103 白い牙6/犬狩り
かくして、おまえのような“猟犬”を持とうとする天人は、若旦那さまを除いていなくなり、若旦那さまの立場は盤石となった。
週に一度は、だれかにぜひにと乞われて狩猟へゆく。
そこで白い牙があざやかな手際を披露してのけ、感嘆の声を浴びる。
こうしたルーチンが、若旦那さまの生活の基盤となった。
しぜん、狩りに出張る機会が増えたために、若旦那さまの食欲は旺盛となり、南部の旦那衆らしい恰幅の良さを勝ち得ることにもなった。猟果の肉はおまえにも分け与えられたから、おまえの隆々たる筋肉は、いまやはちきれんばかりとなっていた。
しかし、
人間とは、ぜいたくなものである。
慣れは、ときを置かず飽きへとつながる。
若旦那さまは、飽きた。
うなるほどの猟果にめぐまれるのも、人びとの称賛を受けるのも、どっさり積み上げられた肉の処分に頭を悩ませるのにも、うんざりしはじめたのだ。
そもそも、狩猟のたのしみとは『獲れるかどうか分からない』という点にある。約束された肉など、うれしくもなんともない。この点、猟をなりわいとしている漁師たちとは異なる。貴族にとって、猟とはあくまで愉しみであり、獲れようと獲れまいと生活にはかかわりがない。
“安定”ということばは、むしろ忌避すべきものなのだ。
週に一度の猟は、だんだんとペースを落としていった。
もともと、からだを動かすことそのものを好まない若旦那さまであったから、その“だれ”は通常よりも早かったのだ。
そこに――
とある、秘密のサークルが接触を果たす。
「ふつうの狩りには、飽き飽きしてらっしゃるのでは? ここはひとつ、私たちのやりかたを試してみませんか? スリリングさにかんしては、保証いたしますよ……」
遠回しで、迂遠な説明の真意をようやくつかんだとたん、若旦那さまは手をたたき、勧誘者の握手に応じた。
ぎらりとかがやいた若旦那さまの目は、あの夜、ポーカーに奴隷を賭けようという申し出を聞いたときとおなじ色だった。
*
めずらしく、夜の狩りだった。
問題はなかった。おまえの夜目はじゅうぶんに聞いたし、耳に頼る必要もなかったから、えたいの知れない物音に怯えることもない。おまえが見る森は、昼間と変わらぬ情報量を孕んでいる。
だが、奇異である。
若旦那さまは、虫を憎む。松明をかかげるせいで近づいてくる蛾に悩まされる夜の狩りは、ことのほか嫌っていたのだ。
なのに今夜は、やけに昂揚している。
ふつうの猟犬をともなった同行者たちも、目のしたに布を垂らすようにして顔をかくしていたから、どこのだれとも知れない。
ふだんは何人も連れている召使も、今夜にかぎっては、だれひとり同道させていない。
猟犬たちを、おまえは見下ろす。
ごくあたりまえの猟犬どもにも見えたが――やけに、凶暴そうに見えた。よだれを垂らし、たがいに噛み合わんばかりに牽制し合っている。
――えさを、あたえられていない。
おまえは気がつく。
おそらく、数日にわたって肉片ひとつも投げ渡されていない。空腹のまま保ち、より凶暴さを増すように仕向けている。たとえば熊などの大型の獲物を狩るまえには、そうした準備をする例がなくはない。
だが、このあたりの森に、いまじぶんの季節に、そうした大型の獲物が出るはずもない。
そこまでの準備を猟犬にととのえさせる意味が、読めない。
合点のゆかなさを持ったまま、おまえは歩く。
つきしたがう。
と。
犬の一匹が、反応をしめした。
においを嗅ぎつけ、走り出す。猟犬の背に、覆面の同行者のひとりが「足止めして、仕留めるな!」と叫んだ。
若旦那さまもあわてたようすで筆杖を振るい、真述の鎖をときはなった。
おまえも、駆け出す。
ゆうゆうと、猟犬たちに並走した。
犬どもがにおいをつかんでいる獲物の所在を、おまえもすでに視力でとらえている。
森のなかの草むらが、風ではないものに揺れているのを、とらえている。
走る。走る。
段差があった。
おまえは脇に生えていた灌木を蹴って跳び、瞬時に段差を越える。
猟犬たちは、段差の下でまごついている。
おまえは先んじる。
さらに速度をあげた。
同時に、さきほど地面に手をついたときに掴み取っていた小石を、打ち込んだ。
手応えは、あった。
どさりとなにかが倒れる音がした。
腿に差していたナイフを抜きはなち、音がした物陰へと跳んだ。
……あやういところで、刃先を止められた。
ナイフを突き刺そうとした相手は、こちらを恐怖のまなざしで見返している。荒い息をつき、眉をゆがめ、片方の手で血まみれとなった耳を抑え、もう片方の手をこちらへ伸ばしている。手のひらが、『もうやめて』と懇願するように震えている。
――ひとだ。
おまえは周囲をさぐる。
