない。
頭ではそう分かっていたが、恐怖は別だった。
もう片方の手でなんとか鎖をひきよせ、ぐるりと手首にまきつけた。ほんのすこしだけ、息をつくことができた。
見上げた視界に、白い牙が映る。
こちらを覗き込むように見下ろしている奴隷の首には、鋼鉄の首輪がはまっていて、筋肉が隆起した太い喉元に血管が浮き上がっているのが見えた。
――こいつの首ひとつに、僕は支えられている。
そう気づいて、総毛立った。
「ひ、引き上げろ!」
上ずった声で、若旦那さまが言う。
しかし白い牙は、したがわない。
耳をしめしてみせ、わざとらしく顔をしかめてみせる。聞こえないと分かっているでしょうに、とでも言いたげな顔だ。
「ふざけるな、早くしろ! おまえはくちびるが読めるだろうが……! ひ、き、あ、げ、るんだ! ひ、き、あ、げ、ろ! 分かるだろ、おい!」
なおも白い牙は耳を示している。
「くそ! 馬鹿かおまえは――このままだと僕だけじゃない、おまえも落ちるんだぞ! その首輪が見えないのか――ほら、首輪だ! く、び、わ……そう、それだよ!」
いま見つけた、とでも言わんばかりに、白い牙は首輪を指さした。
若旦那さまが安堵の笑みをこぼしかけたつぎのしゅんかん、この奴隷は信じがたい行動をとった。
首輪を、ねじり切ったのである。
強靭な拳に血管が浮き出、傍目にもおそろしいほどの握力がこもったかと思うのもつかのま、太い指先がまるで紙をそうするかのように、鋼鉄製の輪を千切ったのだ。輪のかたちをなさなくなり、首元からときはなたれた残骸を、白い牙が指先でつまんでいる。ぶら下げている。
その先には、むろん、じぶんのからだがある。
若旦那さまは、ようやく悟る。
おのれの運命は、この奴隷の運命とともにはない。ただ、この奴隷の掌中にあるのだ。文字どおりの意味で。
「――ひあっ」
あまりの恐怖に、それ以上の悲鳴は出なかった。
白い牙の腕は、まるでなんでもないものであるかのように、真述の鎖を持っている。片手で、天人の成人男性ひとりぶんの体重をささえているというのに、まるで苦にしたようすもない。このまま保持しろと言われれば、何時間でも持っていられそうな風情である。けれども、引き上げるようすはみじんもない。まるで呆けたもののように、その鎖を、しげしげとながめている。
「ふっ、ざけっ」
若旦那さまはひきつけを起こしたかのように、きれぎれに叫ぶ。
「ふ、ざける……なっ! あそんでる場合じゃないんだ、さっさとひきあげるんだ、なあ、分かるだろ! おい、こっちを見ろ! 僕のくちびるを読むんだよ! そうだ、こっちだ――たのむよ、僕がわるかったから、ひきあげてくれ……、ひ、き、あ、げ、て、く、れ……た、のむ……あ、げ、て……」
おまえは依然として顔をしかめている。
こんなにも、ことばが伝わらなかったことなど、若旦那さまの経験にはない。こんなにも白い牙がしたがわなかったことも、ない。すこしでも聞き逃すようなら、容赦なく鞭をふるって顔をなぐりつけたものだ。だから、若旦那さまはこのような状況に、慣れていない。
片手をさしあげて、おまえは言う。
『しゅわでなければ、わかりません』
「頼む……僕がわるかった……」
『しゅわで、どうぞ』
「僕とおまえの仲だろ……? なあ……僕はおまえを、かわいがってやったろ……?」
涙をながし、しゃくりあげる。
「たのむよ……お願いだ……。
おまえは僕の忠実な、かわいい犬だろ……?」
そのことばを聞いたしゅんかん、白い牙が表情を消す。
ことばが分からぬふりもやめて、つめたいまなざしで、若旦那さまを見下ろした。
『わたしは、いぬではない。はじめから』
『わたしは、おおかみだ』
手を、はなした。
*
谷底でぐしゃりと音を立て、ひらたい岩のうえに赤い花が咲いた。
それを見届けたのち、おまえはふりむく。
天人たちの屍体のなかで、少年がふるえている。
屍体のひとつから、絹服の端をちぎりとった。怯える少年へと近づき、その耳に手ばやく包帯をほどこした。手当が終わると、少年の目を見て、こくりとうなずく。
少年は、うなずきを返した。