ほかに、追跡からのがれようと動く影は、見受けられない。じぶんたちが追いかけ、追いつめていたのは、まちがいなく、目の前のこの洞人の少年だ。
――まちがったか。
歯噛みした。
こんな夜に、子供が出歩いていようとは思いもしなかった。じぶんともあろうものが、誤射で人間を傷つけるとは。失態というほかはない。
だが、この子を獲物と思い込んでいたのは、ほかの猟犬も、若旦那さまもおなじだ。これだけの面々が、みな誤ったというのか。
少年に目をやった。
なぜ、この子供は走っていたのか。
なぜ、追われていると分かったのか。
そもそも、どうしてこんな夜に、こんな子供がひとりきりで森のなかにいるのか。
はた、と思い当たる。
『おまえは、とうぼうどれいか?』
「えっ……あ……なんですか……?」
手話で訊いて、伝わるわけがない。
おまえは首を振り、喉を震わせるあれを試してみることにした。
「おまぁえ……は……とうぼおう……どれい、か……?」
少年が、すこしかんがえてから、あわてて首を横に振った。
そんなわけがない、とでも言いたげなしぐさだった。
「おまぁえ……は……なんだ?」
「どれいです。逃げてはいません。ただ、だんなさまに連れだされて、ひと晩森のなかを走りまわれって、言われました」
少年のくちびるが、そうことばをつくる。
「追いかけてくるから、捕まるなって。なるべく走りまわれって、そう言われました。ぼく、だんなさまの言うとおりにしています。耳、いたくありません。だいじょうぶです。ぼく、走れます。まだ、走れます」
少年は、耳をおさえていた手を、離した。
耳の端がちぎれ、血が流れつづけている。おまえが打った飛礫による傷だと、ひと目で分かった。
少年が、笑おうとする。ぷっと、血が吹き出た。
耳鳴りが、ひびいた。
頭のなかで、地割れが起きたようだった。ふるえの域を超え、頭蓋がまるごとがくがくと揺すぶられ、おまえは絶叫していた。喉をふるわせる感覚のおおきさは、おまえがいままでに経験したことのないようなものだった。
おまえには知るよしもなかったが、
その声はまるで、狼の遠吠えのようだった。
我にかえる。
荒い息をつきながら、地面に両手のひらをついていた。
顔を上げる。
少年が、おびえた表情で立っている。
風が揺らぎ、ここへ駆けてくるけものの気配を伝えてきた。
猟犬だ。
回り道を見つけたのだろう。
こちらの声を、聞きつけたのかもしれない。
おまえは立ち上がる。
怒りが視界をまっくろに染めてしまう時間は、過ぎ去っている。すでに平静をとりもどしている。
六頭の猟犬が、殺到してくるのが分かった。
遅れて少年が猟犬に気づき、逃げ出そうと腰を浮かすのを、手のひらで制止した。
じぶんの後ろにまわるよう、身振りで示す。
少年がしたがった。
おまえは、腰を落とし、構える。
さいしょの一頭が、来た。
少年に飛びかかろうとするのを、横合いから首根っこをつかまえることで、止めた。
そのまま手首におもいきり力をこめて、ねじる。
頚椎がへし折れる感触とともに、犬が絶命した。
すぐに手をはなした。
その場に死骸を取り落とすと、二匹目にそなえる。
あらわれた二頭目が、さいしょの一頭の死骸を見て面食らったように脚を止めたところへ、上からナイフをたたきこんだ。
かんぜんに動きが止まり、命がうしなわれたのをたしかめた。
ナイフを引き抜き、今度は躊躇せずに飛び込んできた三頭目の正面から、喉笛へと刃をすべりこませた。
血の筋を空中に軌跡として残しながら、同時に飛びかかってきた四頭目の鼻面を拳で殴りつけ、つづく五頭目の牙を前腕の手甲を噛ませることで躱した。
四頭目がもんどりうって体勢をととのえようとしているところへ、五頭目のからだを上から叩きつけた。
前腕から、牙が離れた。
六頭目は横合いから飛びついてきた。
とっさに反対側へとからだを倒し、地面を転げながら攻撃をいなす。噛みついてこようとした鼻面をつかまえ、握力でその口吻を開けないように掴んでおいて、そのまま横へと引きずりたおす。あらわになった腹部へ、拳を叩き込んだ。
六頭目が絶息したのを知ると、おまえはゆうゆうと立ちあがり、背骨をいためてよろついている四頭目と五頭目へ、両手のひらに逆手で持ったナイフを、たたきこんだ。
刃を、ひきぬく。
それで、終いだった。
手近な死骸の毛皮へナイフの刀身をこすりつけ、たんねんに血と脂をぬぐい去ったのち、太腿のホルダーへと仕舞った。
少年をふりむく。
頭でも抱えて丸まっているかと思ったが、意外にも、死んだ犬たちを見て呆然としていた。
一部始終を、見ていたのかもしれない。
――なら、いいかりうどになる。
そんなことを、思った。
おまえは少年に手をさしのべる。
少年が、ようやく犬たちの死骸から目をはなし、こちらへと向き直った。
「つぅいて……こい」




